「お前ら、結婚してもいいんじゃないか?」


ふたりが目を見開いて顔を見合わせたあとで、困惑気味な表情で口を閉ざした。


「美乃にとって……たぶん、ふたりは憧れなんだよ。だからあいつ、あんなこと言ったんだろ」

「……さっきも言ったでしょ? 私はまだ自信がないの」


広瀬は、さっきと同じ言葉できっぱりと否定した。


「まぁ、お前らの問題だし、俺が口出しすることじゃないけど……。ただ……俺は、お前らの結婚式を早く見たいって思ったんだ。美乃もたぶん……」


そこまで話して、小さな笑みを浮かべた。
信二と広瀬ならこれ以上は言わなくても伝わるってことを、わかっていたから。


「俺は明日早いし、そろそろ帰るよ! 送ろうか?」


車の鍵を見せると、ふたりとも首を横に振った。


「悪かったな……。じゃあな」


信二と広瀬を残して店を出て、車に乗った。
静かな車内をやけに広く感じながら車を走らせ、コンビニに寄ってから帰宅した。


その夜、俺は湯舟に浸かりながらある決意をし、すぐにそれを実行した。
脱衣所で髪を拭きながら、洗面台の鏡に映る自分を見る。


また、あいつらにバカにされるな……。


そこに映る自分は久しぶりに見る姿で、懐かしいような照れ臭いような気分になった。
心の中で零した独り言とは裏腹に、満足していた。


上半身は裸のまま冷蔵庫から水を取り出し、それを一気に飲み干した。
渇き切った体が、ゆっくりと潤っていく。
そのままベッドに潜り込み、すぐに眠りに就いた。


この日は、美乃と過ごす未来の夢を見た。
十年後も変わらず、俺の隣で優しく笑う彼女。


美乃の病気は完治し、俺たちは結婚して子どももいた。
男の子か女の子かはわからなかったけれど、彼女に似て本当に可愛いかった。


夢の中の美乃は、まるで今日の写真のように、俺にずっと微笑みかけていた――。

翌日は早朝から仕事に行き、重い体で一日を乗り切った。
作業でドロドロになった体で病院に行くわけにはいかないため、ひとまず帰宅する。


シャワーを浴びて服を着替え、身だしなみを整えてから家を出た。
火照った体に冷たい風が触れるのを感じながら、夕陽に染まる道をゆっくりと歩いた。


家から病院までは十分も掛からないけれど、病院に着く頃にはすっかり夕陽が沈んでいた。
この時間なら、美乃は夕食を終えてテレビを観ているはずなのに、ノックをしても返事がなかった。


「美乃? 入るぞ?」


一応声を掛けてからドアを開けて奥に入ると、彼女はベッドで眠っていた。
きっと、昨日の疲れが残っているんだろう。


ベッド脇にある椅子に腰を下ろし、美乃の寝顔を見ていた。
透き通るような白い肌は今にも消えてしまいそうで、恐いくらい綺麗だった。


このままずっと、美乃の寝顔を見ていたい。
だけど……もしかしたら美乃はもう目が覚めないんじゃないかと、急に不安になってしまった。


ゆっくり寝かせてあげたいと思う反面、不安のせいで早く目を覚ましてほしいと考ええしまう。
自分の中の矛盾した思いを押し込め、眠っている美乃の髪に触れながら、早く起きてくれとずっと願っていた。


「ん……」

「ああ、ごめん……。起こしちゃったな」


申し訳なさを抱くよりも、美乃が瞼を開けたことに安堵する。


「……いっちゃん、来てたの。起こしてくれたらよかったのに……」

「いびきかいてる美乃が珍しかったから、起こすタイミングがなくてさ」

「えっ⁉ 嘘っ⁉」

「ははっ! 嘘だよ」

「もうっ‼」


俺は、さっきの不安を彼女に悟られないように、明るく振る舞って誤魔化した。

「あれっ⁉ その髪、どうしたの⁉」


改めて俺を見た美乃は、目を大きく見開いてポカンとした。
さっきの不安ですっかり忘れていたけれど、彼女の言葉で昨夜実行したことを思い出す。


「急にどうしたの? あっ……! もしかして……」


美乃は昨日のことを思い出したらしく、次の瞬間から肩を震わせて笑い出した。


「おい……」

「ごめん、ごめん! ぷっ……!」


恥ずかしがっている俺を見て、ますます笑いが止まらなくなったらしい。
彼女は肩を震わせながらもなんとか堪えようとしているみたいだけれど、お腹を抱えて笑い続けていた。


