「…………」
「――昴?」
「……なんでもない。遅くなってごめんな」

 何か言いたそうに私を見ていた昴は、そう言うと無言で廊下を歩き出した。
 学校を出てしばらくしても昴は何も話そうとしない。

「っ……」

 しばらく歩いた私たちを夕日が照らした。あの日と同じように、燃えるように真っ赤な夕日が。

「――翼?」
「んっ……」

 苦しいわけじゃない。でも――どこか胸がざわつく。

「あれ――?」
「え……?」

 思わず胸を押さえてしまった私に……誰かの声が聞こえた。

「大丈夫? この前の子だよね?」

 ああ、見つけた……。

 あの時は見ることのできなかったその人の顔が、ようやく見えた――。
 多分私より少し年上……落ち着いた雰囲気の、でも優しい目をした人……。

 この人だ――。

「っ……」
「翼!!」

 どんどんと苦しさが増す。
 発作――のそれではない、けれど締め付けられるような苦しさに言葉が出ない。

 どう、して……。

 あの時のお礼が言いたいのに、この人に触れてみたいのに――。
 どうしようもない苦しさに、ついに膝をついてしまう。このままじゃ、また病院に――。

「あっ……」

 私の背中に、優しく誰かの手が触れた。
 その瞬間、何故だか胸の苦しさが和らぐのが分かった。

「翼……?」
「だい、じょうぶ……」

 顔を上げた私の隣には、あの時の人が座り込んでいた。

「大丈夫?」

 そう言いながらその人は、優しく私の背中を撫ぜる。

 この人の手、だったんだ――。

 温かくて大きな優しい手が私の背中を上下に撫でる度、苦しさがマシになっていく。

「は、い……。ありがとう、ございます……」
「翼! 救急車呼ぶ!? それともおばさん!?」
「昴……もう大丈夫だよ……」
「でも……! ああ、もう!」

 少しずつ落ち着きを取り戻す私を見て、昴はどこかに電話をかけ始めた。

「兄ちゃん……! 翼が……!」

 どうやら電話の相手は徹ちゃんのようだ……。また心配をかけてしまうことに申し訳なく思いながらも私は、隣で優しく見守ってくれるその人を見上げた。

「ん?」
「あの……ありがとうございました。今日と……この間と」
「たまたまだよ。それよりマシになったみたいでよかった」

 そう言うとその人は立ち上がった。
 ダメ――! そう思った時には、私はその人の服の裾を掴んでいた。

「え……?」
「な、名前! お礼をしたいんで名前教えてください!」
「お礼なんて……」
「2回も助けて頂いたんです! だから……」

 必死に言う私に、その人は困ったような表情を見せる。

「いや、でも……本当に何もしてないから……」
「そんな……」
「あの」

 そんな私たちに、電話を切った昴が声をかける。

「俺からもお礼を言わせてください。前回はありがとうございました。もうすぐ兄が迎えに来るんですが、兄からもあなたの名前を伺うように言われました。お礼をさせてほしいと。なので名前教えて頂けませんか?」
「――困ったな」

 どうしたものか――少し悩んだのちにその人は口を開いた。

「片岡です。片岡潤(かたおかじゅん)。でも、本当に何をしたって訳じゃないからお礼とかは遠慮させてほしいとお兄さんにもお伝えください」
「片岡、さん――」
「あの後、気になってたのでこうやって学校に行けれている姿が見れてよかった。それじゃあ」

 優しく微笑むと、片岡さんは私と昴に一礼してその場を去って行く。

 片岡、さん……。

 その後ろ姿を見つめながら、何度も何度も胸の中でその名前を呟いた。