「アレス! やめて! 逃げて!」

ソフィアは黒い翼をはためかせ、魔法を放ったにもかかわらず、俺の元へと向かおうとする。

その頬には一筋の涙が伝っていた。

しかし、黒く大きな魔力の塊は、俺たちへと迫りくる。

​俺は神の守りを展開し、黒玉を跳ね返そうと構えた。

そのとき、背後から静かで澄んだ声が響いた。

「──氷結せよ」

​その声は、深々と雪が積もった森の静寂を思わせた。

続く詠唱は、まるで天空から降り注ぐ氷の礫が、地表を打ち砕く音のようだった。

​「深淵の底、終着の地、時の止まりし絶対なる凍土より、全ての生命と熱を奪い、無に帰せしめたる永遠の檻となれ」

​響き渡る声とともに、世界が急速に青白く染まっていく。

俺たちに向かっていた黒玉の周囲から、無数の氷の結晶が瞬く間に生成され、まるで獲物を絡め取る蜘蛛の糸のようにその塊を包み込んでいく。

​「絶対零度(ゼロアブソルート)

​その叫びが、氷の嵐を呼び起こした。

黒玉を覆った氷は、瞬く間に膨張し、内部の凄まじい熱量すらも瞬時に無力化していく。

それはただ凍りつかせるだけでなく、存在そのものを『停止』させるような、根源的な力の顕現だった。

轟音と共に、黒玉は完全な氷塊と化し、その勢いを保ったまま、俺たちへと迫るソフィアの半身を巻き込み、凍りつかせた。

​「っ!」

​いったい何が起こったのか。

その理解を阻むほどの激しい冷気が闘技場全体を襲い、観客席の地面はみるみるうちに白く凍りついていく。

その現象の中心に、まるで雪の精霊が降り立ったかのように、一人の人影が現れた。

「まったく……人が静かに治癒に専念していたって言うのに、無駄な魔力を使わせるな」

その人物の周囲には冷気が渦巻いており、ただそこに立っているだけで、足元の地面はゆっくりと凍り始めていた。

「カレンの頼みだからな……今回は特別だ」

その人物は音もなく静かに客席から地面へと降り立つと、俺たちに向かってゆっくりと歩き出す。

太陽の光を浴びて、その髪はまるで冬の朝の氷のように淡く輝く青色を放っていた。

その下に宿る青紫色の瞳は、深海の底のように冷たく、何者も寄せ付けない静寂を湛えている。

そして、その身にまとっているのは、分厚い毛皮や温かみのある織物で作られた、北の部族の衣装だった。

冷気と暖かさが共存するような、幻想的な姿。

彼女は俺たちの前を通り過ぎると、氷漬けになった魔人ソフィアの元へと歩いていく。

「氷の中はどんな気分だ?」

その声は、深々と雪が積もった森のように静かで、一切の感情を乗せていなかった。

俺たちの前にいるその女性は、ソフィアの魔人化した姿を見て驚く素振りは一切見せなかった。