放課後も最近では昼間と変わらないくらい明るい。梅雨明け宣言はないものの、夏がきたことを教えているよう。

昇降口で靴を履き替えていると、武田さんが走ってくるのが見えた。

帰る間際になって、武田さんは先生に委員会の用事で呼ばれていた。遅くなってしまって焦っているみたい。

風紀委員の武田さんが廊下を走るなんて、よほどの用事なのだろう。

もどかしそうに靴を履き替えた武田さんが、その時初めて私に気づいた様子で動きを止めた。

視線が久しぶりに合う。が、やはりすぐに彼女は目を伏せてしまった。いつもなら黙って行き過ぎるのを待つだけなのに、無意識に私は武田さんの肩に手を置いていた。

「ヒッ」

短い悲鳴をあげた武田さんに驚きながらも、チャンスは今しかない、と決意する。前にまわり込むと、頭を下げた。

「ごめんなさい」

「え……?」

顔を上げると、彼女は戸惑いをいっぱいに浮かべている。

「私、なにか怒らせるようなことをしたんでしょう? だから、避けているんだよね?」

「あの、私……」

「だけど、クラスメイトに避けられているのってつらいんだよね。私、バカだからきっとすごい失敗とかしたんだろうね」

自嘲気味な笑いに、武田さんが小刻みに震え出した。違う、必死で小さく首を横に振っているのだ。

「わ、私が……私が悪いんです。高橋さんはなにも悪くないんです」

「え……」

そうつぶやいたのは、武田さんの目に涙がたまっていくのがわかったから。必死で唇をかんで耐えながら、武田さんは深く頭を下げる。

「私こそごめんなさい」

「それって……」

理由を聞こうとした私に、武田さんはもう一度「ごめんなさい」と小さな声で言うと走って玄関を出ていってしまった。

どういうこと……?

武田さんが私になにかしたってこと?

