「樫野さんに」
「いい」
腰を浮かそうとした私に、穂高は掠れた声で答えた。いいわけない。彼の言葉を素直に聞けるはずもなく、夜だというのも忘れて私はすぐさま反論する。
「でもっ!」
「いいから」
穂高は私の腕を掴んで行動を阻む。本気で止めようとしているのか、加減をする余裕もないほどなのか遠慮のない力の入れ方に驚いた。
「薬も、飲んだ。心配ない」
荒い息遣いで切れ切れに言われても説得力皆無だ。不安から涙が出そうになる。
「心配ないって……」
「いいから、ここにいろ!」
彼にしては珍しく乱暴な口調だった。私はびくりと体を震わせる。穂高は掴んでいた私の腕を引き、自分の方に私を寄せた。
体勢を崩しながらも彼に抱きしめられる。
「ごめん。でも、本当に平気だから……今は、ほのかがそばにいてくれたらそれでいい」
たしかに苦しそうではあるけれど、心なしか声には平静さが戻っている気がする。でも、彼の言い分を鵜呑みにして安心はできない。
「穂高、どこか悪いの?」
抱きしめられているので、彼の顔は見えない。正面から包まれる温もりは、胸騒ぎを増幅させた。空気を肺取り込もうとしているのか、懸命に息を吐いては吸ってを繰り返している。
穂高はなにも言わない。
「ねぇ、答えてよ」
彼の肩口に顔をうずめながら、どうしても責める言い方になってしまう。通常の倍以上に早い心音は私のものなのか彼のものなのか区別がつかない。
穂高は深呼吸して調子を整えてから、なだめるように私の頭を優しく撫でた。
「少し。けど、今は薬を飲めば大丈夫だから」
「今は、って……」
「ほのか。俺が日本に戻ってきたのは、検査のためだったんだ」
突然語りだされた思いもよらぬ彼の事情に私は目を丸くする。
「検査ってなんの? どういうことなの?」
震える声で問いかける。急かしたくないのにどうしたって不安から心が逸る。
穂高はぎこちなく語りだした。
「十歳を過ぎた頃からかな。ずっと調子が悪くて、常に息苦しさを感じていた。原因がわからない状態がずっと続いてたんだけど、日本にいい先生がいるからって思いきったんだ。宇宙飛行士になるには健康が絶対条件だからね。そしたら……珍しい呼吸器系の病気だった。症例も少なくて、世界的に見ても珍しいらしい」
彼の言葉はちゃんと耳に届いたのに、情報の理解が追いつかない。脳が受け入れるのを拒否している。なのに彼は淡々と事実を告げていく。
「それこそ発症率は人口の数パーセントにも満たないって。驚いたよ、治すつもりで意気込んで日本に来たのに。しかも、はっきりと診断されたのは月が地球に落ちてくるっていう発表があった直後だったんだ……すごいだろ。地球が助かる確率よりも低いものを俺は当てたんだから」
彼が学校をよく欠席していたのはそういう理由だったのかと、今になって繋がる。
穂高の声には落ち着きが戻ってきて、むしろわざとらしく明るいトーンだった。でも無理して作っているのがバレバレで、代わりに私の涙腺が緩みだす。
必死で泣くのを我慢する。泣きたいのは穂高だ。
「今は薬で症状を抑えているけど、それもいずれは効かなくなる。最終的には手術しないと助からない」
「手術したら治るの?」
涙声で尋ねた質問に、沈黙が返ってくる。穂高の顔を見たいのにきつく抱きしめられているので、それも叶わない。穂高は私の頭を撫でていた手を止めた。
「……症例が少ない分、手術例も希少で成功率もかなり低い。ましてや世界がこんな状態だと」
「そんな」
「でも、もういいんだ」
私の言葉を遮るように穂高は力強く言い切った。
「今のままでも、地球の終わりまでは生きられる」
「まだ終わるって決まってないでしょ!」
噛みつくように私は言い放つ。いつもと立場が逆だ。それは穂高も思ったのか、かすかに笑ったのが伝わってきた。
「日本に帰ってきて、ずっと焦ってた。自分には目標があって、こんな回り道をしている場合じゃないのにって。高校生活も病院に通う傍らの暇つぶし程度だった……でもよかった、ここでほのかに出会えたから」
私は小さく頭を振る。いいことなんてひとつもない。穂高が病気になるくらいなら、出会えなくてもよかった。
彼が日本に帰国する必要もなく、アメリカで自分の夢を目指して叶える方がよっぽどいい。
その考えに至り、ついに私の目から涙が溢れだす。我慢するも喉を震わせ嗚咽が漏れてしまい、そんな私を心配してか、穂高が腕の力を緩めてこちらを覗き込んできた。
「なんでほのかが泣くんだよ」
「だって……」
困惑気味の笑顔。穂高は親指で優しく私の涙を拭った。
「俺さ、クドリャフカになりたいって言っただろ」
語り掛けるように穂高は話を振ってくる。天文台を後にして彼が唐突に私に話してきた内容はしっかりと覚えている。私は静かに目で応えた。
「クドリャフカは、世界で初めて宇宙に行った動物なんだ」
穂高は寂しげに説明を始めた。
人類が宇宙に行く前に、幾度となく安全性などを確認するために試験的に犬がロケットに乗せられ、打ち上げられた。
その最初の犬の名前がクドリャフカ。雌だという彼女は適性検査をクリアし、数多の犬の中から選ばれた正真正銘の優秀な一匹だった。
一通りの訓練を終えた彼女は世界初の宇宙船に乗せられ、空へ旅立っていったという。
そこまで聞いて、計画は順調だったんだと窺えた。でも――
