「観たい映画があるの」

「いいけど……。クリスマスだし、混んでるかもしれないぞ?」

「無理なら諦めるよ」

「わかった」


映画館に向かって車を走らせたけれど、予想通り映画館の周囲は渋滞していた。


「映画館も混んでるだろうな……」

「私が見て来るから、ちょっと待ってて」

「バカ、ひとりじゃダメだ!」

「大丈夫だよ! ちょっと確認してくるだけだから! ね?」

「……わかった。絶対に走ったりするなよ?」

「わかってます」


今にも車から飛び出してしまいそうな美乃の押しに負け、仕方なく彼女をひとりで行かせることにした。
映画館までは往復で三分も掛からないけれど、心配で気が気じゃない。


路駐して様子を見に行こうかと悩んでいると、美乃から連絡が来た。


『もしもし、いっちゃん?』

「どうした? なにかあったか?」

『ううん、大丈夫だよ! でもね、映画館はやっぱり混んでるの。今からそっちに戻るけど、お手洗いに行きたきから、もう少し時間が掛かりそうなんだ』

「ああ、わかった。俺が車でそっちまで行くから、トイレから出たら待ってろ」

『ううんっ! 平気だよっ‼ 入れ違いになると困るから、いっちゃんはさっきのところで待ってて! 絶対来なくていいからね!』

「えっ⁉ おい、美乃⁉」


彼女はどこか強引に押し切り、一方的に電話を切ってしまった。
俺は仕方なく、道路脇に停車させたまま待つことにした。


クリスマスだけあって、さすがにどこを見ても恋人たちばかり。
いつもなら気にも留めない風景なのに、今日は美乃とずっと一緒にいられるのだと思うと自然に笑みが零れた。


「お待たせ!」


電話を切ってから十分近く経った頃、ようやく彼女が戻ってきた――。

帰宅する前に、近所のスーパーに寄った。


「さっきね、ちょっとジュエリーショップ見たり、カフェでケーキ買おうか悩んだりしてたんだ」


美乃は映画館から戻ってくる時に、色々と物色していたらしい。


「そっか。心配だったけど、久しぶりの外出だもんな」

「外泊だよ!」

「はいはい。でも、ケーキは買わなくて正解だったよ」

「どうして?」

「俺がちゃんと予約して買っておいたから。あとで届くよ!」

「本当に⁉」

「まぁ、あのカフェのケーキじゃないけど……。雑誌に載ってた店のケーキだから」

「うん! ありがとう!」

「どういたしまして! それより、夜はなにが食べたい?」

「なんでもいい!」


満面に笑みを浮かべた彼女が、俺の腕にしがみついた。
一番困る返答に苦笑を漏らしながらも買い物を済ませ、家に向かった。


「うわぁ〜! 結構綺麗だし、広いんだね!」

「そうか? まぁ必死に片付けたけどさ」

「見られたくない物でもあったの?」

「いっぱいあるな〜。……特にエロ本とか」

「もうっ! 本当にエロ親父なんだから!」


俺たちは顔を見合わせて、ケラケラと笑った。


「あっ、ウェディングドレスの写真だ! ちゃんと飾ってるんだね!」

「当たり前だろ!」


キッチンに買って来た食材を並べると、美乃がやって来た。


「私も手伝うよ!」

「いいから、その辺に座ってろ」

「なにかしたいの!」

「美乃って、料理できるのか?」

「できない……です……」


彼女はポツリと答え、膨れっ面をして拗ねた。


「わかったよ! じゃあ、野菜の皮を剥いて、適当に切って」

「わかった!」


腕捲りをした美乃が、嬉しそうに野菜を取った。
そして、彼女は楽しそうにクリスマスソングを歌いながら、野菜の皮を剥き始めた。

「うわ、危ないって!」


しばらくして、慌てて美乃から包丁を取り上げた。
野菜を切るのはいいけれど、彼女の手つきがとてつもなく危ない。


「大丈夫だよ!」

「ダメッ! 美乃は見学!」

「え〜っ!」

「ちゃんと美味い飯作ってやるから」