「はぁ〜、本当におかしい……。それで、その髪どうしたの?」

「わかってるくせに、いちいち訊くなよ……」


しばらくして、吉野がようやく落ち着きを取り戻した。
瞳に涙を浮かべたままの彼女に、大きなため息を返す。


昨夜、俺は風呂で髪を黒く染めた。
理由はもちろん、昨日の車内での出来事しかない。


美乃の父親が『茶髪=ヤンキー』だと認識しているんだと知って、ずっと気になっていた。
俺の髪は、昨日まで金髪に近い茶髪だったけれど、自分をヤンキーだと思ったことは今まで一度もない。


正直に言うと、茶髪だけでヤンキーなんていう考え方自体が、信じられない。
それでも、他人からの第一印象があまりよくないことは、ちゃんとわかっている。


人目を気にしたことはあまりないとは言え、相手が恋人の父親となると、いくら俺でも話は別だった。
だから、俺は高校に入学して以来ずっと染めていた髪を、思い切って黒に戻したんだ。


今日は、職場でも散々からかわれて来た。
自分でも変な感じだし、鏡に映る姿を見るとまるで自分じゃないみたいだ。


だけど、後悔はまったくしていない。

「職場でも散々からかわれたよ……」

「みんな、びっくりしてたでしょう?」

「ああ。もう十年くらい茶髪だったし、最近はどんどん明るくなってたからな……。俺だって、自分の行動にびっくりしてるよ」

「私だって、びっくりしたんだよ? まだ夢の中かと思っちゃった!」

「まだ夢かもよ?」

「そうかもね」

「確かめてみる?」

「え?」


俺は右手を伸ばし、楽しそうに笑っていた美乃の左頬にそっと触れた。
一瞬ピクッと反応した彼女が、少しだけ顔を赤らめた。


指先から、美乃の熱が伝わってくる。
左手で柔らかい髪に触れながら顔を近付け、彼女の唇をそっと塞いだ。


軽く唇を食んだ、甘いキス。
おもむろに唇を離して微笑み合ってから、もう一度キスをした。


今度は舌を絡めた、深いくちづけ。
甘くて、ほんの少しだけ切ない時間が流れた。


「夢じゃなかった?」


何度もキスを交わしたあと、顔を離して悪戯な笑みを浮かべた俺に、美乃がはにかんだように小さく頷く。


「なんなら、もう一回試してみるか?」


冗談半分でからかうと、彼女が恥ずかしそうに俯いた。
そんな可愛らしい姿に、思わず笑ってしまう。


その直後、俺の唇が甘い香りで塞がれた。
ほんの一瞬の出来事に呆然としていると、さっきまで照れていたはずなのにクスッと笑われてしまった。


やっぱり、美乃には敵わない。
嬉しさと照れ臭さを隠すために、また彼女にキスをした。


加速していく、止まらない想い。
俺の心は、美乃に支配されていく。


苦しいような悲しいような、甘くて切ない恋。
まるで吸い込まれるように、どんどん落ちていく。


だけど……美乃は、あとどれくらい生きられるんだ……?


甘い時間を過ごしていても、ふと脳裏に不安が過ると、一瞬で心が恐怖に襲われてしまう。
その夜は、なかなか寝付けなかった――。


*****


本格的に秋が深まり始めた頃、久しぶりに信二と広瀬に会った。
ふたりと会うのは、水族館に行った日以来だ。


あの時の事を思い出すと気まずさもあったけれど、俺たちはお互いに普通に接した。
信二と広瀬は、早々に俺の髪の色をからかってきた上、ふたりは理由を知ってるから大爆笑した。


