後悔はいつも自覚した時に大きな怪物となって背後に迫っている。気づいたときにはもう遅い。足元をすくわれて一気に絶望へと落ちていく。
夜が更けて、たっぷりと濃い黒の空を吸い込むと、影も大きく膨らんでいくように思えた。真実に耐えきれず家を飛び出してしまい、行くあてもなくフラフラとさまよい歩くと、自分がいかに幽霊であるのか思い知った。
死んだように生きている。それも白々しいほどに、当然に。死にたいと願いながら生きているのが恥ずかしい。消えてしまいたい。それなのに、生きなければいけない。
自分よりも生きるべき人が命を落とすのは残酷だ。もどかしいほどに人は脆くて儚い。
サトルの本心を聞いたときからずっと考えていた。だから助けたいと、曖昧にも純粋に感じていた。今は、サトルのために生きなくてはいけないという使命感が宿っている。同時にそれがおこがましいとも思えた。
結局、どうすればいいのか分からない。真実を伝えることもできない。彼は傷ついてしまうだろう。あの夜のように壊れてしまうだろう。
人のいない歩道橋をのぼる。高さのある場所に来ると、足下を車が走り抜けていった。その速さに恐怖を抱く。このまま落ちてしまえば――
「――真彩っ!」
唐突に歩道橋の向こう側から、予期しない声が響いてきた。重たい目を向けると、そこにはサトルがいる。
「……え、なんで」
彼の顔を見ると、体の内側に潜む冷たい影がうごめくようだった。恐怖の波が迫りくる。怖い。
――来ないで。こっちに来ないで。
すぐに引き返して走った。逃げてしまえばいい。今は。今だけは逃げてしまいたい。
足がもつれそうになるのを堪えてひたすら走る。その後ろを足音が追いかけてくる。
「真彩、上を見ろ!」
鋭い声が飛び、真彩はつまづいた。体が大きく飛び出し、道に投げ出される。咄嗟に手をつくと、上空が陰った。
「えっ……」
目の前に真っ黒な影があった。大きく膨らみ、今にも弾けそうな塊が真彩の頭を掴もうとしている。幾度となく見た黒い影。いつの間に。どうして今、追いかけてくるのか。恐怖と寒気で全身が強張った。
「真彩!」
サトルが追いつき、真彩の腕を掴む。冷たい感触に驚いた。決して触れていないのに、不思議と彼の手に導かれるまま立ち上がることができた。
「走れ! あの影に捕まるともう戻ってこられないぞ!」
半透明の手が離れながら揺れる。その手を掴むように自然と腕を伸ばす。同時に影も手を伸ばしている。
先を走っていくサトルを追うように、真彩は地面を蹴った。狭い路地に入り込む。影は形を変えて迫っていた。
「ねぇっ! あれ、何!?」
「今はとにかく走れ! 説明はあと!」
確かにその通りだろう。サトルの残像を追いかけるのがやっとで、おまけに路地は走りにくい。出口が見えない長いトンネルのようだ。熱と冷気が肌を滑っていく。加速する。転がるように走る。
その先に、人影があった。街灯に当たり、陰影を浮かべたフードが見えてくる。
「カナト!」
先を走るサトルが叫ぶ。すると、カナトの両腕がすらりと上がった。手に何かを持っている。そこに飛び込むと、彼はその場に立ったまま、真彩とサトルを受け止めた。
瞬間、何が起きたのか分からない。気がつくと、真彩はうつぶせで歩道に倒れていた。
「はぁー……間一髪だねぇ。おつかれさま」
体がだるい。起き上がるのがつらく、顔を上げるのがやっとだった。
「もう、なんなの……急に、何?」
「影を捕らえた。それだけだよ」
カナトの背中が軽快に話す。真彩は仰向けに態勢を変えて、空を見上げた。サトルの心配そうな顔が覗く。
「真彩、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、だけど……せつめい、して」