「本当……?」

「任せとけ!」


不服そうにしていた美乃に言うと、彼女がまた笑顔になった。


「ねぇ、なに作るの〜?」

「それは、できてからのお楽しみな」


美乃はすぐ隣から覗き込むようにして、俺をじっと見ている。


「そんなにガン見するなよ……。やり難いだろ」

「見学って言ったのは、いっちゃんだよ?」

「だからってなぁ……」

「いっちゃんがかっこいいから、見惚れてるんだよ!」


ふふっと笑った美乃が、俺をからかうように瞳を緩める。


「顔赤いよ?」

「もういいから、こっち見るな……」


戸惑う俺を余所に、彼女はずっと楽しそうにしていた。
そんな空気がくすぐったかった。


料理が完成する頃、インターホンが鳴った。


「悪いけど、俺は手が離せないから出てくれるか? たぶんケーキだから、そこにある俺の財布から金払っててくれ」

「うん、わかった!」


美乃は俺の財布を手にすると、嬉しそうに玄関に向かった。


「いっちゃん! 開けてもいい?」

「ああ」

「わぁっ! すっごく可愛いケーキだね!」


箱を開けて中を覗き込んだ彼女が、表情をキラキラとさせる。


「でも、こんなに食べ切れるかな?」

「無理なら、信二たちにも食ってもらえばいいよ。ほら、こっちも用意できたぞ」

「美味しそう!」

「これでも一応、ひとり暮らしだからな」


俺は得意げな笑みを浮かべ、クリームシチューをテーブルに置いた。
それから、買ってきたフランスパンとオレンジジュースも並べた。

「美味しい!」


美乃はシチューを一口食べると、満面の笑みで俺を見た。
何度も「美味しい」と繰り返し、病院にいる時よりもたくさん食べてくれた。


「紅茶でいいか?」

「うん!」


美乃のために買っておいた紅茶を淹れてテーブルに置くと、彼女がケーキを口に運んだ。


「美味し〜いっ! ねぇ、せっかくなんだから、いっちゃんも食べてみたら?」

「え……」

「はい! あーんして?」


苦笑している俺の口元に、美乃がフォークを持ってきた。
仕方なく、苦手なケーキを口に入れる。


「どう?」

「……思ってたよりは美味いかな」

「でしょ⁉」


俺は、そのあとも彼女に勧められ、結局ふたりだけでホールのケーキを食べ切った。
一番小さなケーキだったけれど、それでも一気に食べ切れたことに驚いた。


「片付けはしなくていいから、先に風呂入ってこいよ」

「私、あとでいいよ」

「いいから入ってこい」

「でも……」

「じゃあ、一緒に入るか?」


明らかに遠慮している美乃を笑顔でからかうと、彼女はまた膨れっ面になった。


「いっちゃんのバカ! なんでそうなるのよ!」

「いや、一緒に入りたいのかと思ってさ」

「ひとりで入ってきます!」

「タオルとかそこにあるから、適当に使えよ!」


怒りながら背中を向けた美乃にクッと笑いつつ、彼女の後ろ姿にそう言った。
振り返った美乃は、不服そうにしながらも小さく頷いた。


程なくして、バスルームから鼻歌が聞こえてきた。
シャワーの音に混じって響く彼女の声に、なんとなく落ち着かなかった。


「いっちゃん、ドライヤーってどこ?」

「乾かしてやるよ」


お風呂から上がってきた美乃は、「ありがとう」と笑った。
俺はベッドに腰掛け、前に座らせた彼女の髪を乾かした。

「お揃いのシャンプーだね! いい匂いがする! この部屋もいっちゃんの匂いがして幸せ〜」

「どんな匂いだよ……」


なんとなく複雑な気持ちで苦笑すると、美乃が小首を傾げた。


「う〜ん、なんか落ち着く感じ! 幸せの匂いかな」


彼女の言葉にくすぐったくなった俺は、照れ臭さを隠すようにバスルームに逃げた。
湯舟に浸かりながら必死に平常心を取り戻して落ち着こうと試みるけれど、どうしても平常心を保てない。