それは公志とつき合ったことを指しているのだろうか? 疑問ばかりが頭に浮かびフリーズしていると、

「お、ここにいたか」 右側から急に声が聞こえ、文字どおり飛び上がった。

「ビックリした! 急に声かけないでよ」

「茉奈果がぼんやりしてるからだろ」

制服姿の公志が呆れた顔を隠そうともせずに立っていた。数日ぶりに会えたことでうれしいけれど、今はそれどころじゃない。

「それより、今の見てた?」

校門へ急ぐ武田さんのうしろ姿を見て尋ねるが、

「なにを?」

と、公志はぽかんとしている。

「あのね、今ね——」

「お前、ひとりでしゃべってると思われるぞ」

小声の忠告に我に返る。幸い、近くにいた生徒たちは会話に夢中になっているみたいで安心した。

「行くぞ」

そう言って歩き出した公志は玄関の戸をすり抜けて外に出てしまう。急いで私もカバンを手に追いかける。

「行くってどこへ?」

隣に並んでヒソヒソと聞くけれど、公志はそ知らぬ顔で足を止めない。

「それよりどこにいたのよ。最近、ちっともこなかったじゃない」

チラッと私を見た公志がポケットに手を入れてさらに早足になる。まるで徒競走のように校門を出ると、公志はようやく足をゆるめてくれた。

「ふたつの質問に答えると、今から行くのは遠中病院だ。この数日、大きな病院をしらみつぶしに探していたんだ」

「え、静佳ちゃんを見つけたの?」

驚く私に公志は自慢げに胸をそらせた。

「俺を誰だと思っている」

「すごい!」

また大声を出してしまい、慌てて口を閉じた。

「聖蓮病院とか医学医療センターとか、遠いところばっかり探しちゃってたけど、いちばん近い病院だったとはなぁ」

学校から遠中病院は歩いて十分ほどの距離。“赤電”と呼ばれる電車の駅のそばに、遠中病院はある。

ビル型の高い建物で、思いっきり顔を上げないと上層階は見えないほど。春前に千恵ちゃんが少しの間入院していたので、何度かお見舞いに行ったことがある。

「静佳ちゃんは、どんな感じの子なの? やっぱり元気なかった?」

歩きながら尋ねると、公志はポケットに手を突っ込んで軽くうなずく。

「看護師にも心を閉ざしてる感じだったな。ほとんどご飯も手をつけないらしい」

「それは病気で?」

横断歩道の向こうに病院の正面玄関が見えてくる。

「いや、すっかり完治したらしい。看護師同士がしゃべっているのを聞いてたんだけど、『入院してきた時より元気がない。やっと退院できるのにどうしてだろう?』ってさ」

自動ドアが開くと、公志はさっさとエレベーターのほうへ進んでいく。

たくさんの人がロビーを行き交っている。点滴を押しながら歩いている人、花束を持って受付に向かう男性、松葉杖で歩きにくそうな女性。

病気とは無縁の私からすれば異世界のように思える。みんなどんな思いでここにいるのだろう

「八階」

エレベーターに乗ると公志がそう言ったのでボタンを押す。壁にもたれた公志が苦し気に目を閉じている。

「具合、悪いの?」

ふたりきりのエレベーターが動き出す。

「それもある」

「それも、って?」

上がっていく浮遊感のなか、公志は頭をボリボリとかいた。

「ここに運ばれた時のことを思い出すと苦しくなるんだ。最期の場所だからだろうな」

「この病院に運ばれたんだ……」

余計なことを言ったと後悔しても遅い。全然知らなかったけれど、今さら伝えても言い訳っぽくなるだろうし……。

「暗い顔するなよ。そんなんじゃ静佳って子を元気づけられないだろ」

ムリして少し笑うと公志はまた目を閉じた。

——彼にもし触れられたなら。

その身体を抱きしめて、一緒に悲しんであげたかった。

だけど、触れることができない私たちの距離。私には、自分で握り拳を作るしかできないのだ。

静かに開いたドアから降りると、右へ進む公志。その背中を見て歩く。

子供の泣き声やアナウンスの音がしていて、病院特有の消毒液の匂いがしている。いちばん奥にあるドアの前で公志は立ち止まった。

「ここだ」
「うん……」

部屋番号が書かれたプレートの下には、個人情報の観点からか名前は載っていない。軽く深呼吸してノックをしてからスライド式のドアを引いた。

「失礼……します」

部屋は個室らしく、トイレらしきドアが右側にあり奥にベッドが見えた。

窓辺に立っていた女の子が振り返った。小学校高学年くらいだろうか、ボブカットに厚底のメガネをかけている。第一印象は真面目な感じがした。

「静佳ちゃん……ですか?」

警戒されるかと思ったけれど、静佳ちゃんは、

「そうです」

と、丁寧な返事でうなずいた。この間聴いた声は涙まじりだったのでラジオの声と同じかは自信ないけれど、名前が一緒だったので少し安心した。

「あの……突然ごめんなさい」

オドオドと頭を下げる私に、両手をうしろに回し窓枠にもたれた静佳ちゃんは、

「お姉さん、誰ですか?」

と揃えた前髪を揺らせて首をかしげた。

隣の公志を見やると、腕を組んでパイプ椅子に腰かけたところ。

「俺の姿は見えてないから、助けてあげられない」

と、大きなあくびをして目を閉じてしまう。少しくらいアドバイスとかしてくれてもいいのに、頼りないんだから……

しょうがない、と心を決める。

「私、高橋茉奈果っていいます。少しお話できませんか?」