息が荒れる。酸素不足で頭がまわらない。
「あの影はね、君そのものなんだよ。真彩ちゃん」
カナトが言う。彼は路地の中を睨んでいた。黒い影は何かに阻まれているかのように動きを止めている。言葉の意味もこの状況も分からない。
「わたし?」
「そう。あれは君の後悔でできた怪物だ」
「幽霊じゃなくて?」
「影は人間の裏側だからね。生きていようが死んでいようが、負の感情は溜まるものだ。それを君は無責任にもあの場所に置き去りにしたんだ。わけは聞かないけれどね」
その厳しい言葉に、真彩はきしむ体を起こした。影を見つめる。真っ黒で不気味。苦しそうな暗さ。無性に泣き叫びたくなる。なぜそこまで共鳴するのか分からなかった。でも、言われてみれば納得できる。
「後悔……って言っていいのか分かんないな」
そんな言葉で表すのもためらうくらい、自分はいろいろなものを抱え込んでいる。飲み込まれてもおかしくない。忘れて消化してしまえばいいのに、できなかった。甘かった。現実を直視するのが怖いくせに、できるつもりになっていた。自分の無力さを知って、不安が募っていく。
真彩はぐったりとうつむいた。
「わたしは……ずっと、怖い。否定されるのも、消えてしまうのも、自分を許せないのも、ぜんぶ、怖い」
目の前の今も怖い。生きていることに罪悪感を持って、ずっと引きずっている。怖くてたまらない。いくら流しても枯れない涙が地面を濡らしていく。息をするのも苦しくて、感情がとめどなく溢れていく。
「――真彩」
頭の上に柔らかな声が落ちてきた。いつの間にかサトルがひざまずいて、真彩の様子を下から窺っていた。
半透明な指が髪を触る。その冷たさに驚いて、顔を上げた。しゃくりあげて、涙でぐしゃぐしゃになった顔をサトルは眉を寄せて笑う。その無邪気な顔を見るとまた悲しくなる。いくつものいろんな感情が混ざっていく。
「サトルくん……ごめんなさい」
痛む喉を押さえながら、苦し紛れに声を振り絞った。
「え?」
「ごめんなさい。こんな言葉じゃ足りないけど、でも、ごめんなさい」
サトルは場違いなほど気が抜けた声を漏らす。
「えーっと……ん? あのときのことはもう全然いいよ?」
「良くない! 良くないの。わたしはあんなことを言っちゃいけないから」
――伝えるのが怖い。
本当は伝えないほうがいいかもしれない。でも、それは結局、自分が逃げたいだけだ。彼は知らなければいけない。それが彼へのせめてもの餞(はなむけ)だ。
「……わたしは、サトルくんに助けてもらって、生きてる。事故にあったとき、あなたに助けてもらったの」
声がうまく出せない。息をするのもつらい。彼の顔を見るのが怖い。どう思われても仕方ない。罵倒され、責められてもいい。償えないから、それだけしかできない。
「俺が助けた? 真彩を?」
一時の間を置いて、彼はささやくように聞いた。その静けさが怖い。
「そう。サトルくんが、わたしを助けてくれたの」
「事故にあったとき、助けた……?」
言葉を反復する。信じられないといった困惑の声が、わずかに遠ざかる。サトルは地面に座り込み、呆然とした。髪をかきあげて下を向く。それを汗にまみれた前髪の隙間から見た。
やがて、サトルは丸い目を揺らがせて額を抑えた。そのまま肩を落として頭を振る。半透明の体が、風に煽られてなびいた。
「……あぁ、そうだ」
憔悴の声。かすれている。
真彩は肩を上げ、その音に怯えた。
「そうだ。俺は、女の子を助けようとして、道路に飛び出したんだ」
「ごめんなさい。わたしのせいで、あなたが」
言葉は続かず、息が止まる。サトルは頬を緩めて笑っていた。