「美乃から聞いてたけど、本当に真っ黒だな〜! 高校から茶髪だったから、黒髪なんて染井じゃないなー! ぶっ……ありえねぇっ!」

「ほーんと! 美乃ちゃんのおかげで、珍しい染井がいっぱい見れちゃう! この間の車の中の事といい……。ぷっ……!」


信二と広瀬があまりにも騒ぎ立てたせいで、内田さんに怒られてしまった。
なぜか頭を下げる羽目になった俺は、疲れ切って深いため息を漏らす。


程なくして、ようやくふたりが落ち着き、病室には静けさが戻った。


「そういえば、パパもびっくりしてた! この間、会ったんだよね? 『髪の色が違ったから誰かわからなかった』って、目を丸くしてたよ」

「ああ。俺もあんな時間に会うと思ってなかったから、びっくりしたんだ。挨拶しかできなかったけど……」


仕事の昼休みを利用して病院に来た時、たまたま美乃の父親に会った。
一瞬だけ不思議そうな顔をしていたからそうだとは思っていたけれど、髪を黒く染め直したくらいでそんなにわからないものなんだろうか、と首を傾げたくなる。


「パパは、今の方がいいって言ってたよ!」


とりあえず、印象は悪くなかったみたいだ。
美乃の父親が言う『ヤンキー』の枠から外れたことに、ひとりで安堵した。


「あのさ、ちょっと話があるんだけど……」

「なんだよ、急に……」


その直後、唐突に改まった信二からただならぬ雰囲気が伝わってきた。

「俺達、結婚することにしたんだ」

「えっ!?」


予期だにしなかった報告に、俺と美乃が驚きの声を揃えた。


「この間、美乃ちゃんや染井と話したあとに、もう一度ふたりで話し合ったの。それで、『この先もやっぱりお互い一緒にいたいから結婚しよう』ってことになって……。あんなこと言ったあとだから、なんだか恥ずかしいんだけど……」


「もう両方の親から了承はもらってる。まぁ、急かされてたくらいだからな」


広瀬も信二も、どこか照れ臭そうに笑っている。


「おめでとう! 絶対に幸せになれよな!」

「ふたりとも幸せになってね! 本当によかったね、由加さん! 本当におめでとう!」


俺と美乃は口々にお祝いを言い、ふたりは照れ臭そうにしながらも笑った。
病室内が、温かい雰囲気に包まれる。


「結婚式と入籍はどうするんだよ?」

「式は、近いうちにするつもりなの。急だから、身内だけになるけどね。籍はまだわからないけど、今年中にはどっちも済ませるつもりよ」

「じゃあ、色々と大変だな」

「まぁな。それより、お前も絶対に結婚式に来てくれよ!」

「えっ? 身内だけだろ?」

「なに言ってるんだよ! お前はもう身内みたいなもんだろ!」


身内だけの結婚式なのに、俺も招待してくれるらしい。
嬉しい反面、本当に参列してもいいものなのかがわからなかった。


「そうよ、来てよね! 染井のおかげなんだから! あの時、染井にあんな風に言われなかったら、私は踏み切れなかったと思うしね」


広瀬が俺の肩をバシッと叩き、満面に笑みを浮かべた。
あの時は出過ぎた真似をしたと少しだけ後悔していたけれど、彼女の言葉で救われた。

「むしろさ、お前はもう身内だよ! 美乃の彼氏ってことは、俺の弟みたいなもんだし」


信二はニカッと笑って、俺をからかった。
すかさず、眉を寄せてしまう。


「お前の弟なんて嫌だよ……」

「あっ! それなら、私の弟にもなるじゃない!」


げんなりした顔の俺に、広瀬もそう笑った。
思わず、口元を引き攣らせてしまった。


ある意味、どっちも嫌だ……。


「でも、いいなぁ〜……。本当に羨ましい」


笑顔で零した美乃に、瞳を緩める。


「ふたりは美乃の憧れだもんな! 結婚式、楽しみだな!」

「美乃もおしゃれしろよ!」

「一緒に服見に行こうね? 私のドレスも見立ててほしいし!」

「えっ⁉ いいの⁉」

「もちろん! 可愛い妹にドレスを見立ててもらえるの、楽しみにしてるんだからね」

「うん! 由加さんのドレス選びなら、私も一緒にしたい!」


楽しそうに話す三人に、俺はふと疑問をぶつけた。


「俺が行ったら浮くんじゃないか?」

「大丈夫だよ、いっちゃん」

「親にも許可は取ってあるからな! でも、作業着で来るのだけはやめてくれよ!?」

「バーカ! 染井がそんなことするわけないでしょ!」

「いやいや、染井なら……」

「そんなことするわけないだろ! でも、ちゃんと出席させてもらうよ」

「ふふっ、楽しみだなぁ。由加さん、どんなドレスが似合うかなー。今から調べておかなきゃ!」


突然の嬉しい報告に病室がパッと明るくなったようで、俺たちは内田さんにまた叱られないように気をつけながらもずっと笑っていた。
そして、面会時間が終わる前に病院を後にし、そのまま信二と広瀬と飲みに行くことにした。

