☆ ☆ ☆
「クソ! クソォ! クソッタレが!!」
暴食の悪魔の本体は、全身の粒子を震わせ激しい屈辱と怒りに身を捩った。
せっかく、この世界で最も喰らいたかった魔人族の体を見つけ、行動を開始したというのに、あのエアの代行者の男――ブラッドによって、活動停止を余儀なくされてしまった。
まさかこの島に、あの男が来ていただなんて……計算外の、許しがたい誤算だった。
「だがこの世界の連中は、肉体を持たないオイラの存在そのものを感知できない。今こそ、あの魔人の女を、誰にも気づかれずに喰らい尽くす絶好の機会だ」
オイラは、喜びと悪意に歪んだ笑みを粒子状の核に浮かべながら、ソフィアが静かに眠る部屋へと、黒い霧の尾を引きながら侵入した。
すると、オイラの粘着質で邪悪な気配を感じ取ったのか、ソフィアの側で丸まっていた艶やかな黒猫が、ピクリと耳を動かしゆっくりと目を開けた。
「この子に、一体何の用かしら?」
その、たおやかな女性の声が脳内に直接響き、オイラは驚いた。しかし、粒子の姿であるオイラをこの黒猫は視認できていないようだ。
「たかが、呪いを受けた黒猫ごときが、この暴食の大罪を冠する悪魔様を止められるとでも思っているのか?」
悪態をつきながら、オイラはソフィアのベッドサイドへ忍び寄る。
寝息を立てるソフィアの顔立ちは、かつてオイラが弄び、喰い殺した、あのエレノアと瓜二つだった。
あれは、オイラの粒子によって自我を汚染され、化物に変貌した魔人族たちが、自分たちが愛する世界を壊す前に、一族の滅びを選択した瞬間のことだ。彼らが泣きながら、あるいは絶望しながら、自らの命を絶っていったあの光景は……実に滑稽で、見ていてこれほど面白いものはなかった。あの時の絶望と献身の味は、今も忘れられない。
「ああ……本当に可愛らしい。この体と、その体内に宿る純粋な生命の雫を、今すぐ全て喰らい尽くしたい……」
「そんじゃ……いただきま――」
『おい……』
大口を開いて、ソフィアの体を喰らおうとしたその瞬間だった。
背後から、心臓の鼓動すら止めるほどの冷たさを帯びた、聞き覚えのある声が響いた。オイラは開けた口を咄嗟に閉ざした。
恐怖に支配されながら振り返ると、そこには、ソフィアと同じく翡翠色の短髪を持ち、怒りに鋭く細められた薄緑色の瞳を宿した男の魂が立っていた。
「な、何で死んだお前がここにいやがる!」
その体は透けて見え、月光に照らされて陽炎のように揺らめいていた。しかし、その存在感は、生きていた時よりも強烈だった。
「なんだ、お前肉体がないのかよ? そんな虚ろな魂の姿で、このオイラを倒せるとでも言うのか?」
『……ああ、そうだ』
奴は、透けた右手を伸ばし、容赦なくオイラの粒子状の核を鷲掴みにした。その瞬間、粒子が悲鳴を上げた。
『エレノアの次に、その娘の命の光まで奪おうとするのか?』
「す、既に死んでいるお前には、関係のないことだろ! 魔人王だろうと、死ねばただの魂だ!」
『いや、関係がある』
そう言うと、奴の瞳は薄緑から紅蓮の炎のような深い紅へと変貌した。その純粋な憎悪と、愛する者を護れなかった後悔が混ざった瞳に、オイラの粒子は本能的な絶対の恐怖を覚えた。
『あんたは……俺のエルにも、想像を絶する酷い事をした。それを忘れたとは言わせないぞ』
「そ、それは――」
確かに、エクレールを殺したのはオイラだ。遊び半分で全身を噛み砕き、両足を喰らって立てなくしてやった。
『あの時のエル姿を見て、俺がどれほどの魂の拷問を受けたのか……お前には永遠に理解できないだろう』
「っ!」
『だからお前には、これから、その存在の全てをもって存分に味わってもらう。俺が、あんたに抱いた業火のような憎悪と絶望、その全てをな!』
「ひっ!」
奴の胸元に、銀色に光る共振の紋章が浮かび上がり、その瞬間に翡翠色の髪は、神々しい銀髪へと変化した。その魂の力は、肉体を超越していた。
『死の覚悟は出来ているんだろうな?』
「こ、このクソ外道が! 今更昔の恨みを蒸し返して何になる! それにオイラを倒したところで、もう手遅れだ! この世界には、オイラ以外の六柱の悪魔が既に侵入しているんだからな!」
