アラームがうるさい。
もうすぐ春だというのにまだまだ肌寒くて、布団から出るのがきつい。
朝は苦手じゃないけれど、今日はいつもよりも体がだるかった。
それでも、日課がある。
俺は気合いを入れて布団から出たあと、冷たい水で顔を洗って重い瞼を必死にこじ開け、動きやすい服に着替える。
いつものように朝食も食べずに家を出ると、冷たい風が頬に触れて一気に目が覚めた。
俺の日課は毎朝のランニングで、距離は適当だけれど、だいたい二〜三キロは走っている。
朝の景色が好きで、高校の時から走り始めた。
だけど……最近は、少しだけ変わった。
どこを見ても、色のない世界。
好きだったランニングも、今は音のない街を走るだけのつまらない日課になっている。
それでも俺が毎朝走るのは、もうなにひとつ変えたくないからなのかもしれない。
家に帰ってシャワーを浴び、またベッドに寝転んだ。
今日は日曜日だから仕事は休みで、なにもすることがなくてぼんやりと天井を見つめていたけれど、なんだかむなしくてすぐに目を閉じた。
すると、いつものように瞼の裏に映るのは、笑顔の女。
「またかよ、美乃(よしの)……」
美乃は、いい加減だった俺が初めて本気で愛した女だ――。
***
俺と美乃が出会ったのは、一昨年のクリスマスイヴだった。
その日も、俺はいつものように走っていた。
ただ、いつもと少しだけ違ったのは、家を出た時間が遅かったこと。
仕事が休みだったから、ゆっくり寝ていたんだ。
家を出ていつもと同じ道を走っていると、近所の病院の前で人とぶつかりそうになった。
「あっ、すみませ――」
「いたっ……!」
俺が謝るよりも先に、そいつはその場に転んだ。
おいおい、嘘だろ!? ぶつかってねぇし……。
「大丈夫?」
ため息をつきたくなるのをこらえ、とりあえず手を差し出した。
地面に座り込んだのは俺よりも年下に見える女で、彼女は俺の手を取って立ち上がった。
「すみません……」
「怪我は?」
すぐにでも立ち去りたかったけれど、相手の様子を確認する。
「大丈夫です」
女はそう言ったものの、左足を少しだけ引きずっていた。
「足、痛いんじゃないのか?」
気づいたからには無視もできず、仕方なく尋ねてみた。
「本当に大丈夫です! 急いでるから……」
女はどこか落ち着きがなくて、慌てて歩こうとしたけれど……。
「……っ、痛っ!」
顔をしかめながら、左足首を押さえた。
「やっぱり痛いんだろ? すぐそこは病院だし、行こう」
面倒くさいけれど、仕方ない。
そんな気持ちを隠して言った俺に対し、女は頑なに断った。
だけど、後々面倒なことになるのは避けたい。
「いいから行くぞ」
ため息混じりに強引に女を抱き上げ、足早に歩き出す。
「ちょっ……! 離してっ‼」
彼女は嫌がって暴れたけれど、俺はさっさと帰りたいこともあって聞く耳を持たなかった。
「暴れんな、落ちるぞ」
そう言い放ってそのまま目の前にある病院に入ると、血相を変えたような声が飛んできた。
「美乃ちゃんっ!」
「最悪……」
すると、女はため息をつきながら、恨めしそうに俺をキッと睨んだ。
声がした方に視線を遣ると、看護師が走り寄ってくるところだった。
「どこ行ってたの? 『今日は絶対に安静よ』って、あれほど言ったじゃない……」
「散歩……」
近づいてきた看護師から視線を逸らした女は、どこかバツが悪そうにしながら答えた。
「もう! 嘘おっしゃい! まぁいいわ……。先生を呼んでくるから、すぐに病室に戻って。……ところで、あなたは?」
看護師は、怪訝な顔つきでまじまじと俺を見た。
俺は自分の腕の中にいる、『美乃』と呼ばれた女を見たけれど、そいつはふて腐れているようで答えてくれる気はないらしい。
怪訝な視線から逃れるために、仕方なく経緯を話した。
「そうだったの……。じゃあ、ついでに病室まで運んでくれる? 三〇五だから」
看護師はそう言うと、俺の答えも聞かずに走っていった。
「あなたのせいよ……」
思わずため息を漏らした俺を、女が災難だと言いたげに睨んでくる。
災難なのはこっちだ! と言い返したくなるのをこらえ、エレベーターを待ちながら心の中で不満をぶつけていた。
看護師に言われた通り三〇五号室の前に行き、足を止めた。
ドアの白いネームプレートには、マジックで【久保(くぼ)美乃様】と書かれている。
「ここ?」
念のために確認をしようと尋ねてみたけれど、女は口をへの字に曲げて答えようとしない。
少し悩んだ末にドアを開けると、白を基調とした室内が視界に広がった。
病室だというのに、そこは妙に生活感があった。
整頓されたベッド周りに反し、半分だけ開いていたクローゼットや棚の荷物は、病室にしては多いように思えた。
ふと洗面台に視線を遣ると、たくさんのメイク道具が並んでいた。
病人が化粧なんてするのか……?