「かんぱーいっ!」


病院の近くの居酒屋で、ビールが注がれたジョッキを鳴らした。


「本当におめでとう! 俺も嬉しいよ!」

「サンキューな。美乃のことも、今回のことも……。お前には本当に感謝してるよ」

「なんだよ、改まって……」

「今回のことは、本当に染井のおかげだよ。染井の言葉で、私は考え直したんだから! 本当に感謝してる」

「そっか、よかったよ……。実はさ、余計なこと言ったかもって、ずっと気になってたんだ」

「バーカ! 俺らはそんなこと気にしてねぇよ!」

「そうよ! バカね!」


俺の心配を余所に、信二も広瀬も笑顔で否定してくれた。
高校を卒業したあとはふたりと疎遠になっていたけれど、また再会できてよかったと心底思う。


俺たちは他愛もない話をして、何時間も飲み続けた。
まるで、高校時代に戻ったかのような楽しい時間だった。


「あいつも結婚したいだろうな……」


不意に眉を下げて微笑んだ信二が、ぽつりと呟いた。


「そうね。口にはしないけど、本当は『いつかは……』って夢見てるんじゃないかな……」

「そうだよな……」


ふたりの言葉に、ため息混じりに頷いた。
さっきまでの賑やかな雰囲気に反し、しんみりとした空気が流れ出す。


「あいつさ……入院してから不自由なことばっかりなのに、絶対に不満を漏らしたりしないんだよな……」

「そうだよね……。美乃ちゃんって周りを気遣かってばっかりで、自分のことはいつも後回しなんだもん」

「俺たちが喧嘩した時も、いつも仲を取り持ってくれてたよな……」

「うん……。美乃ちゃんがいなかったら、私たちはとっくにダメになってたよ……」

「俺の知らない三人の時間があるんだな」


信二と広瀬の会話に、眉を寄せて微笑む。

「本当に色々あったよ。喧嘩する度に、美乃ちゃんに怒られてた」

「美乃に?」

「うん。『もっと素直になりなさい!』ってね。『私は恋愛のことはよくわからないけど、自分の好きな人が自分を好きになってくれるって、きっとすごいことだよ! だから素直にならなきゃダメ!』って、よく言われたの」

「お前ら、そんな事があったのか……」

「私、気が強いから喧嘩しても謝れなくて……。そしたら、いつもそう言われたの。美乃ちゃんに言われると、もうグサッと来ちゃってね……。よく反省してた」


信二も知らなかったらしく、目を丸くしている。
俺は黙ったままでいると、広瀬はその時のことを思い出すように自嘲気味に笑った。


「でもこれは女同士の秘密だから、聞かなかったことにしてね?」


最後にそう言った彼女が、ジョッキのビールを一気に飲み干して店員を呼んだ。


「すみませーん! もう一杯くださーい!」

「おい、大丈夫かよ⁉」

「由加は弱いんだから、そろそろやめとけ!」

「なに言ってるの! あんたたちももっと飲みなさいよ! 染井はどうせ強いんでしょ!」

「あのなぁ、広瀬……。明日も仕事だろ?」

「いいの!」


結局、広瀬はひたすら飲み続け、酔い潰れて眠ってしまった。
俺たちの忠告を聞かなかった彼女に、信二とともに眉を寄せてしまう。


「あーぁ……。だから、言ったのに……」

「大変だな、お前も……」

「本当に振り回されてばっかりだよ。でもまぁ、惚れた弱みだな……。こいつには一生敵わないよ。今のお前ならよくわかるだろ?」

「ああ……」


ジョッキを煽った信二に、深々と頷く。
俺も一気にジョッキを空け、ビールを追加した。