高校受験当日。中学3年生のハルは絶不調だった。一週間前に父がインフルエンザにかかり、程なくしてハルもインフルエンザに感染した。母に半ば無理矢理連れていかれた予防接種の甲斐あってか、高熱は出なかったがずっとぼんやりとして勿論学校は出席停止だったし、自宅で朦朧とする意識の中、机に向かってもなんの勉強にもならなかった。
 治癒証明を近所のクリニックで貰って登校した次の日には公立高校の一般入試があって、筆記試験の後には面接も行われた。他の同級生達がスラスラと、恐らく作ってきたカンペを丸暗記した文章を述べるのに対し、ハルは辿々しく少し俯いて答えることしかできなかった。
 ハルの受験した豊丘高校は県内トップ5本の指に入る進学校で、国公立大学の進学に向け1年生からカリキュラムが組まれ、又文武両道を校訓に掲げ、剣道部と陸上部は例年インターハイに出場していた。
 入試の次の日、試験問題を担任と共に見直し自己採点をしたが、ボーダーラインと言われ、面接の結果次第だろうと担任は告げた。入学すれば早速試験があるからその勉強をしておくようにとプリントの束を渡された。
 課題をやっているうちは気が紛れた。しかしお風呂に入る間や布団に潜り込むと不安で押しつぶされそうになり、結局夜中でも受験前同様に机に向かった。
 その分厚い課題をやり終える頃、結果発表になり、ハルは念願叶わず4月からは滑り止めの私立に通うことになった。
 公立と違い、制服はやたらと可愛らしかった。チェックのスカートが色違いで2種類あり、胸元は少しくすんだ赤い大きなリボンが正装だった。
 自室の鏡の前でくるっと回ってみると、中学時代より少し短く設定されたそのスカートがふわっと揺れた。
 行きたい高校ではなかったけれど、やるしかない。佐野遥は決意新たに、硬い真新しいローファーで玄関を出た。
 校門には大きな桜の木が立っていて薄紅色に色づいた花弁が風に舞っていた。
 クラスは既に知っていた。唯一の進学コースである1年10組だった。噂によれば公立に落ちた生徒が多いだとか、推薦で勉学の特待生として入った生徒が多いだとか聞いたが実際のところはまだ分からなかった。
 不安と少しの期待で高鳴る心臓をなんとか落ち着かせようと深呼吸をしてから教室に入ろうとした。
「ねえ邪魔なんだけど。さっさと入ってくれる?」
「ご、ごめんなさい。」
 深呼吸で吐くつもりだった呼気で謝ったら、思ったより大きな声が出てしまい、佐野遥は自分で驚いた。
「そんなに驚かないでよ。」
 茶髪のストレートのロングヘアが通り過ぎていった。背負ったスクールバッグに、指定より短いスカート。第二ボタンまで開けられた胸元のくすんだ赤いリボンはなぜかだらんと伸びていた。それはもはや佐野遥の知っている制服の姿ではなかった。
 意を決して入ろうとしていた教室の扉が解放されてしまった佐野遥は仕方なく、恐る恐る自分の机を探した。
 佐野遥は出席番号17番で前後の生徒はまだいなかった。さっきの茶髪のギャルはかなり後ろの出席番号らしく、教室の扉からすぐの席に座って携帯を弄っていた。
 黒板に恐らく担任の字で「机の上の教科書に名前を書いておくこと」と書いてあるのを読んで、佐野遥はマーカーペンを出した。
「おはよう。俺神谷。よろしくねー。」
 愛想のいい、身体の大きな角刈り男子が前の席に座った。
「お、おはよう。佐野です。よろしくね。」
 佐野遥が小さく頭を下げると神谷と名乗った生徒は人が良さそうな笑顔を見せた。
「ねえ、マーカー貸してくれる?」
 神谷と挨拶を終えたのを見届けて、肩をトントンと叩かれながら後ろから声をかけられた。神谷よりも身長が高くて、厳密には椅子に座っているので座高が高くて、少し前髪の長い男子生徒が後ろに座っていた。
 どうぞ、と佐野遥が渡すと柔和に笑ったその男子生徒はモテそうに見えた。
「ありがとう。途中で出なくなっちゃってさー」
 そう言いながらマーカーペンを返してくれた清水智巳は相変わらず柔和に笑った。
「このクラスの担任をします飯田義一です。数学の担当です。一年生から勝負だからな、ぼーっとしてるやつはどんどん置いてくぞ。」
 最初こそ少し丁寧な言い方をしていた担任の飯田は、入学式当日から生徒達に拍車をかけた。飯田は40代の男性教員で、天然パーマっぽい髪に少しボリュームがなくなってきているようで、話しながら髪を触る癖があった。
「早速明日から試験をする。これは他校も実施するし、構内での最初の順位も出る。大いに頑張ってくれ。」
 高校受験で失敗した分、佐野遥はもう失敗できなかった。
 5教科の模試は体力勝負とも思えた。疲れ果てた最後の最後に数学を持ってきて頭をフル回転させなければならないあたり、目がチカチカするようだった。
 結果はおよそ1ヶ月後、中間考査の前には恐らく届くだろうと飯田が頭を掻きながら言った。
 中学とは比にならない速度で授業は進み、日に20頁も、多い時には30頁も進むことがあって、その予習と復習にゆっくりと時間を割くことが難しいと判断した佐野遥は、移動教室のない業間は復習に当てることにしていた。近くの席に女子がいなかったことと勉強ばかりしていたことですっかり出来上がってしまった女子のグループには入れずに、佐野遥はいつも自分の席にいた。そのせいもあって、初日に声をかけてきた前後の席の神谷と清水は事あるごとに質問をしてくるようになった。
「ハルは教え方上手いから分かりやすいよ」
「いつも聞いてごめんね」
 いつの間にか佐野さんではなくハルと呼ばれるようになり、佐野遥にとっても神谷も清水も友人と呼べた。