☆ ☆ ☆

「くそっ……」

俺は、何も知らなかった。いや、知ろうとする努力さえ放棄していた。

最初から、僕は勝手に親父のことを憎悪し、頭ごなしに嫌悪していた。親父の心の内を知ろうともせず、一方的に孤独の壁を築いていたんだ。

あの時、もし僕がもう少し周囲の状況に目を配れていたら、どうして母上が、自分たちを捨てたはずの親父のことを悪く言わなかったのかも、どうして親父があの時になって僕を迎えに来たのかも、ちゃんと親父の話に耳を傾けていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。

母上を殺したのは親父じゃない。

きっと、病によって自我を失った兎人族のせいだ。いや……そもそもの原因は、この黒い粒子という絶対的な災厄を、好奇心だけでこの世界に持ち込んだヨルン、お前だ!!

「っ!」

これは兎人族のせいでも、親父のせいでも、誰のせいでもない。全ては、お前の身勝手な好奇心から生まれた悲劇だ。

俺は黄緑色の目を細め、頬を伝う涙を拭うことなく、その瞳にヨルンの姿を灼きつけるように映した。

「お前だけは……この世の全てを賭けても許せねぇ!」

そう呻きながら、俺は地面を強く踏みしめて立ち上がり、黒い痣が醜く侵食する左腕を、骨格から軋むような音を立てて巨大な獣の腕へと変形させた。

「てめぇは絶対に生かしておかねぇ!」

その咆哮に、ヨルンはまるで面白いおもちゃを見つけたかのように、口角を吊り上げ、悪意に満ちた笑みを浮かべた。


☆ ☆ ☆


「ムニン! 待て! 今のお前じゃ無理だ!」

「でも! こいつだけは! 今ここで!」

ムニンの右胸から肩にかけて広がった黒い痣――暴食の悪魔による侵食は、すでに全身の約半分にまで達していた。こんな危うい状態で、彼を戦場へ送り出すわけにはいかない。

「お前……その痣は、黒い粒子にやられたのか?」

ブラッドさんは、紅く光る右目でムニンの体をまるでX線のように見透かす。その鋭い眼光は、ムニンの皮膚の奥まで何かを探っているかのようだった。

「……おかしいな」

「お、おかしいって何が!?」

ブラッドさんは一度、手に持つ剣を地面に突き刺して固定すると、そのまま両手でムニンの胸倉を強く掴んだ。そして、容赦なく、ムニンの着ていた白いワイシャツを力任せに引き裂いた。

「なっ!?」

ワイシャツのボタンが何個も弾け飛び、ムニンの体が露わになる。

『まあまあ! あの人は、なんと大胆で荒っぽいことをするのでしょう!』

「いやいや! エクレールさん! そんなこと言っている場合じゃないでしょう!」

突然の暴力的な行動と露出に、ムニンは顔を真っ赤にして口をパクパクさせながらブラッドさんを見上げた。

しかしブラッドさんは、ムニンの羞恥を完全に無視し、凝視をやめない。彼の視線は、黒い痣の縁を辿り、その侵食の進行具合を詳しく観察している。

「あー、やっぱりそうか」

ブラッドさんは何か重大な事実に気づいたように、小さく納得の声を漏らすとムニンの体から顔を上げた。

「な、何がやっぱりなんだよ! つうか、勝手に人の服を破った挙げ句、人の体をじろじろ凝視するなんて、セクハラだぞ!」

「うわっ! その言葉遣いと口調……昔のフォルにそっくりだな」

「親父とそっくりなんて言うな!」

呆気に取られる俺とロキをよそに、ブラッドさんは地面に突き刺した剣を抜き取りながら、冷静な声で告げた。

「どうやらお前には、それ以上侵食が進まないようだな」

「は、はあ!? どういう意味だよ? どうしてそんなことが断言できるんだ?」

「それはとても簡単なことです」

「うわっ!」

その声は、俺とロキの真後ろ、わずか一歩の距離から響いた。驚きで思わずのけぞる。

振り向くと、そこにはいつの間にか、雪のように白銀を持つ女性が立っていた。肩先で揃えられた白銀のストレートヘア。そして、テトと同じく全てを見透かすような黄金の瞳が、俺たちを静かに映している。彼女の登場は、まるで幻影のように唐突だった。

当然、その美貌を目にしたロキは、即座に身を乗り出した。

「初めましてお嬢さん。このような戦場にお一人とは。いったいどんなご用事で?」

(いや、どんな用事って……。ベルには全く反応しなかったくせに、こういう人には全力で口説きにかかるのか。これじゃあ、エクレールさんの姿を見ても直ぐ口説きに行きそうだ。)

「あ、それ以上レーツェルに近づかない方が良いぞ」

ブラッドさんが警告した直後。

「えっ?」

ロキが声を漏らした瞬間、ブラッドさんの手の中にあった真紅の剣が、意思を持ったかのように弾け飛び、宙を舞った。その剣は、ロキへと恐ろしい勢いで向かって行き、柄に近い刀身の平たい部分で、ロキの頭を思い切り横殴りにぶっ叩いた。

「いっっっってぇえぇぇ!!」

ロキは目尻に涙を浮かべ、頭を抱えたままその場にしゃがみ込んだ。

「な、何しやがる!」

『それはこっちの台詞だ。馴れ馴れしくレーツェルに話しかけるな』

頭の中に青年の低く、不機嫌な声が直接響いた。そして宙に浮いていた剣は、閃光を放ち紅い髪の青年へと姿を変えた。

俺と同じ鮮やかな紅い髪に、鋭く細められた鮮やかなピンク色の瞳。

額には紅色のバンダナが巻かれ、両耳からは青と紫色のリボンが付いたピアスが揺れていた。

「おいおい、アル。レーツェルは声をかけられただけだろ? そこまで怒ることはないだろ」

「いや、そういうわけには行かない」

アルと呼ばれた青年は、ブラッドさんを横目で一瞥した後、地面にしゃがみ込んでいるロキに向かって、冷たい警告をするように言葉を投げかけた。