オイラの渾身の脅しを聞いても奴は動じない。
『そうか。だったら、お前たち七つの大罪も、既に遅すぎたと言うべきだな』
「な、なんだと?」
奴は俺の粒子を掴む手に、魂の魔力を込めた。
『俺たちも既に六人が目を覚ました。準備はもう、整っている』
「目が覚めただって? ふん、戯言を。体を持たないお前に何ができる!」
『……体なら、あるさ』
その言葉と共に、奴は共振の力をオイラに叩きつけるように発動させた。
さすがにこれは死を意味すると察したオイラは、命乞いをした。
「ま、待ってくれ! 確かに今回はオイラが悪かった! もう二度とこの女には手を出さない! 頼む、見逃してくれ!」
『……それ、誰に言っているんだ?』
「えっ……」
奴は左手を上げると、その透けた手のひらから真っ赤な炎、魔人の王族しか扱えない絶望の炎を噴出させた。
『お前も知っているだろう? 初代魔人王は、非道、冷酷、血も涙もないと、世界中に恐れられていた存在だってな』
「そ、それは!」
『だから――』
奴は、紅く輝く瞳を氷点下の温度まで冷やし、告げた。
『初代魔人王――リヴァイバル。その名に応じ、お前を断罪し、永遠に消滅させる』
「いや、やめ――」
という暴食の悪魔の最後の悲鳴は、燃え盛る炎の中に、無残に掻き消えた。
☆ ☆ ☆
ソフィアへと目を戻した時、部屋の窓から差し込んだ月の光が、微かに揺らめく一人の人影を映し出した。
「っ!」
その人物はソフィアの寝顔を、世界で最も愛おしいものを見るような眼差しで見つめ、そっとソフィアの髪を優しく撫でた後、一瞬の光の粒となってその場から消え去ってしまった。
「……まさか、リヴァイバル……貴方だったのね」
私は、その魂の行動によってある確信を得た。
「初代魔人王は冷酷非道な暴君だと、世界中の歴史書に記されているけれど。それは――」
――誰にも暴かれてはならない偽りであるという真実を、誰も知らないでしょうね。
「だってそんな彼は、誰よりも、誰よりも深く」
光の巫女であったエクレールを、ただ一途に、その身を焦がすほどに溺愛していたのだから。
「クソ! クソォ! クソッタレが!!」
暴食の悪魔の本体は、全身の粒子を震わせ激しい屈辱と怒りに身を捩った。
せっかく、この世界で最も喰らいたかった魔人族の体を見つけ、行動を開始したというのに、あのエアの代行者の男――ブラッドによって、活動停止を余儀なくされてしまった。
まさかこの島に、あの男が来ていただなんて……計算外の、許しがたい誤算だった。
「だがこの世界の連中は、肉体を持たないオイラの存在そのものを感知できない。今こそ、あの魔人の女を、誰にも気づかれずに喰らい尽くす絶好の機会だ」
オイラは、喜びと悪意に歪んだ笑みを粒子状の核に浮かべながら、ソフィアが静かに眠る部屋へと、黒い霧の尾を引きながら侵入した。
すると、オイラの粘着質で邪悪な気配を感じ取ったのか、ソフィアの側で丸まっていた艶やかな黒猫が、ピクリと耳を動かしゆっくりと目を開けた。
「この子に、一体何の用かしら?」
その、たおやかな女性の声が脳内に直接響き、オイラは驚いた。しかし、粒子の姿であるオイラをこの黒猫は視認できていないようだ。
「たかが、呪いを受けた黒猫ごときが、この暴食の大罪を冠する悪魔様を止められるとでも思っているのか?」
悪態をつきながら、オイラはソフィアのベッドサイドへ忍び寄る。
寝息を立てるソフィアの顔立ちは、かつてオイラが弄び、喰い殺した、あのエレノアと瓜二つだった。
あれは、オイラの粒子によって自我を汚染され、化物に変貌した魔人族たちが、自分たちが愛する世界を壊す前に、一族の滅びを選択した瞬間のことだ。彼らが泣きながら、あるいは絶望しながら、自らの命を絶っていったあの光景は……実に滑稽で、見ていてこれほど面白いものはなかった。あの時の絶望と献身の味は、今も忘れられない。
「ああ……本当に可愛らしい。この体と、その体内に宿る純粋な生命の雫を、今すぐ全て喰らい尽くしたい……」
「そんじゃ……いただきま――」
『おい……』
大口を開いて、ソフィアの体を喰らおうとしたその瞬間だった。
