美乃や信二に頼まれ、彼女の外出に付き添うことも少しずつ増えていった。
買い物でも映画でも、頼まれればなんでも付き合ったけれど、唯一カフェに行くことだけは嫌だった。
甘い物はあまり好きじゃなく、できれば見るのも避けたい。
だけど、美乃は甘い物が好きで、外出のたびにお気に入りのカフェでおしゃれなケーキを食べていた。
新発売や季節限定のもの、そして一番お気に入りのケーキ。
時には、一個だけではなかった。
最初は嫌々だった俺も、美乃に付き合っているうちに見るのは平気になっていた。
正式には、幸せそうにケーキを食べている彼女を見るのが好きだったのだけれど。
ある時、そのカフェで美乃の名前の由来を訊いた。
「名前の由来?」
「美乃って珍しいだろ? 漢字だけ見たら俺はたぶん読めなかっただろうし、前からちょっと気になってたんだ」
「そうかな?」
俺の言葉に、美乃は小首を傾げていた。
「もしかして、由来は知らないのか?」
「ううん。あのね、美乃はね、桜なの」
「桜……? ヨシノだろ? ああ、吉野の桜?」
「違う、違う! 私のヨシノは“ソメイヨシノ”!」
「はっ? 染井美乃!?」
「そう。ソメイヨシノっていう種類の桜があるの! 私が生まれた時、近所のソメイヨシノが満開だったんだって」
美乃の説明で、想像したことは勘違いだと察した。
バカな俺は、俺の名字と彼女の名前をくっつけたんだと思ったんだ。
「あっ! ソメイヨシノって、いっちゃんと私の名前をくっつけたみたいだね! なんかすごいかも!」
「え?」
「だって、いっちゃんの名字は染井じゃない。それで、私の名前は美乃でしょ。だから、二人合わせてソメイヨシノ! ……って、これじゃあダジャレみたいだね!」
そんなことを口にした美乃は、そのあとも嬉しそうに話したり、『でもダジャレかな』なんて言ったりと、しばらく考え込んでいた。
些細なことで百面相を見せる彼女が、可愛く見えて仕方なかった。
だから、俺はつい自分も同じことを思ったと、考えたばかりのことを話してしまった。
すぐにハッとして、口を滑らせたことを後悔しそうになったけれど、それよりも先に美乃が満面に笑みを浮かべた。
「テレパシーだね!」
それは本当に嬉しそうな顔で、今までに見たことのない彼女の満面の笑みに不覚にもドキッとした。
「別にテレパシーじゃないだろ?」
必死に平常心を保ちながら、苦笑を浮かべて見せる。
「じゃあ、相思相愛?」
「いや、それはもっと違うから」
俺が呆れていると、美乃がクスクスと笑った。
そんな彼女をからかうつもりで、ニッと笑ってから口を開く。
「じゃあ、いっそ結婚するか」
だけど……次の瞬間、安易に発言してしまったこと心底後悔した。
目の前の美乃が顔を真っ赤にして、うろたえていたから。
いつものように冗談で返さない彼女の姿を見て、頭にあることが過ぎる。
まさか……。美乃は俺のことが好き、なのか……?