「助かったんだ……」
「え……」
「助かったんだな。あの時の子。それが真彩だったんだ……そっかぁ」
言いながら真彩の頭を撫で回す。冷たい風が頭に巻き付くだけなのに、サトルは構わず真彩の頭をぐしゃぐしゃにした。
その時、脳内にぽつんと明かりが灯った。赤い記憶。衝撃音のあとの静寂。そして、強すぎるぬくもり。
――助かってくれ。
その必死な声が頭の中で響いた。
「うわぁ、良かった。本当に良かった。俺さ、ずっと助かってくれって、祈ってたんだよ」
「うそ……」
「嘘なもんか。でなきゃ、助けないって。あー、安心したらちょっと泣けてきた」
サトルは目尻を親指で押した。ずっと笑っている。次第にその口角が震えた。
「うわぁー、本当にダメだ。ちょっと真彩、見ないで。俺、今かっこわりぃから」
「それ、今気にするところか?」
後ろからカナトが水を差す。それに対し、サトルが腕を振り上げて怒った。
「割り込んでくんなよ!」
「いや、だって、しみったれた空気はちょっと……」
「今さらそんなの気にしてどうすんだよ!」
「そっちこそ、妙なところで意識してどうするんだ」
突然始まる口論についていけない。でも、彼らはなんだか満足そうに顔を見合わせて笑っていた。ひとしきり笑うと、サトルは手のひらで涙を拭った。カナトもしゃがみ、二人の顔を覗き込む。
「まぁ、そういうことだねぇ。真彩ちゃん、君の後悔はあまりにも巨大すぎる」
未だ影がうごめく路地を指す。カナトの口調は珍しく場に合って、いつものように軽々しい。
「でも、もう分かっただろう? 人間なんて、結局生きてるだけで後ろめたいもの。今は無理でも、ゆっくり折り合いをつけて、今を大事にしたらいいんじゃないか」
「そうやっておいしいとこをサクッと持ってくのな、お前は。本当に嫌なやつ」
サトルが呆れたように言った。カナトの口が不機嫌に曲がる。不満そうな顔を見せるところ、彼なりに気遣っていたのだろう。
真彩は項垂れて、大きく息を吸った。まだ喉は痛むが、鬱屈したもやもやはなんとなく引いてきたように思える。安心したサトルの言葉が、冷えた心を温めていく。固く強張っていた体を溶かすようで、真彩は吸った空気を飲み込んだ。
その瞬間、路地の影が動きを止める。ゆっくりと、ゆっくりと黒い粒子が収縮していく。勢いをなくした影はやがて、大人しく揺らめく小さな靄となった。
「まだ残ってる……」
「いっぺんに消えてしまうもんじゃないからねぇ」
のほほんと穏やかなカナトに、真彩は眉を寄せて、肩を落とした。
「ところで、サトルくんの影はきれいさっぱり消えたなぁ。やっぱり、記憶を取り戻したら未練もなくなるものだね」
「え?」
言われるまで気づかなかったのか、サトルは立ち上がって全身を見渡した。
「おぉー! ほんとだ! 元に戻った!」
嬉しそうに両腕を曲げ伸ばして見せびらかす。
「体も軽くなった。すげー楽だわ」
「そいつは何よりだねぇ」
すかさずカナトがため息交じりに言う。
「なんで残念そうなんだよ」
「これで絶対に悪霊にならないからね。もう成仏もできるんじゃないか」
その指摘に、真彩とサトルは同時に息を止めた。顔を見合わせる。
「あー……そっか。そうだ。解決しちゃったからなぁ」
サトルは気まずそうに空を見上げた。満点の星が瞬く夜。影のない、まっさらな夜は透明感があった。
真彩は何も言えなかった。本当にこれでお別れする――実感がない。でも、心臓がぎゅっと縮まるように寂しくなる。
すると、サトルがこちらを見た。
「あのさ……真彩にお願いがあるんだけど」
遠慮がちにボソボソと言うから、真彩は彼の顔を覗き込んだ。
「……一つだけ、わがまま聞いてもらってもいい?」