「いい」
腰を浮かそうとした私に、穂高は掠れた声で答えた。いいわけない。彼の言葉を素直に聞けるはずもなく、夜だというのも忘れて私はすぐさま反論する。
「でもっ!」
「いいから」
穂高は私の腕を掴んで行動を阻む。本気で止めようとしているのか、加減をする余裕もないほどなのか遠慮のない力の入れ方に驚いた。
「薬も、飲んだ。心配ない」
荒い息遣いで切れ切れに言われても説得力皆無だ。不安から涙が出そうになる。
「心配ないって……」
「いいから、ここにいろ!」
彼にしては珍しく乱暴な口調だった。私はびくりと体を震わせる。穂高は掴んでいた私の腕を引き、自分の方に私を寄せた。
体勢を崩しながらも彼に抱きしめられる。
「ごめん。でも、本当に平気だから……今は、ほのかがそばにいてくれたらそれでいい」
たしかに苦しそうではあるけれど、心なしか声には平静さが戻っている気がする。でも、彼の言い分を鵜呑みにして安心はできない。
「穂高、どこか悪いの?」
抱きしめられているので、彼の顔は見えない。正面から包まれる温もりは、胸騒ぎを増幅させた。空気を肺取り込もうとしているのか、懸命に息を吐いては吸ってを繰り返している。
穂高はなにも言わない。
「ねぇ、答えてよ」
彼の肩口に顔をうずめながら、どうしても責める言い方になってしまう。通常の倍以上に早い心音は私のものなのか彼のものなのか区別がつかない。
穂高は深呼吸して調子を整えてから、なだめるように私の頭を優しく撫でた。
「少し。けど、今は薬を飲めば大丈夫だから」
「今は、って……」
「ほのか。俺が日本に戻ってきたのは、検査のためだったんだ」
突然語りだされた思いもよらぬ彼の事情に私は目を丸くする。
「検査ってなんの? どういうことなの?」
震える声で問いかける。急かしたくないのにどうしたって不安から心が逸る。
穂高はぎこちなく語りだした。
「十歳を過ぎた頃からかな。ずっと調子が悪くて、常に息苦しさを感じていた。原因がわからない状態がずっと続いてたんだけど、日本にいい先生がいるからって思いきったんだ。宇宙飛行士になるには健康が絶対条件だからね。そしたら……珍しい呼吸器系の病気だった。症例も少なくて、世界的に見ても珍しいらしい」
彼の言葉はちゃんと耳に届いたのに、情報の理解が追いつかない。脳が受け入れるのを拒否している。なのに彼は淡々と事実を告げていく。
「それこそ発症率は人口の数パーセントにも満たないって。驚いたよ、治すつもりで意気込んで日本に来たのに。しかも、はっきりと診断されたのは月が地球に落ちてくるっていう発表があった直後だったんだ……すごいだろ。地球が助かる確率よりも低いものを俺は当てたんだから」
彼が学校をよく欠席していたのはそういう理由だったのかと、今になって繋がる。
穂高の声には落ち着きが戻ってきて、むしろわざとらしく明るいトーンだった。でも無理して作っているのがバレバレで、代わりに私の涙腺が緩みだす。
必死で泣くのを我慢する。泣きたいのは穂高だ。
「今は薬で症状を抑えているけど、それもいずれは効かなくなる。最終的には手術しないと助からない」
「手術したら治るの?」
涙声で尋ねた質問に、沈黙が返ってくる。穂高の顔を見たいのにきつく抱きしめられているので、それも叶わない。穂高は私の頭を撫でていた手を止めた。
「……症例が少ない分、手術例も希少で成功率もかなり低い。ましてや世界がこんな状態だと」
「そんな」
「でも、もういいんだ」
私の言葉を遮るように穂高は力強く言い切った。
「今のままでも、地球の終わりまでは生きられる」
「まだ終わるって決まってないでしょ!」
噛みつくように私は言い放つ。いつもと立場が逆だ。それは穂高も思ったのか、かすかに笑ったのが伝わってきた。
「日本に帰ってきて、ずっと焦ってた。自分には目標があって、こんな回り道をしている場合じゃないのにって。高校生活も病院に通う傍らの暇つぶし程度だった……でもよかった、ここでほのかに出会えたから」
私は小さく頭を振る。いいことなんてひとつもない。穂高が病気になるくらいなら、出会えなくてもよかった。
彼が日本に帰国する必要もなく、アメリカで自分の夢を目指して叶える方がよっぽどいい。
その考えに至り、ついに私の目から涙が溢れだす。我慢するも喉を震わせ嗚咽が漏れてしまい、そんな私を心配してか、穂高が腕の力を緩めてこちらを覗き込んできた。
「なんでほのかが泣くんだよ」
「だって……」
困惑気味の笑顔。穂高は親指で優しく私の涙を拭った。
「俺さ、クドリャフカになりたいって言っただろ」
語り掛けるように穂高は話を振ってくる。天文台を後にして彼が唐突に私に話してきた内容はしっかりと覚えている。私は静かに目で応えた。
「クドリャフカは、世界で初めて宇宙に行った動物なんだ」
穂高は寂しげに説明を始めた。
人類が宇宙に行く前に、幾度となく安全性などを確認するために試験的に犬がロケットに乗せられ、打ち上げられた。
その最初の犬の名前がクドリャフカ。雌だという彼女は適性検査をクリアし、数多の犬の中から選ばれた正真正銘の優秀な一匹だった。
一通りの訓練を終えた彼女は世界初の宇宙船に乗せられ、空へ旅立っていったという。
そこまで聞いて、計画は順調だったんだと窺えた。でも――