「な、なんだよ!」
なんとなく居心地が悪くなった俺に、信二と広瀬は顔を見合わせたかと思うと、ニヤニヤと意地の悪い笑みを見せた。
「染井ってキャラ変わったよね!」
「お前そんなんじゃなかったよな! いつでも冷静で、周りに合わせるタイプじゃなかったし?」
ふたりとも、きっと俺の気持ちを汲み取って、わざと明るく振る舞っているんだろう。
俺がずっと必死で考えていたことを知って、責めることができなかったんだ。
俺は眉を寄せながら微笑み、またビールを一気に飲み干した。
そのあとは、信二も広瀬も俺の仕事のことには触れずに、ただ他愛のない話をしていた。
だけど本当は、ふたりと話しながら、仕事を辞めたことをほんの少しだけ後悔していた。
優柔不断な自分に嫌気が差すのを感じながら、もう迷うわけにはいかないと自分自身に言い聞かせる。
この決意が固まった時のことと、親方の言葉を思い出す。
そして、改めて決意をした。
「ちょっと〜! あんた達も、もっと飲みなさいよ〜っ! バカー!」
「お前なぁ……」
叫びながらジョッキを振り回していた広瀬は、俺が言い終わるよりも先にテーブルに突っ伏してしまった。
相変わらず豪快な彼女に、唖然としてしまう。
「……学習能力ねぇな」
程なくして、素直な声が漏れた。
前回と同じ光景に呆れている俺と同じように、信二も苦笑している。
「本当にそう思うよ。でもいい女なんだ」
「知ってるよ。悪いけど、もうちょっとだけ付き合ってくれよ」
「ああ。今日だけは、朝まででも付き合うさ」
俺の言葉に頷いてくれた信二と焼酎を酌み交わし、家に帰った頃にはすっかり日付が変わっていた。
翌日、俺は二日酔いでひどい頭痛に襲われ、なかなか起き上がることができなかった。
だけど、美乃には朝から病院に行くと言った手前、閉じようとする目を必死に開いて重い体を起こした。
日課のランニングは体調を考慮していつもよりも短めに終わらせ、身支度を整えてから急いで病院に向かった。
自分の吐く息の白さが、冬になったことを教えてくれる。
ハロウィンも過ぎた今、街に並ぶ店のショーケースにはクリスマス用品が飾られるようになっていた。
こんな景色を見ると、去年のクリスマスイヴを思い出してしまう。
「早いもんだな、一年って」
苦笑混じりに呟いた言葉が、雑踏の中に消えていく。
もうすぐ、彼女と出会って一年が経とうとしていた。
「いっちゃん……」
「そのままでいいよ」
いつものようにノックをしてから病室に入ると、美乃はベッドに横になったまま力なく微笑んだ。
起き上がろうとした彼女を笑顔で制し、ベッド脇の椅子に腰を下ろす。
「ごめんね……」
「バカ、そんなこと気にするな。それより顔色が悪いな……。熱は?」
「昨日は平気だったんだけど、今朝からちょっと気分が悪くて……。今は微熱気味なの……」
「そうか……。朝飯はちゃんと食えたか?」
「ううん、ほとんど残しちゃった……。今日は点滴ばっかりみたい……」
美乃は、点滴の針が刺された自分の左手を悲しそうに見た。
その腕には無数の針を刺した痕跡があり、ところどころに青い痣ができている。
それは、今までに数え切れないほどの点滴と採血をしてきたことを、どんな言葉よりも雄弁に物語っている。
痛々しい腕を見ながら、彼女の髪にそっと触れた。
「いっちゃん、あのね……」
「ん? どうした?」
「昨日のことなんだけどね……」
美乃は一呼吸置いたあと、俺の目を真っ直ぐ見つめながら続けた。
「仕事を辞めたのは、本当に私のせいじゃないの……?」
「違うって言っただろ?」
「でも……私のことがなかったら、辞めたりしなかったよね?」
不安そうな美乃に微笑みながら否定したけれど、彼女はなかなか納得しない。
俺は悲しくなって、真剣な眼差しで口を開いた。