どんな頼みでもいい。彼のためなら。真彩は迷いなくうなずいた。
夜が更けて、たっぷりと濃い黒の空を吸い込むと、影も大きく膨らんでいくように思えた。真実に耐えきれず家を飛び出してしまい、行くあてもなくフラフラとさまよい歩くと、自分がいかに幽霊であるのか思い知った。
死んだように生きている。それも白々しいほどに、当然に。死にたいと願いながら生きているのが恥ずかしい。消えてしまいたい。それなのに、生きなければいけない。
自分よりも生きるべき人が命を落とすのは残酷だ。もどかしいほどに人は脆くて儚い。
サトルの本心を聞いたときからずっと考えていた。だから助けたいと、曖昧にも純粋に感じていた。今は、サトルのために生きなくてはいけないという使命感が宿っている。同時にそれがおこがましいとも思えた。
結局、どうすればいいのか分からない。真実を伝えることもできない。彼は傷ついてしまうだろう。あの夜のように壊れてしまうだろう。
人のいない歩道橋をのぼる。高さのある場所に来ると、足下を車が走り抜けていった。その速さに恐怖を抱く。このまま落ちてしまえば――
「――真彩っ!」
唐突に歩道橋の向こう側から、予期しない声が響いてきた。重たい目を向けると、そこにはサトルがいる。
「……え、なんで」
彼の顔を見ると、体の内側に潜む冷たい影がうごめくようだった。恐怖の波が迫りくる。怖い。
――来ないで。こっちに来ないで。
すぐに引き返して走った。逃げてしまえばいい。今は。今だけは逃げてしまいたい。
足がもつれそうになるのを堪えてひたすら走る。その後ろを足音が追いかけてくる。
「真彩、上を見ろ!」
鋭い声が飛び、真彩はつまづいた。体が大きく飛び出し、道に投げ出される。咄嗟に手をつくと、上空が陰った。
「えっ……」
目の前に真っ黒な影があった。大きく膨らみ、今にも弾けそうな塊が真彩の頭を掴もうとしている。幾度となく見た黒い影。いつの間に。どうして今、追いかけてくるのか。恐怖と寒気で全身が強張った。
「真彩!」
サトルが追いつき、真彩の腕を掴む。冷たい感触に驚いた。決して触れていないのに、不思議と彼の手に導かれるまま立ち上がることができた。
「走れ! あの影に捕まるともう戻ってこられないぞ!」
半透明の手が離れながら揺れる。その手を掴むように自然と腕を伸ばす。同時に影も手を伸ばしている。
先を走っていくサトルを追うように、真彩は地面を蹴った。狭い路地に入り込む。影は形を変えて迫っていた。
「ねぇっ! あれ、何!?」
「今はとにかく走れ! 説明はあと!」
確かにその通りだろう。サトルの残像を追いかけるのがやっとで、おまけに路地は走りにくい。出口が見えない長いトンネルのようだ。熱と冷気が肌を滑っていく。加速する。転がるように走る。
その先に、人影があった。街灯に当たり、陰影を浮かべたフードが見えてくる。
「カナト!」
先を走るサトルが叫ぶ。すると、カナトの両腕がすらりと上がった。手に何かを持っている。そこに飛び込むと、彼はその場に立ったまま、真彩とサトルを受け止めた。
瞬間、何が起きたのか分からない。気がつくと、真彩はうつぶせで歩道に倒れていた。
「はぁー……間一髪だねぇ。おつかれさま」
体がだるい。起き上がるのがつらく、顔を上げるのがやっとだった。
「もう、なんなの……急に、何?」
「影を捕らえた。それだけだよ」
カナトの背中が軽快に話す。真彩は仰向けに態勢を変えて、空を見上げた。サトルの心配そうな顔が覗く。
「真彩、大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ、だけど……せつめい、して」
