「君か、いろいろ動き回っていたのは」
 かすみちゃんが、くぐもった声で静かに訊く。
「かすみちゃん?」
いや、僕にはもう、尋ねながらにわかっていた。彼女はかすみちゃんじゃない。

「私はこの子の、かすみの体を借りている。君も大変だったな。まさかいきなり襲われるなんて」
かすみちゃんの中の誰かが、表情は一向に変えないまま、言葉だけで気遣いをみせた。

「あなたは、誰なんです」
「君と同じ能力を持つ者」
「同じって、人の体に飛べるってことですか」
「面白い質問をするな、君は。見ての通りだよ。『かすみちゃん』はこんな話し方をしないだろ」

雲に隠れていた月が顔を見せたのか、僕の背後から光が射した。
照らし出されたかすみちゃんの表情は静かな笑みを浮かべているものの、その瞳は僕の心の中の動揺を見透かすように冷静だった。

「忠告しよう。その力、暇つぶしで使うのは危険だ。もうやめておけ」
僕は憤りを抑えて尋ねる。
「あなただって、同じことをしているじゃないですか」
「我々には目的がある」
強い語気だった。

「他にもいるんですか、同じ能力を操る人たちが」
「この力を悪に使う者たちのことを、我々は『乗っ取り』と呼んでいる。世界中で起きる凶悪犯罪、国家が主導的に起こす戦争なんかは、ボスや国家元首が体を乗っ取られて起きていることが多い」
「他人の体を乗っ取って、戦争やテロを起こすなんて」
「アメリカ大統領が乗っ取られて核のボタンを押せば、世界は終わる」
「アメリカ大統領まで、ですか」
「起こりうる未来の危機。仮定の話だ」
僕は胸をなでおろした。

しかし、僕が空想で思いついた邪な考えは、たしかに凶悪な人間だったら実行しようとしてもおかしくはない。

「我々は乗っ取りによる大きな惨劇を招かないよう、日々、世界中で組織的に監視体制を敷いている」
「でも、どうやって僕のことを」
 そうだ、いくら世界中で監視しているといっても、調べきれるだろうか。世界は広い。日本だって、一億以上の人の中からこの能力を持つ人間を探し出すなんて、不可能に近い。
「できるわけがないという顔をしているな」
「そんなこと……」
図星だった。
「君はこの、かすみという少女を守るため、そっちで倒れている沙希という子の体を乗っ取っていた」
「乗っ取るだなんて」
「これは失敬。君の言葉で言えば、飛んだ、ということか」
かすみちゃんの、いや正確に言えばかすみちゃんの体をコントロールする何者かの意識が変化したのか、彼女の顔に優しさが浮かんだ。
「さきほど君の行為、まあ、志は買おう。愛のために、なんてところがとてもいい」
いきなり志を買われても、くそう、、、言い返す言葉も出てこない。

不敵な笑みを浮かべた彼女が続ける。
「せっかくだから一つ教えてあげよう。君の存在をどうやって特定したか」
僕は口の中に溜まった唾をごくりと飲み込んだ。
「難しいことではない」
かすみちゃんは腕組みした。
「君も把握しているように、他人の体に飛べば、コントロールされる人間は、その間の記憶がなくなる。もちろんそれも、数秒のことであればたいしたことはないだろう。酔っ払っている人間ならよくあることとして片付けられる。ただ、君がやったように、その時間が長くなればなるほど、身体を乗っ取られた人間は意識を取り戻したときに不安がる。そうしたらどうする? 沙希や、君の姉のような人は」

いつも理屈の通らない言動ばかりしていた姉さえも、ついに先日、病院へ連れて行かれた。そうだ、沙希も。

「病院のネットワーク基幹に接続できる人間に飛び、データを見ればわかることだ。記憶が曖昧だという患者がある地域で急に増えれば、その周辺が怪しい」
姉なんて、身内だから飛びやすいと思っていたけど、怪しまれたらたしかに、僕が真っ先に疑われる。
「あの……」
僕は、ある質問をしたくて、それが喉のあたりまでこみ上げてきたものの、最後に躊躇して口ごもった。
「かすみが我々と関係あるのか訊きたいんだろう」
さっきから、すべて見透かされている。
「安心しろ、この子は違う。緊急避難的に乗っ取った。本当はしばらく君の動きを観察しようという好奇心もあったのだが」
 僕の非力を見てたのか。それに怒ろうという気力もなく、うなだれた。
「君と同様、我々も、話したことのない人間には飛べない。だからかすみに飛んだ」
「かすみちゃんとは、面識があるんですね」
「彼女は気付いてないだろうけどね」
「誰なんです、あなたは」

かすみちゃんは、いや、誰かわからない何者かは、僕の質問には答えなかった。

そして彼女の体が急に、糸の切られたマリオネットのように地面に崩れた。

「かすみちゃん!」

僕が叫んだ直後に、背後から気配がした。

「心配ない。僕が彼女の体から出たため、一時的に意識を失っているだけだ」
僕が振り返った先、倒れている沙希の隣には、知っている顔が立っていた。

「佐藤ヒロシ!」


マジかよ。
おいおい、なんてこった……。
彼だったのか。
僕がさんざん飛んでいた佐藤ヒロシにも同じ能力があったなんて。しかも、僕のことをずっと監視していたとは。
くそっ! まったく気付かなかった……。
「他人の体を乗っ取ることは何百回もあったのに、まさか自分が乗っ取られる経験をするなんて思いもしなかった。嫌なもんだね、体を奪われるってのは……」
佐藤ヒロシの口調が、先ほどまでの大人びた感じではなく、中学生らしいものに変わった。
「まさか僕以外にも君たちを観察していた人間、ストーカー? 通り魔か? まあどちらでもいいけど――そいつがこのタイミングで接触してくるとは思わなかったよ」

佐藤ヒロシの目が、再び吸い込まれるような暗い目に変わった。

「陽一くん。君はすぐに、警察に通報しろ。男はナイフを隠し持っていた。これは勘だが、おそらく前科がある。そういう人相だ。ブタ箱行きは免れまい」

振り返ると、いまだに男はぐったりとしている。

「女の子二人は心のケアが必要だ。そこは君が責任を取れ」
佐藤ヒロシの言葉は、優しさと正義感に満ち溢れていた。
「待ってよ!」
僕は懇願するように叫んだ。

「なんだい?」
佐藤ヒロシが首をかしげる。
「もっと、いろいろ教えてくれないかな」

――僕と、つきあってもらえませんか。
僕はかすみちゃんに告白するのと同じくらいの勇気を振り絞って、膨らむ想いを声にした。

佐藤ヒロシはしばらくの間、品定めでもするようにまじまじと僕を見つめた。いや、その目は獲物の動きを観察する肉食動物のようにも思えた。

「忠告はもう、これきりだよ。その力、二度と使うな。もしもまた能力を使ったら、今度は君の安全を保障できない」
佐藤ヒロシは不気味なまでに口角を上げた。そして、踵を返すと、闇夜に溶け込むように去っていった。

僕の周りに、沙希、男、かすみちゃんが倒れている。
全ての音が奪われたかのように、静けさが辺りを包んだ。
僕はなんとか、ゆっくりとかすみちゃんの元に歩み寄り、彼女を抱きかかえた。