「怒るぞ? 俺は人のために仕事を辞められるほど、優しくない。これは俺の意思で決めたことだから、仕事を辞めたのは絶対に美乃のせいじゃない。だから、もう気にするな」
すると、美乃が眉を小さく寄せて笑った。
「やっぱりいっちゃんは優しいよ……」
「俺のことを優しいと感じるなら、美乃限定の優しさだな」
「限定……? 私だけなの?」
「ああ。だって俺、まったく優しくないぞ。特に信二とかにはさ」
「ふふっ……。お兄ちゃん、いっちゃんのこと恐いって言ってたもんね」
「あいつ、そんなこと言ってたのか。今度会ったら、なにか奢らせてやる」
彼女は、楽しそうに笑っていた。
まだ顔色は悪いけれど、さっきよりはマシみたいだ。
「なにかしてほしいことはあるか?」
「してほしいこと?」
「うん。食べたい物とかあったら、買ってくるよ」
不思議そうな美乃に笑みを向けると、彼女は首を横に振った。
「いっちゃんが、傍にいてくれるだけでいいの」
「本当にそれだけでいいのか?」
苦笑しながら首を傾げると、美乃はほんの少しだけ考え込むような表情を見せたあと、照れ臭そうに微笑んだ。
「キス……して……?」
途切れ途切れの小さな声と、真っ赤に染めた頬があまりにも可愛くて、不覚にもドキッとした。
美乃はいつも、いとも簡単に俺の心を鷲掴みにするから、恋愛には慣れているつもりだったのにまるで初恋みたいに戸惑う。
いや、きっとこれが俺の初恋なんだろうな……。
「やっぱり……いい……」
程なくして、彼女は恥ずかしさに負けたのか、布団の中に潜ってしまった。
「美乃? 出ておいで」
「もういいから……」
「襲うぞ?」
「なっ……⁉」
次の瞬間、美乃が慌てて布団の中から出てきた。
俺は悪戯っぽく笑って、彼女の頬にそっと触れた。
「エロ親父……」
「そんなこと言っていいのか?」
「本当のことだもん……」
「そんな無駄口、叩けないようにしてやるよ」
ふっと笑った直後、美乃の唇を強引に塞いで少しずつ舌を奥に入れ、甘くて深いキスをした。
一瞬だけ唇を離し、また唇を重ねる。
息ができないくらいの深いキスを、何度も何度も繰り返す。
美乃自身を確かめるように、舌で彼女の口の中を探った。
「いっちゃ……っ、ふっ……」
甘い声が、俺を狂わせる。
気が付けば、理性ギリギリの中で激しいキスをしていた。
「美乃……」
やっと唇を離して美乃の耳元で囁くと、彼女は顔を真っ赤にしながら俯いた。
「あんなの……恥ずかしくて、死んじゃうよ……」
「キスじゃ死なないよ」
俺は笑いながら、美乃の髪を優しく撫でた。
彼女は顔を真っ赤にしたまま、頬を膨らませて怒った。
「なんなら、もっと激しいキスしてみるか?」
あえて意地悪な言葉を吐く俺に、美乃が呆れたように笑う。
「やっぱりエロ親父じゃない……」
「嫌?」
わざと肩を竦めて訊いてみると、美乃は俺の耳元に唇を近付けた。
「ううん、大好き」
美乃は照れ臭そうに微笑んだあとで、それを隠すようにペロッと舌を出して見せた。
やっぱり、彼女は俺の心を捕らえて離さない。
俺は美乃の頬にキスをして、耳元でそっと囁いた。
「愛してる」
すると、彼女がギュッと抱き着いてきて、俺の頬に自分の頬を寄せた。
「私、本当はね……いっちゃんが仕事を辞めてくれて、すごく嬉しいの……。ひどいでしょう? ごめんね……」
俺からゆっくりと離れた美乃は、悲しげに瞳を伏せた。
「バーカ、最高の彼女だよ! だって、美乃に愛されてるってことだろ」
柔らかい笑みを浮かべ、彼女の唇に優しくキスをする。
「ありがとう……」
「ほら、早く横になれ」
「手、繋いでて?」
「ああ」
美乃はベッドに横になると、怖ず怖ずと右手を差し出した。
俺が手を繋ぐと安心したのか、彼女はすぐに瞼を閉じて一時間ほど眠った。
「ん……。いっちゃん……?」
「起きたか。もうすぐ昼飯だけど、食えそうか?」
