西の空はまだかろうじてうっすらと橙色が残っているが、振り返って東を見れば、深い紫の空に星が瞬いている。

沙希の体をコントロールする僕は、かすみちゃんといっしょにピザ屋に向かった。場所を聞く限り、どうやら学校からは近いようだ。
商店街はすでにシャッターを下ろしている店が多く、街灯と行き交う車のヘッドライトだけが足元を照らした。その一番奥の端にピザ屋はあった。

僕らは通りを挟んで向かい側の、少し斜向かいのポストの陰に身を屈めた。
「男の人が二人いるよ。どっちかわかる?」僕はポストの横からピザ屋を覗いた。

かすみちゃんを返り見ると、彼女はポストの裏でうずくまったまま顔を上げない。きっと怖さで体がうまく動かないのだろう。
「大丈夫。向こうからは暗くて見えないから」
僕はかすみちゃんの肩に手を置いた。

かすみちゃんは僕を見上げると、意を決したように深く頷いた。
「沙希がいてくれて、ほんとよかった」
そう言ってポストの横からピザ屋を窺う。
「どう?」
彼女は首を横に振った。
「あの人たちは二人とも違う人だと思う」
「配達に行ったか、休みか。残念だね」
「でも、ちょっとほっとしてる」
かすみちゃんが大きく息を吐く。
「今日は帰ろうか。また明日来よう」
「ごめんね、こんなことにつき合わせちゃって」
「気にしないの」

そうさ、僕は僕の意思でここにいる。沙希の体でだけど。でもきっと沙希だって、かすみちゃんから相談があれば、こうしていたはずだ。今日帰ってから、また彼女にこの時間の記憶がないことだけが申し訳ない。

「かすみ、家まで送ってくよ」
「え、そんな、悪いよ」
「なに言ってんの。ストーカー話を聞いたその日の夜に一人で帰らせられるわけないでしょ」

かすみちゃんは僕の言葉にどう返していいかわからないようで、うつむいてしまった。
「さ、行こうか」
僕はかすみちゃんを先導するように歩き出した。
「沙希、ほんとにありがと」

かすみちゃんが僕の後を小走りについてくる。僕が沙希の体を借りずに、僕自身の体でいまこの場にいられたら、周りからはどう見えるんだろう。彼氏が彼女を送るとこ、だよな。いつかほんとにそうなれたらいいな――なんて思ってみた。

商店街を途中まで戻って、そこから脇の道に抜けると住宅街が広がった。空にあった星たちは、霧のような薄い雲に隠れている。電柱の灯りだけが点々と足元を照らすだけで、ひっそりとしていた。ここは両脇が空き地かブロック塀かで、車どおりも少なく、ストーカーの気配を心配するかすみちゃんにとっては、ひどく心細い道だ。

「だれか、男子に相談する?」
かすみちゃんと二人で歩きながら、思っていたことを投げかけてみた。中身が僕でも体は沙希だ。いざというときに力では及ばないかもしれない。もちろん、『だれか』といってもほんとにだれか別の男子に頼もうとは思っていない。だから、僕が僕の体で彼女を守ることができるなら、そうしたい。今はもう、影で見守るような悠長な状況ではない気がした。

「お願い、それはやめて」
かすみちゃんはなんとか絞り出したような声で懇願した。
「相談できるような親しい男の子もいないし、それよりも、なんだか恥ずかしい」
「そっか」
「そんなこと言ってる場合じゃないのに、ごめんね」
かすみちゃんはまた謝った。

彼女の気持ちはよくわかった。自分がストーカーに狙われているから助けてほしいなんて、仮に沙希が代理でお願いするにしても、かすみちゃんには耐えられないことなのだろう。

「じゃあ、先生に相談しようよ。保健の先生なら親身に聞いてくれると思うよ。それも恥ずかしい?」
かすみちゃんは、首を振った。
「ううん、それなら大丈夫」
「よし、明日いっしょに保健室に行こう」
やっと打開策が見えた気がしてうれしくなった。

と、その時。

後頭部に何かが触れた。いや、その瞬間は触れたと思ったが、すぐに激しい痛みが走り、体が前へ吹き飛ばされた。なんとか両手をついて、頭から落ちることはなかったが、全身がアスファルトに崩れこんだ。
背後から、棒のようなもので――殴られた?