背後から、心臓の鼓動すら止めるほどの冷たさを帯びた、聞き覚えのある声が響いた。オイラは開けた口を咄嗟に閉ざした。
恐怖に支配されながら振り返ると、そこには、ソフィアと同じく翡翠色の短髪を持ち、怒りに鋭く細められた薄緑色の瞳を宿した男の魂が立っていた。
「な、何で死んだお前がここにいやがる!」
その体は透けて見え、月光に照らされて陽炎のように揺らめいていた。しかし、その存在感は、生きていた時よりも強烈だった。
「なんだ、お前肉体がないのかよ? そんな虚ろな魂の姿で、このオイラを倒せるとでも言うのか?」
『……ああ、そうだ』
奴は、透けた右手を伸ばし、容赦なくオイラの粒子状の核を鷲掴みにした。その瞬間、粒子が悲鳴を上げた。
『エレノアの次に、その娘の命の光まで奪おうとするのか?』
「す、既に死んでいるお前には、関係のないことだろ! 魔人王だろうと、死ねばただの魂だ!」
『いや、関係がある』
そう言うと、奴の瞳は薄緑から紅蓮の炎のような深い紅へと変貌した。その純粋な憎悪と、愛する者を護れなかった後悔が混ざった瞳に、オイラの粒子は本能的な絶対の恐怖を覚えた。
『あんたは……俺のエルにも、想像を絶する酷い事をした。それを忘れたとは言わせないぞ』
「そ、それは――」
確かに、エクレールを殺したのはオイラだ。遊び半分で全身を噛み砕き、両足を喰らって立てなくしてやった。
『あの時のエル姿を見て、俺がどれほどの魂の拷問を受けたのか……お前には永遠に理解できないだろう』
「っ!」
『だからお前には、これから、その存在の全てをもって存分に味わってもらう。俺が、あんたに抱いた業火のような憎悪と絶望、その全てをな!』
「ひっ!」
奴の胸元に、銀色に光る共振の紋章が浮かび上がり、その瞬間に翡翠色の髪は、神々しい銀髪へと変化した。その魂の力は、肉体を超越していた。
『死の覚悟は出来ているんだろうな?』
「こ、このクソ外道が! 今更昔の恨みを蒸し返して何になる! それにオイラを倒したところで、もう手遅れだ! この世界には、オイラ以外の六柱の悪魔が既に侵入しているんだからな!」
オイラの渾身の脅しを聞いても奴は動じない。
『そうか。だったら、お前たち七つの大罪も、既に遅すぎたと言うべきだな』
「な、なんだと?」
奴は俺の粒子を掴む手に、魂の魔力を込めた。
『俺たちも既に六人が目を覚ました。準備はもう、整っている』
「目が覚めただって? ふん、戯言を。体を持たないお前に何ができる!」
『……体なら、あるさ』
その言葉と共に、奴は共振の力をオイラに叩きつけるように発動させた。
さすがにこれは死を意味すると察したオイラは、命乞いをした。
「ま、待ってくれ! 確かに今回はオイラが悪かった! もう二度とこの女には手を出さない! 頼む、見逃してくれ!」
『……それ、誰に言っているんだ?』
「えっ……」
奴は左手を上げると、その透けた手のひらから真っ赤な炎、魔人の王族しか扱えない絶望の炎を噴出させた。
『お前も知っているだろう? 初代魔人王は、非道、冷酷、血も涙もないと、世界中に恐れられていた存在だってな』
「そ、それは!」
『だから――』
奴は、紅く輝く瞳を氷点下の温度まで冷やし、告げた。
『初代魔人王――リヴァイバル。その名に応じ、お前を断罪し、永遠に消滅させる』
「いや、やめ――」
という暴食の悪魔の最後の悲鳴は、燃え盛る炎の中に、無残に掻き消えた。
☆ ☆ ☆
ソフィアへと目を戻した時、部屋の窓から差し込んだ月の光が、微かに揺らめく一人の人影を映し出した。
「っ!」
その人物はソフィアの寝顔を、世界で最も愛おしいものを見るような眼差しで見つめ、そっとソフィアの髪を優しく撫でた後、一瞬の光の粒となってその場から消え去ってしまった。
「……まさか、リヴァイバル……貴方だったのね」
私は、その魂の行動によってある確信を得た。
「初代魔人王は冷酷非道な暴君だと、世界中の歴史書に記されているけれど。それは――」
――誰にも暴かれてはならない偽りであるという真実を、誰も知らないでしょうね。
「だってそんな彼は、誰よりも、誰よりも深く」
光の巫女であったエクレールを、ただ一途に、その身を焦がすほどに溺愛していたのだから。