「さっきより気分もいいし、ちょっとくらいなら食べれそうかな……。それより、もしかしてずっと手握っててくれたの?」
「寂しがり屋の美乃が、寂しくないようにな」
優しい笑みを向ければ、美乃が嬉しそうに瞳を緩める。
程なくして、内田さんが昼食を持ってきてくれた。
「無理するなよ?」
「大丈夫! さっきより元気だもん」
美乃は笑顔を見せながら食事を始め、時間を掛けながら箸を進めていた。
最終的にはほんの少し残しただけで、ほとんど完食に近かった。
ホッとしながら食事を下げ、一度家に帰ることにした。
帰宅するのとほぼ同時に、信二から電話が掛かってきた。
『美乃、どうだった? 今朝行ったら、かなり体調悪そうだったんだよ……』
信二は開口一番、不安げな声で言った。
「今はマシみたいだ。昼飯もほとんど食ってたよ」
『そっか、良かった。お前のおかげだな。美乃はお前がいると、元気になるから』
「そりゃどうも……」
買ってきた弁当を出しながら、できるだけ冷静に切り返した。
だけど、信二の言葉が本当に嬉しくて、内心はくすぐったさでいっぱいだった。
顔が緩みそうになるのを我慢して、とにかく箸を動かす。
鏡を見なくても、顔がニヤけているのがわかった。
『それでさ〜……俺、つい言っちゃったんだけど……』
そんな俺を余所に、信二が遠慮がちに呟いた。
「誰になにをだよ?」
『お前の仕事のことを、うちの親に……。でも、やっぱりまずかったよな? ごめん!』
「別にいいよ。どうせ俺から言うつもりだったし」
『そっか……。それでさ、親がお前と話したいって……。お前、今どこ?』
「わかった。今は家だけど、飯食ったらまた病院に行くよ。お前も夜には来るんだろ?」
『ああ、仕事が終わったら親と行くつもりだよ。じゃあ、あとでな』
「ああ」
美乃の両親のことを考えると少しだけ不安になったけれど、いずれはちゃんと話すつもりだったから手間が省けたと思うことにした。
どうせなにを言われても意思を曲げるつもりはないから、不安になっても仕方がない。
弁当を平らげたあと、再び病院に向かった。
病室に行くと、美乃はシャワーを浴び終えて髪を拭いているところだった。
「シャワーなんか浴びて、大丈夫だったのか?」
「うん、先生がいいって」
「そっか。貸して」
「じゃあ、お願い」
確かに、顔色はよくなっているようだ。
俺はタオルを受け取って、彼女の髪を拭いた。
「ねぇ、ドライヤーもしてくれる?」
「お前、この前怒っただろ?」
「今日は怒らないから! ね? お願い!」
顔だけで振り向いて上目遣いをした美乃に、思わず動揺してしまう。
それを誤魔化すようにため息混じりに苦笑を零して、ドライヤーで彼女の髪を乾かし始めた。
「ねぇ、いっちゃん」
「ん?」
「ウェディングドレスって、綺麗だよね!」
「広瀬のことか?」
「それはもちろんだけど、ウェディングドレス自体が綺麗なんだよ!」
「まぁ、そうかもな」
「いいなぁ……」
すると、美乃がぽつりと羨望混じりの声を漏らした。
「……ドレス着たいか?」
疑問形で言葉を紡いだけれど、答えはわかっていた。
広瀬のドレス選びの時、本人よりも興奮していたから。
「そりゃ、ね……」
「着るか?」
だからこそ、深く考えるよりも先に口が動いていた。
「えっ?」
「ドレス、着るか?」
「ウェディングドレスだよ?」
「うん、そうだな」
「ウェディングドレスって、結婚式で着るものでしょ?」
「別に、前撮りとかもあるんだし、結婚式だけっていう決まりはないだろ」
俺はドライヤーを片付けてから、ベッドの端に腰掛けた。
「本当に着れるの……?」
「ウェディングドレスくらいなら着せてやれるよ。この間の店なら、写真も撮ってくれるみたいだしな」
期待を含んだ表情の美乃に笑みを向けると、彼女は本当に嬉しそうに笑った。