息が荒れる。酸素不足で頭がまわらない。
「あの影はね、君そのものなんだよ。真彩ちゃん」
カナトが言う。彼は路地の中を睨んでいた。黒い影は何かに阻まれているかのように動きを止めている。言葉の意味もこの状況も分からない。
「わたし?」
「そう。あれは君の後悔でできた怪物だ」
「幽霊じゃなくて?」
「影は人間の裏側だからね。生きていようが死んでいようが、負の感情は溜まるものだ。それを君は無責任にもあの場所に置き去りにしたんだ。わけは聞かないけれどね」
その厳しい言葉に、真彩はきしむ体を起こした。影を見つめる。真っ黒で不気味。苦しそうな暗さ。無性に泣き叫びたくなる。なぜそこまで共鳴するのか分からなかった。でも、言われてみれば納得できる。
「後悔……って言っていいのか分かんないな」
そんな言葉で表すのもためらうくらい、自分はいろいろなものを抱え込んでいる。飲み込まれてもおかしくない。忘れて消化してしまえばいいのに、できなかった。甘かった。現実を直視するのが怖いくせに、できるつもりになっていた。自分の無力さを知って、不安が募っていく。
真彩はぐったりとうつむいた。
「わたしは……ずっと、怖い。否定されるのも、消えてしまうのも、自分を許せないのも、ぜんぶ、怖い」
目の前の今も怖い。生きていることに罪悪感を持って、ずっと引きずっている。怖くてたまらない。いくら流しても枯れない涙が地面を濡らしていく。息をするのも苦しくて、感情がとめどなく溢れていく。
「――真彩」
頭の上に柔らかな声が落ちてきた。いつの間にかサトルがひざまずいて、真彩の様子を下から窺っていた。
半透明な指が髪を触る。その冷たさに驚いて、顔を上げた。しゃくりあげて、涙でぐしゃぐしゃになった顔をサトルは眉を寄せて笑う。その無邪気な顔を見るとまた悲しくなる。いくつものいろんな感情が混ざっていく。
「サトルくん……ごめんなさい」
痛む喉を押さえながら、苦し紛れに声を振り絞った。
「え?」
「ごめんなさい。こんな言葉じゃ足りないけど、でも、ごめんなさい」
サトルは場違いなほど気が抜けた声を漏らす。
「えーっと……ん? あのときのことはもう全然いいよ?」
「良くない! 良くないの。わたしはあんなことを言っちゃいけないから」
――伝えるのが怖い。
本当は伝えないほうがいいかもしれない。でも、それは結局、自分が逃げたいだけだ。彼は知らなければいけない。それが彼へのせめてもの餞(はなむけ)だ。
「……わたしは、サトルくんに助けてもらって、生きてる。事故にあったとき、あなたに助けてもらったの」
声がうまく出せない。息をするのもつらい。彼の顔を見るのが怖い。どう思われても仕方ない。罵倒され、責められてもいい。償えないから、それだけしかできない。
「俺が助けた? 真彩を?」
一時の間を置いて、彼はささやくように聞いた。その静けさが怖い。
「そう。サトルくんが、わたしを助けてくれたの」
「事故にあったとき、助けた……?」
言葉を反復する。信じられないといった困惑の声が、わずかに遠ざかる。サトルは地面に座り込み、呆然とした。髪をかきあげて下を向く。それを汗にまみれた前髪の隙間から見た。
やがて、サトルは丸い目を揺らがせて額を抑えた。そのまま肩を落として頭を振る。半透明の体が、風に煽られてなびいた。
「……あぁ、そうだ」
憔悴の声。かすれている。
真彩は肩を上げ、その音に怯えた。
「そうだ。俺は、女の子を助けようとして、道路に飛び出したんだ」
「ごめんなさい。わたしのせいで、あなたが」
言葉は続かず、息が止まる。サトルは頬を緩めて笑っていた。
「助かったんだ……」
「え……」