やっぱり美乃には敵わないな……。


お風呂から上がると、待ち侘びていたらしい美乃が笑顔を見せた。


「いっちゃんの髪は、私が乾かしてあげるよ!」


ドライヤーのスイッチを入れた彼女に体を預けると、触れられた部分から少しずつ心地好くなっていった。
俺は目を閉じながら、髪が乾くのを待っていた。


「いっちゃんがお風呂に入ってる間に、家とお兄ちゃんに電話しておいたよ」

「なにか言ってたか?」

「パパとママには、いっちゃんに迷惑掛けちゃダメって言われた! お兄ちゃんは、いっちゃんによろしくって」


美乃は嬉しそうに笑って、弾んだ声で話を続けた。


「クリスマスの夜に、いっちゃんと一緒に過ごせるなんて夢みたい」

「でも、俺プレゼント用意できなかったんだ……。ごめん……」


本当は用意するつもりだったけれど、最近は病院に通い詰めでそれどころじゃなかった。
申し訳なく思う俺を余所に、彼女がふわりと微笑んだ。


「もうもらったよ?」

「えっ?」

「ケーキと料理に、お揃いのシャンプーの匂い。それと今も!」

「今?」

「うん! 私、今が一番幸せだもん!」


幸せそうに破顔する美乃が、俺の頬に軽くキスをした。
俺たちは、微笑み合いながらそっと顔を近付けてお互いの唇を優しく塞ぐと、相手を確かめ合うような深くて甘いキスをした。