とりあえず女をベッドに下ろせば、一応お礼を言われたけれど、俺を見る目は不機嫌なままだった。
しばらくすると、白衣を着た男とさっきの看護師がやってきた。
気まずい空気から解放され、ホッとする。
「どこ行ってたの? 体調は? どこかつらくないかい?」
主治医らしい医者がそう問いかけたけれど、彼女は黙ったまま俯いている。
埒が明かないことを察して、おもむろに口を開いた。
「さっき、そこでぶつかりそうになって……。彼女、足を捻ったみたいなんです」
「ああ。君が美乃ちゃんをここまで運んできてくれたんだね」
医者は「ありがとう」と微笑むと、女の足を診察し始めた。
「……うん、軽い捻挫かな。湿布で充分だね。ところで美乃ちゃん、散歩にしては少し心配をかけ過ぎだよね? 僕は、外出許可を出した覚えもないんだけど」
「ごめんなさい……」
優しく諭すように微笑む医者の言葉に、女はようやく謝罪を口にして唇を噛みしめた。
さっきまでに反し、その横顔は今にも泣き出してしまいそうだ。
「とにかくご家族には連絡したから、もうすぐ誰か来るんじゃないかな。たぶん、お兄さんとか」
「えっ? お兄ちゃん?」
「とにかく今日は安静にして。まぁ、その足じゃどのみち安静だし……。お説教はお兄さんに任せて、僕は診察に戻るよ」
途端に眉を寄せた女に、医者は苦笑を浮かべてから俺に会釈をすると、看護師と一緒に病室から出ていった。
「よかった、軽い捻挫で……」
「……ご迷惑をお掛けしました」
安堵混じりに言った俺に彼女は淡々と言葉を返すと、ベッドに横になってしまい、また気まずい空気に包まれた。
本当は早くこの場から逃れたかったけれど、女が見せた泣き出しそうな表情を思い出し、なんとなく罪悪感が芽生えていた。
自分自身が余計なことをしたのかもしれないと考えて罪悪感に駆られそうになった時、ドアが勢いよく開いた。
「美乃っ‼」
視線を上げると、スーツ姿の男が立っていた。
汗だくのこの男は、たぶん女の兄貴だろう。
「内田(うちだ)さんから連絡もらって……。お前、びっくりさせんなよ!」
「ごめんなさい……」
女はゆっくりと起き上がると、小さな声で謝った。
「親父と母さんも心配してる。とりあえず俺はこれから仕事だから、夕方にまた来るよ。ふたりには俺から連絡しておくから」
急いでいるらしい男は用件を告げ、俺の方に向き直った。
「事情は看護師さんから聞きました。すみません、妹がご迷惑を……」
頭を深々と下げた男と視線が絡むと、男が目を見開いた。
「あれ……? お前、染井(そめい)?」
「……もしかして、信二(しんじ)か?」
「やっぱり染井じゃん! なんだ、お前だったのかよ〜!」
俺の肩をバシバシと叩きながら、信二は嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん、知り合いなの?」
「ああ、こいつは染井。高校の時のクラスメイトなんだ! で、こっちは俺の妹の美乃」
信二から紹介され、俺は改めて女に会釈をした。
「さっきは本当にごめんなさい」
彼女も俺に頭を下げ、今度はきちんと謝ってくれた。
俺を真っ直ぐ見つめてにっこりと微笑んだ表情は、まるで子どもみたいにあどけなくて、さっきまでとはまるで別人だった。
面倒なことに巻き込まれたと思っていたけれど、今はそんな気持ちは消えていた。
「俺、そろそろ行くわ。染井もそこまで一緒に行こうぜ」