「助かったんだな。あの時の子。それが真彩だったんだ……そっかぁ」
言いながら真彩の頭を撫で回す。冷たい風が頭に巻き付くだけなのに、サトルは構わず真彩の頭をぐしゃぐしゃにした。
その時、脳内にぽつんと明かりが灯った。赤い記憶。衝撃音のあとの静寂。そして、強すぎるぬくもり。
――助かってくれ。
その必死な声が頭の中で響いた。
「うわぁ、良かった。本当に良かった。俺さ、ずっと助かってくれって、祈ってたんだよ」
「うそ……」
「嘘なもんか。でなきゃ、助けないって。あー、安心したらちょっと泣けてきた」
サトルは目尻を親指で押した。ずっと笑っている。次第にその口角が震えた。
「うわぁー、本当にダメだ。ちょっと真彩、見ないで。俺、今かっこわりぃから」
「それ、今気にするところか?」
後ろからカナトが水を差す。それに対し、サトルが腕を振り上げて怒った。
「割り込んでくんなよ!」
「いや、だって、しみったれた空気はちょっと……」
「今さらそんなの気にしてどうすんだよ!」
「そっちこそ、妙なところで意識してどうするんだ」
突然始まる口論についていけない。でも、彼らはなんだか満足そうに顔を見合わせて笑っていた。ひとしきり笑うと、サトルは手のひらで涙を拭った。カナトもしゃがみ、二人の顔を覗き込む。
「まぁ、そういうことだねぇ。真彩ちゃん、君の後悔はあまりにも巨大すぎる」
未だ影がうごめく路地を指す。カナトの口調は珍しく場に合って、いつものように軽々しい。
「でも、もう分かっただろう? 人間なんて、結局生きてるだけで後ろめたいもの。今は無理でも、ゆっくり折り合いをつけて、今を大事にしたらいいんじゃないか」
「そうやっておいしいとこをサクッと持ってくのな、お前は。本当に嫌なやつ」
サトルが呆れたように言った。カナトの口が不機嫌に曲がる。不満そうな顔を見せるところ、彼なりに気遣っていたのだろう。
真彩は項垂れて、大きく息を吸った。まだ喉は痛むが、鬱屈したもやもやはなんとなく引いてきたように思える。安心したサトルの言葉が、冷えた心を温めていく。固く強張っていた体を溶かすようで、真彩は吸った空気を飲み込んだ。
その瞬間、路地の影が動きを止める。ゆっくりと、ゆっくりと黒い粒子が収縮していく。勢いをなくした影はやがて、大人しく揺らめく小さな靄となった。
「まだ残ってる……」
「いっぺんに消えてしまうもんじゃないからねぇ」
のほほんと穏やかなカナトに、真彩は眉を寄せて、肩を落とした。
「ところで、サトルくんの影はきれいさっぱり消えたなぁ。やっぱり、記憶を取り戻したら未練もなくなるものだね」
「え?」
言われるまで気づかなかったのか、サトルは立ち上がって全身を見渡した。
「おぉー! ほんとだ! 元に戻った!」
嬉しそうに両腕を曲げ伸ばして見せびらかす。
「体も軽くなった。すげー楽だわ」
「そいつは何よりだねぇ」
すかさずカナトがため息交じりに言う。
「なんで残念そうなんだよ」
「これで絶対に悪霊にならないからね。もう成仏もできるんじゃないか」
その指摘に、真彩とサトルは同時に息を止めた。顔を見合わせる。
「あー……そっか。そうだ。解決しちゃったからなぁ」
サトルは気まずそうに空を見上げた。満点の星が瞬く夜。影のない、まっさらな夜は透明感があった。
真彩は何も言えなかった。本当にこれでお別れする――実感がない。でも、心臓がぎゅっと縮まるように寂しくなる。
すると、サトルがこちらを見た。
「あのさ……真彩にお願いがあるんだけど」
遠慮がちにボソボソと言うから、真彩は彼の顔を覗き込んだ。
「……一つだけ、わがまま聞いてもらってもいい?」
どんな頼みでもいい。彼のためなら。真彩は迷いなくうなずいた。