それは、とてもじゃないけどれど、口にできないことだった。
気づけば気まずい雰囲気に包まれていた俺たちは、ほとんど言葉を交わすことなく病院に戻り、そのまま逃げるように病室を出て家に帰った。
俺は鋭くはないかもしれないけれど、そこまで鈍くもないつもりだ。
自分で言うのはおこがましいけれど、ルックスは悪くない方だろうし、おかげで女で苦労したことはない。
女が考えてることはいつもだいたいわかったし、学生時代に恋愛絡みで振り回されて苦い経験をしてからは、波風を立てないようにしていた。
それでも面倒なことになりそうな時は、トラブルになる前に別れた。
面倒なことは嫌いだし自分のペースで生活したいのに、恋愛は束縛や嫉妬だらけ。
そんな俺は、きっと恋愛に向いていない。
暇を埋める存在として何人かと付き合ってきたものの、言うまでもなく長続きすることはなかった。
ただ、それは今までに本気になれる女がいなかったのも、理由のひとつだと思う。
だから、信二みたいにひとりの女とずっと一緒なのは本当にすごいと思うけれど、俺には到底真似できそうにない。
この日をきっかけに、俺は病院に行かなくなってしまった。
それは夏が近づいて仕事が忙しいからとか、そのせいで普段にも増して疲れているからとか、そんな理由じゃなくて……。
やっぱり、あの一件が原因で行きづらくなってしまったからだ。
すぐには割り切れなくて、何度か病院に行こうかと思うこともあったものの、なんとなく気分が重くてそのうち自然と足が遠退いた。
というよりも、繁盛期に入ったのをいいことに、逃げ道と言い訳を作るように残業を増やした。
美乃を可愛がっていたから離れてしまうことに少しだけ寂しさを感じたのも事実だけれど、中途半端な状態になるくらいならきっと会いにいかない方がマシだ。
だって、俺は彼女のことを妹としてしか見ることができないし、恋愛感情はまったくないんだ。
美乃は、なによりも同情を嫌がるのに、顔を見れば以前までように接することができる気がしない。
だから、もう行かない方がいい。
胸の奥で燻る罪悪感にも似た感情には気づかない振りをして、彼女から距離を取ろうと決めた。
そして、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、行かない方がいいと思える言い訳を必死に繰り返していた――。
本格的に暑さが増してきた頃、俺は今までよりもさらに必死に仕事に打ち込むようになっていた。
家と職場を往復するだけの生活に虚しさを感じたこともあったけれど、疲れて帰るとすぐに眠れたし、そんな感情はまたすぐに忘れてひたすら仕事に打ち込めた。
だけど……。
『じゃあ、夏には肌が真っ黒に焼け焦げちゃうね!』
真っ黒に日焼けした自分の顔や腕を見る度に、美乃の言葉が何度も何度も頭を過った。
これは罪悪感……? それとも同情か……?
病院に行くことは、義務じゃない。
それなのに、なぜか美乃のことが気になって、気がつけば彼女のことばかり考えていた。
特に今日みたいに仕事が休みの日は最悪で、悶々と過ごすことに苛立って気晴らしに出かけることにした。
外は予想以上に暑くて、すぐにじんわりと汗が滲む。
この暑さなのに人で溢れる街を欝陶しく感じて、なんとなくあのカフェに入った。
アイスコーヒーを頼み、クーラーの心地好い風を浴びながら外をボーッと眺めていた。
「……いっちゃん?」
不意に後ろから飛んできた声に、心臓が跳ね上がった。
俺のことをそう呼ぶのは、ひとりしかいない。
「あれ、染井じゃない?」
振り向けずにいると続けて呼ばれ、平静を装いながら振り返った。
「広瀬……」
「ラッキー! 相席させてよ!」
まだなにも言っていないのに広瀬は俺の前に座り、美乃にも座るように促した。
「私、アイスティー! 美乃ちゃんは?」
「オレンジジュースにしようかな」
広瀬は、店員を呼んで注文をした。
「久しぶりだね。元気だった?」
「あぁ、まぁ……。仕事が忙しくて大変だったけど……。今日は久しぶりの休みなんだ」
美乃の質問に、思わず言い訳っぽく返してしまった。
「だから、真っ黒なんだね」
いつものように笑う彼女につられ、安堵混じりの小さな笑みが漏れる。
「あれだけ病院に来てたのに全然来なくなったから、てっきり遊んでるのかと思ってた」
「本当に忙しかったんだよ。夏は梅雨時期の皺寄せが来るから」
不服そうな顔をした広瀬は、俺を疑っているらしい。
だけど、嘘はついていない。
気まずさから美乃に視線を遣ると、ふといつもと違うことに気付いた。
「今日は、ケーキ食わないのか?」
「うん、最近は調子が悪くて……。今日は久しぶりに外出許可が出たの」
苦笑した美乃が、バッグから薬を取り出した。
彼女はもともといくつかの薬を飲んでいたけれど、以前よりも格段に種類が増えている。
心なしか、顔色も悪い。
薬を飲む美乃を見ながら、心が不安に包まれていく。
「そんなに悪いのか? 薬も増えてるし……」
「大丈夫、ただの夏バテだよ。最近暑いから」
美乃は笑っているけれど、彼女の顔や腕をよく見ると痩せたような気もする。
「美乃ちゃん、食欲も落ちたよね」
美乃は、俺が思っているよりもずっと、容態が悪いのかもしれない。
病気のことはあまり話してくれないけれど、長期入院しているくらいなんだから。
俺が思ってる以上に、美乃は深刻な病気なんじゃないのか……?