知らない人と話をしてはいけないと言われています」

メガネを持ち上げて言う静佳ちゃんは、優等生らしく答えてから不審そうな顔で続けた。

「そもそもどうして私の名前を知っているのですか?」

「えっと……まぁ、なんていうか……」

言い訳を考えようとしてから、隠してもしょうがないと開き直った。同じように窓辺に行き、腰を曲げて静佳ちゃんと目線の高さを合わせる。

「信じてもらえないかもしれないけれど、私は静佳ちゃんのことを知っているんです。この間の夜、静佳ちゃんの声を聴いたの」

「ちょっと意味がわかりませんね」

ふう、と大人びたため息を落としてから静佳ちゃんはベッドに腰かけた。

「ですよね」

ヘラッと笑う私と対照的に無表情のまま

「わかるように説明をしてください」

と促してくる。

「はい」

まるで先生に詰問されているように小さくなる私を、ベッドの向こうの椅子に座る公志がケタケタ笑っている。もう、他人事だと思って。

「実は、不思議なラジオを持っているんです。私のおばあちゃんがくれたものなのですが、たまに人の声が聴こえるんです」

「……私をからかっているのですか?」

いぶかしげな顔をする静佳ちゃんに、「いえ」と否定した。

「本当なんです。数日前の夜に、静佳ちゃんらしき女の子の声が聴こえました」

背筋を伸ばした静佳ちゃんは、品定めをするようにじっと私を見ている。

そりゃそうだろうな。いきなり現れた人が意味のわからないことを言っているのだから。

「その女の子は言っていました。『生きていたい。だけど……生きていてもこの先になにがあるの?』と」 私の言葉に、厚いレンズ越しの目が大きく開かれた。

「それって……」

「あとは泣き声で聞き取れませんでした。きっと悩んでいると思って、必死で病院を探してきたんです」

「ここを探しあてたのは俺だろうが」

ベッドの向こうからツッコミが入るけれどムシすることにした。

「たしかに、それは私が……言ったことです」

静佳ちゃんは、眉をひそめて混乱したように目線をせわしなく左右に振った。

「やっぱりそうでしたか」

間違ってなかったんだ、と胸をなでおろす私をまだいぶかしげに見やってから、静佳ちゃんはゆるゆると首を振る。

「そこで立ち聞きしていたとかじゃないんですか?」

「いえ。あんな夜中に病院にはいません」

はっきりと答える私に、静佳ちゃんは再度眉をひそめ黙り込んだ。この上なく怪しいであろう私のことを、信じるかどうか決めかねている様子。公志を見ると目を細めて微動だにせず、まっすぐこちらを見ている。

どれくらい黙っただろう。

「ひとつだけ聞いてもいいですか?」

まっすぐに私を見て静佳ちゃんは尋ねた。

「はい」

うなずいた私に、少し迷ったそぶりをしてから、その口が開く。

「そのラジオは、聴きたい人の声は聴けるの? 『あの人の声が聴きたい』って願えば叶ったりする?」

丁寧な言葉遣いを封印した静佳ちゃんは、まるですがるような目をしていたので戸惑う。

「たぶん……そういうシステムではないように思います」

申し訳なさそうに言うと、静佳ちゃんは初めから答えがわかっていたかのように何度かうなずいて「やっぱりね」とこぼした。距離が縮まったのか、もう敬語じゃない話し方がさっきよりも幼く見せる。

「声を聴きたい人がいるの?」

くだけた口調の私を気にする様子もなく、静佳ちゃんはあいまいにうなずいた。

「聞いてみただけだから」

言葉と裏腹に残念そうな表情にウソをついているのが伝わってくる。なにか静佳ちゃんも胸に抱えているのかもしれない。それが静佳ちゃんを苦しめている原因なのかも……。

「でも、信じられない」

少し硬い言葉になった静佳ちゃんが言った。

「そうだよね、私も最初は信じられなかった。だけど、聴こえたの」

「違う。そのことじゃない」

軽く首をかしげた静佳ちゃんは、

「ラジオのことじゃなくて、茉奈果さん……だっけ? あなたを信じられないって言ったの」

と、挑むように私を見た。

さっきまでの子供っぽい顔ではなく、まるで怒っているみたいな表情に戸惑う。

「私のこと?」

「なんで私に会いにきたの? 声が聴こえたからって普通は探してまで会いにこないよ。他人なんだから放っておけばいいのに」

「それは……」

言いよどんだ私に、静佳ちゃんはなにかを悟ったみたいにうなずく。

「ひょっとしてお母さんとかお姉ちゃんに頼まれたんじゃないの? 『静佳を元気づけてほしい』って言われたとか。バイト代とかもらってるんじゃない?」

「そんなことありません」

「でも、誰かのためにここにきたのはたしかでしょう?」

やはり頭がいいらしく、ズバッと本質をついてくる静佳ちゃんに言葉を失った。すぐに理解したのか、静佳ちゃんは「そう」とうなずくとスッと目を細めた。

あたりの空気が急にとがったように思える。

「茉奈果さんは、私を心配しているんじゃなく、他の誰かのために会いにきたんだ」

「静佳ちゃん、聞いてほしいの。私は——」

「うわべだけの心配をするなんて、茉奈果さんは冷たい人なんですね」

私にかぶせられた言葉は、丁寧な言葉遣いとは裏腹に刃物のように突き刺さった。言葉に詰まりうつむいてしまう。やがて、彼女は静かに言った。

「もう話すことはありません。お帰りください」 それがその日聞いた、彼女の最後の言葉だった。