「ウェディングドレスだけは絶対に無理だと思ってたから、すっごく嬉しい!」
「でも、美乃の親が許してくれたらな……」
「絶対に大丈夫だよ! そんな素敵なこと、誰もダメなんて言わないよ!」
美乃は嬉しそうにしながら、信二たちが来るのを今か今かと待っていた。
夜になると、信二が両親と一緒に病院に来た。
美乃の両親が、俺のことをいつ切り出そうかと考えているのがわかったから、言い難そうなふたりに代わるように自分から話を切り出した。
「聞いたんですよね、俺の仕事のこと。ご心配をお掛けしてすみません」
「いや、私たちはそんなつもりで話をしにきたわけじゃ……。ただ、君はそれで大丈夫なのかい?」
美乃の父親の言葉に、思わず表情が引き締まる。
「何の保障もなく大丈夫だとは言えませんが、しばらくの生活には困らないと思います。それに、自分の意思で決めたことなので、後悔もしてません」
「……額の傷がその証なのかな?」
「えっと、まぁ…」
苦笑いした俺に、すべてを悟ったような微笑みが向けられる。
「そうか……。大変だっただろうね……。ありがとう」
美乃の両親は、それ以上なにも言わなかった。
そのあと、美乃に目配せをしてから、改めて本題を切り出した。
「ご相談があるんですけど……」
「なんだい?」
「どうしたの、そんなに改まって……」
「実は、美乃にウェディングドレスを着させてあげたいんです。とは言っても、写真だけですけど……。許していただけませんか?」
「あのね、私が着たいって言ったら、いっちゃんが着せてくれるって言ってくれたの! いいよね? ねっ?」
懇願する、と言うよりも子どもがおねだりをする時のように両親を見つめる彼女の傍で、俺は緊張していた。
程なくして、美乃の両親が顔を見合わせて微笑んだ。
「もちろんよ、私たちも嬉しいわ。いつにしましょうか?」
「せっかくだから私も立ち合いたいんだが、構わないかな?」
「俺も見たいっ‼」
美乃の両親と信二は喜んで賛成してくれ、俺と美乃は顔を見合わせて笑った。
その日の病室には、ずっと笑顔が溢れていた――。
*****
翌日、朝一番にあの店に連絡をし、撮影の予約を入れた。
みんなからは『できるだけ早くしてほしい』と、昨日の帰りに言われていた。
言うまでもなく、美乃の体調が悪化しているからだろう。
俺は一番早く空いていた明後日に予約を入れ、信二にも電話で伝えた。
「悪いな……。急だけど、大丈夫か?」
『俺は仕事抜けて行くし、親父も半休取るみたいだから大丈夫だ! こっちこそ悪いな』
「おじさんたちにはお前から伝えてくれるか?」
『ああ』
俺は電話を切ったあと、マリッジリングを買うためにジュエリーショップに行った。
あまりにも突然だったからいい物は買えないけれど、それでもちゃんと用意したかった。
エンゲージリングを買った時にアドバイスをくれた店員と相談しながらリングを選び、あの淡いピンクのリボンでラッピングして貰った。
そして、そのまま病院に向かった。
「ウェディングドレスの撮影の予約が取れたぞ! 明後日だ」
「本当……? ありがとう、いっちゃん……」
病室に入ると同時に弾んだ声で告げたが、ベッドに横になる美乃を見て一瞬だけ体が強張った。
嬉しそうにしながらも声にはまったく力がなく、そんな彼女の頬に触れるとかなりの熱が伝わってきた。
「熱、いつからあるんだ?」
「昨日の夜からなの……。ウェディングドレス、着れるかな……」
「大丈夫に決まってるだろ。さっきそこで先生に会ったから、外出許可もらっといたからな。ちゃんと元気になれよ?」
不安そうにする美乃を少しでも元気付けたくて、場違いなくらいの明るい笑顔を見せる。
それから、氷枕を交換するためにナースステーションに行き、内田さんに彼女の様子を伝えた。