今さらそんなことに気づいて、美乃を避けていた自分に苛立ちが募った。
そもそも、俺は美乃から『好き』とか言われていないし、あの時のことだって勘違いだったのかもしれない。
実際、今だって彼女はいつもと変わらない。
「いっちゃん! 眉間にシワ! また同情?」
「違う違う! これからどうしようかな、って思ってたんだ! 今日は暇だからな」
不自然にならないように、笑顔を繕う。
同情のつもりはないけれど、俺が考えていることを言えば彼女を傷つけるような気がしたから。
「病院に来れば?」
「そうだね! あとでお兄ちゃんも来るし、きっと喜ぶよ」
「じゃあ、そうするよ」
つまらない考えを捨てた俺は、迷うことなく色瀬と美乃の提案に笑顔を見せた。
「そういえば信二は?」
休日の外出なのに信二の姿がないことを不思議に思って訊くと、美乃がグラスを置いてから口を開いた。
「今日は休日出勤だよ。お兄ちゃん、この時期は忙しいんだって!」
「おかげで、女同士で楽しいよね〜!」
「うんうん! お兄ちゃん過保護だから、すぐに『あれはダメ』とか言うんだもん!」
「そうそう。あそこまで過保護だと、美乃ちゃんものんびり楽しめないわよね!」
「この間なんて、下の売店に行くのもダメって言われたんだよ!」
「あの時、喧嘩になってたもんね。信二はシスコンだから、今も仕事しながら悔しがってるんだろうな」
広瀬の言葉で俺と美乃はケラケラと笑い、周りから注目を浴びてしまった。
病院に戻る前に、美乃が信二に電話をかけると言い出した。
「今、いっちゃんも一緒なんだよ! お兄ちゃんも早く来てね!」
彼女が電話を切ったあと、俺たちは店を後にした。
「そういえば、いっちゃんがひとりでカフェなんて……。最初はあんなに嫌がっ……」
笑みを浮かべていた美乃が地面に吸い込まれるようにして倒れたのは、さっきよりも強くなっている陽射しに目を細めた直後だった。
「美乃ちゃんっ‼」
美乃に駆け寄る広瀬を前に、俺はただ呆然と立ち尽くすだけでそこから一歩も動けない。
「美乃ちゃん、しっかりして!」
なにが起こったんだ……? 今、美乃は笑ってたんだぞ……?
「染井っ‼ なにしてるのよ! 早く美乃ちゃんを車まで運んで!」
広瀬の声で我に返り、慌てて美乃を抱き上げる。
最初に出会った時よりも、明らかに美乃は軽かった。
車に向かいながら、広瀬は病院に電話をかけていた。
美乃を抱いた俺は後ろに、広瀬は運転席に乗り込むと、急いでエンジンをかけて病院に向かう。
気がつけば、自分の腕の中にいる美乃を強く抱きしめていた。
もし、今ここで美乃が……。
「縁起でもないこと考えてないでしょうね!?」
恐怖に心臓が跳ね上がった直後、広瀬がルームミラー越しに俺を睨んだ。
俺はなに考えてるんだよっ……! とにかく一刻も早く着いてくれ!
病院までは車で五分もかからないけれど、あまりにも長く感じて、不安に押し潰されてしまいそうだった。
病院に着くと、美乃を担当している菊川(きくかわ)先生や内田さんが入口で待機していて、先生や看護師に口々に呼びかけられていたけれど、彼女はまったく反応しない。
緊迫した雰囲気が漂うスタッフたちが処置室に消え、俺と広瀬は廊下で待っていた。
「由加、染井! 美乃はっ!?」
「まだ、中に……」
直後、汗だくで走ってきた信二を見た広瀬は、口を開くと同時に泣き出してしまった。
美乃の両親もそのあとすぐに駆けつけ、しばらくして菊川先生と内田さんが処置室から出てきた。
「先生っ……! 美乃は!?」
不安そうに訊く美乃の母親に、先生が笑みを向ける。
「なんとか落ち着きました。もう大丈夫ですよ。ただ、今日はICUで様子を見ます」
ホッとしたのは束の間のことで、全員が不安げな表情になった。
信二や両親に口々にお礼を言われたけれど、ほとんど聞いていなかった。
「お前たちは、今日はもう帰った方がいい。ありがとな」
信二に促されて広瀬と一緒に病院を出たものの、正直帰りたくなかった。
家に帰ったって、落ち着かないに決まっている。
「ちょっと話さない?」
話す気にはなれなかったけれどひとりでいるのも嫌で、広瀬の誘いに乗って近くの公園に行った。
ベンチに座って公園を見渡すと、噴水の周りには楽しげに過ごすカップルや高校生がいた。