「ああ。じゃあ、お大事に」
「はい」
微笑んだままの女に笑みを返した俺は、信二と病室を後にした。
「お前、今日仕事は?」
「今日は休み。まぁ予定もないし、家に帰って寝るよ。って、久しぶりの会話がこれかよ」
眉を寄せて笑うと、信二も苦笑を零した。
「じゃあ、夕方会わねぇ? 俺、またここに来るし、さっきのお礼もしたいからさ」
「そんなもんいらねぇよ」
「なんでだよー! 頼む! 6時頃、ロビーで待ってるから!」
「わかったよ」
強引な信二に負けて、苦笑混じりに頷く。
「じゃあ、またあとで!」
信二はそう言って、時計を見ながら走っていった。
ダラダラと過ごして迎えた夕方、服を着替えてさっきの病院に向かった。
大通りを歩きながら、その人の多さに呆れ混じりの笑みが漏れる。
街にはたくさんの人が溢れ、周りはカップルだらけだった。
この辺りは駅から近くて様々な店があるから、もともと平日でも人は多い。
だから、イヴの今日がそれ以上の人でごった返しているのは、言うまでもない。
都会と言えるほどの街ではないけれど、それでも田舎よりはずっと便利な街だ。
「悪い! 仕事が長引いた!」
十八時を過ぎた頃、信二が病院のロビーにやってきた。
「いいよ、そんなに待ってねぇし」
「そっか。じゃあ、行こうぜ!」
「おう。って、どこに?」
「決まってんだろ! 俺の可愛い妹のところだよ!」
「ちょっ、待てよ!」
信二は驚く俺の腕を引き、病室に向かう。
「病室に行って、どうするんだよ! 俺は面識ないんだぞ!」
「今日会ったじゃん」
「初対面みたいなもんだろうが!」
ようやく信二の手を振り払うと、信二の顔が暗くなった。
「あいつ、去年のイヴもここで過ごしたんだ……。だから今朝、病院を抜け出したんだよ」
「はっ? お前の妹、去年からずっと入院してるのか!?」
「いや、五年前からだ……。あいつは、十五歳の時から入退院を繰り返してるんだ」
信二の言葉に、言葉を失った。
結局断り切れなくて信二と一緒に病室に行くと、今朝出会った女は俺を快く迎えてくれた。
だけど、俺は彼女をまともに見ることも、目を合わせることもできない。
自分でもよくわからないけれど、なんだかここにいたくなかった。
すると、女は核心に触れてきた。
「お兄ちゃんから、私のことを聞いた? だから、目を合わせないんでしょ?」
「えっ?」
咄嗟に否定しようとしたけれど、女と視線がぶつかるとなにも言えなかった。
俺を見つめる彼女の瞳が、なんだか俺のすべてを見透しているような気がしたから。
「ねぇ、そんな顔しないでよ。私は確かにずっと入退院を繰り返してるけど、別に不幸じゃないよ。不便なこともあるけど、毎日楽しいもん。ただ、あなたみたいに同情する人がいると、不幸な気分になるけどね」
さっきまでは女の顔を見ることができなかったのに、凛とした表情の彼女から視線を逸らせなくなった。
無意識のうちに女に同情していた自分がいたことに気づいて、慌てて反省する。
「ごめん……」
「今朝とは正反対ね!」
小さく謝罪を零した俺を見て、女が楽しげに笑っていた。
その笑顔にホッとした俺は、イヴだというのにそのまま病院で過ごし、面会終了の時刻を迎えてから信二と飲みにいった。
人生で初めての病院で過ごしたイヴは奇妙な一日だったけれど、なんだかすごく楽しかった。
俺と美乃の出会いは偶然で微妙で……。どこか不思議なものだった――。