「ねぇ、いっちゃん」

「ん?」

「私が死んでも、悲しまないでね?」


その言葉で現実に引き戻された俺は、動揺で震えそうな声を必死に絞り出した。


「どうしたんだよ、急に……」

「私……今が本当に幸せだから、いつ死んでもいいと思ったの……。どうせ死ぬなら、幸せなまま死にたいから」


悲しい言葉なのに、美乃の声は落ち着き、その表情は優しく微笑んでいた。
戸惑いを浮かべる俺を見ながら、彼女は穏やかに続けた。


「だけど……だけどね……」

「……ん?」

「もし……私が来年の誕生日まで生きてたら……あの桜、一緒に見に行ってくれる?」

「当たり前だろ? だから、悲しいこと言うなよ」

「いっちゃん……」

「来年の誕生日には、一緒に桜を見に行こう」


喉の奥から込み上げる熱を堪えながら優しく微笑むと、美乃はコクリと頷き、瞳に涙を浮かべながら小さく笑った。


「おいで、美乃」


ベッドに横になった俺は、軽く腕を広げて彼女に笑い掛けた。


「腕枕、してくれる?」

「いいよ、ほら」


悲しみを悟られないように精一杯の笑顔を作って頷くと、美乃は幸せそうに微笑んで隣に寝転んだ。
そして、俺の腕にそっと頭を置いた。


「来年も、あの桜見たいな……」

「見れるよ」


自分自身にも言い聞かせるかのように発した言葉を噛み締め、彼女の額にそっとキスを落とした。


「なぁ、美乃……。結婚しようか……」


美乃の髪を撫でながら囁くように零すと、彼女は少しだけ黙り込んだあとで首を横に振った。


「いっちゃんには、もうすぐ死んじゃう私よりも、もっと素敵な人が現れるよ!」


明るい声でそう言ったのは、きっと美乃の精一杯の優しさだ。
俺はなにも言わずに彼女にそっとキスをして、胸の奥が締めつけられるのを感じながら髪を撫で続けた。

美乃の髪を撫でながら、額や頬に何度もキスをした。


「眠くないのか?」

「うん、だってまだ九時だよ? それに、せっかくいっちゃんと一緒に過ごせるのに、寝ちゃったら勿体ないもん!」

「そんなこと言って、また熱が出たらどうするんだよ……。もう寝よう」

「いっちゃんがいてくれたら、すぐに下がるよ」


俺がなにを言っても、彼女は眠ろうとはしなかった。
それどころか、他愛のない話をずっとしている。


美乃と話せて嬉しい反面、彼女のことを考えるとどうしても不安になる。
なんとか美乃を説得して、少しでも早く寝かせようとした。


「明日も一緒にいたいだろ? だから、もう寝ような」

「まだ眠くないってば!」

「風邪引くぞ?」

「大丈夫だもん!」

「頼むから寝てくれ。なんでも言う事聞いてやるから……」


途方に暮れた俺は、仕方なくため息混じりにそう告げた。


「なんでも?」


小さく頷くと、真剣な眼差しを見せながら上半身を起こした彼女に、ゆっくりとキスを落とされた。


「抱いて……」


そっと唇を離した直後、美乃が弱々しい声で零した。
目を見開きながら体を起こし、彼女の顔を見つめてしまう。


「なに、言ってるんだよ……」


驚いてそう返すのが精一杯な俺に、美乃が悲しそうに瞳を伏せた。


「だって……いっちゃんは、私を抱いてくれないよね?」

「いや、だって……」

「私の体を心配してくれてるのは、ちゃんとわかってるつもりだよ。だけど、どうしても抱いてほしいの……。きっと、これが……最初で最後になると思うから……」


彼女は、大きな瞳に涙を浮かべている。


「お願い……」


俺を見つめるその瞳から、一筋の雫が零れ落ちた。

ああ、俺はなんてひどい奴なんだろう……。
美乃の願いが、こんなにも嬉しいなんて……。


「……俺、止まらないぞ?」


美乃を相手に理性が切れたら、絶対に抑えられない。
理性と本能の狭間で戸惑う俺の唇を、彼女がもう一度そっと塞いだ。


少ししてから唇を離した美乃は、涙で濡れた瞳を揺らした。


「抱いて……」


戸惑いはあるけれど、その願いを叶えてあげたいのはもちろん、俺だって彼女を抱きたい。
だから……もう、迷わない。


俺は、美乃の頬に触れながらゆっくりと顔を近付けて唇を塞ぎ、それから彼女の口腔に舌を忍ばせた。
それはいつもよりも甘くて、だけどどこか切ないキスだった。


唇を重ね合わせながらベッドに倒れ込み、俺たちはお互いを求め合った。
髪を撫でながらキスを交わし、唇を少しずつ美乃の首筋に移していく。


徐々に熱くなっていく体が彼女の吐息を敏感に感じ取り、心臓が破裂しそうだった。


「いっちゃ、ん……」

「美乃……。もっと、俺のこと呼んでよ」

「いっ、ちゃ……んっ……」


途切れ途切れに俺を呼ぶ美乃の声が、妙に安心させてくれる。
切なくて苦しくて堪らないのに、甘い声で名前を呼ばれると泣きたくなるのに……。心は、優しい温もりに包まれる。


「美乃……。俺の名前、呼んで……」

「い、おり……?」


途切れ途切れに囁かれた、自分の名前。
世界中で一番愛する人の声で呼ばれるだけで、張り裂けそうな心が癒されていく。


「ずっと……俺のこと呼んでて……」

「伊織……っ! いお、り……」


美乃の甘い声に何度も呼ばれながら、無我夢中で彼女の全身にキスをした。

額や頬から首筋に唇を這わせ、鎖骨や胸、指先や太股まで、優しく何度もキスをした。
俺の唇が美乃の体に触れる度、彼女は敏感に反応しながら溶けるような甘い声を漏らす。


そのひとつひとつの反応を、頭と心に深く刻んでいった。
美乃を忘れないように、と。


キスを交わしている間は心地好い空間に包まれ、俺たちの体はどんどん熱を帯びていった。


「美乃、恐くないか?」

「うん……。平気……」

「美乃……。愛してる……」

「私も、好きだよ……」


彼女は、俺の目をまっすぐ見つめ、穏やかに微笑んだ。
俺たちは手を繋ぎながら、少しずつひとつになった。


高鳴る鼓動、甘い吐息、絡み合う深いキス。
頭の中はモヤが掛かったように真っ白で、もうなにも考えられなかった。


ただ美乃を抱くことに夢中で、ずっと心で彼女の存在を感じていた。
そして、ようやく心と体のすべてが繋がったような気がした瞬間、冷たい雫が俺の頬を伝った。


「伊織……? 泣いてるの……?」


美乃が俺の頬に触れながら、優しい声で訊いた。


「え……?」


彼女の言葉で、自分が泣いていることに気付いたけれど、どうして泣いているのかはまったくわからなかった。
悲しいわけじゃないのに、知らないうちに涙が溢れ出していた。


ああ、そうか……。俺は感情が高ぶって、心の奥から涙を流したんだ……。


「伊織……?」

「大丈夫……。なんでもない……」


安堵の微笑みを零した美乃も、少しだけ泣いていた。
俺は、彼女の涙にキスをした。


ほんのり感じたしょっぱさと切なさが、胸の奥をギュッと締めつける。
しばらくの間、涙が止まらなかったけれど、美乃はなにも言わずに俺の手を握っていた。


甘く柔らかく、だけどひどく切ない。
そんなふたりきりの夜に、俺たちはたった一度だけお互いを求め合い、時間を忘れて抱き合っていた――。