「きゃ」

かすみちゃんが悲鳴を上げようとした瞬間、彼女の口が何者かの手で塞がれた。黒く硬い手、いや、革手袋だった。

立ち上がろうにも、頭がふらついて平衡を保てなかった。ひじやひざが擦り切れたか、鋭い痛みが伴う。倒れたまま見上げると、ジーパンにジージャンの若い男が、かすみちゃんに背中から抱きついている。右手は彼女の口を覆い、左手が彼女の体を細い両腕ごとくるむように押さえつけていた。
やめろ、と叫びたかったが、喉の奥で声がつぶれた。

僕は立つに立てないまま、はいはいをする赤ん坊のように、ひざをついて四つん這いのまま進んだ。ひざが痛い。沙希にどう詫びていいか、言葉も出ない。必死に男の片足に抱きついた。
「やめろ」
今度はなんとか声になった。

男はかすみちゃんに抱きついたまま、足を振って、僕の絡みついた腕をほどこうとした。
僕は決してその腕を放さない覚悟で耐える。
すると男は左腕でかすみちゃんの首に回し、ぎゅっと絞め始めた。
「足を離さないと、もっと絞めるぞ」
ささやくような男の声に、一瞬怯んで力を抜いてしまった。

男の足が絡み付いていた僕の腕をするりと抜ける。そしてすぐに、上がった足が再び振り落とされた。ちょうどサッカーボールを蹴るように僕の(いや、体は沙希なのだが)わき腹を捕らえた。地面から何センチか体が浮くほどの強さだった。全身を強く締め上げられたような衝撃に、完全に息が詰まった。

男は蹴り上げた勢いでバランスを崩し、かすみちゃんとともに倒れこんだ。かすみちゃんは混乱と恐怖からか、目をつむり、涙を流していた。
僕はもう、立ち上がるどころか、息をするのも大変な状態だった。意識が徐々に薄れ始める。
まずい。このままじゃ決定的にまずい。
僕は強く目を閉じた。

体育館裏の倉庫は闇に包まれており、抜け出るのにてこずった。空き缶の入った籠が崩れる音がしたが、そんなことにかまってはいられない。
沙希の体から一旦自分の体に戻った。

こうするしかなかった。学校からさっきの場所までそんなに遠くはない。全力で走ればなんとかかすみちゃんを助けに間に合うはずだと判断した。
倉庫の裏の垣根をよじ登り、校庭から出た。道路を横切り、住宅街へ続く道をひた走る。

くそう!
まさかさそり座の占いが当たるなんて。
あいつ、もしかして、最近ニュースで話題になっていた通り魔事件の犯人なのか……。

このままかすみちゃんを守れなかったら僕は一生後悔する。沙希にだって顔向けできない。こんなに体を借りて、そしてその体に傷まで負わせてしまった。かすみちゃんがあの男の手にかかってしまったら、僕はこれから生きていけない。

絶対守る。なんとしても。

ただひたすらに、走った。

ブロック塀の続く通りの角を曲がると、数十メートル先に、もつれ合う人影が見えた。「やめろー!」僕は叫びながら駆け寄る。
道の脇では、沙希が先ほどの位置で気を失って倒れていた。

沙希、ほんとにごめん!
目を向けた先では、かすみちゃんが仰向けに倒れ、男がかすみちゃんの両足に自分の体を挟ませる形で上になっていた。これまで必死に抵抗したのか、かすみちゃんの制服は、腕の部分がところどころ擦り切れていた。
今にも、男がかすみちゃんの制服の胸の部分を両手で掴み、破ろうとしている。

僕の大切なかすみちゃんが、こんなわけのわからない男に卑しめられるなんて、そんなの、そんなの、

絶対に認めないっ!

僕が男に飛びかかろうとした、その刹那。
「え?」
目の前で、信じがたい光景が……。

「かすみ……ちゃん?」

制服を掴んでいた男の腕を、かすみちゃんの両手が覆い、くい、と引き離す。男は驚きを隠せず一瞬体を反るが、今度はかすみちゃんの首を絞めようと手を前に出した。

すると、かすみちゃんが仰向けのまま両足を自分の胸の辺りまで引き上げる。左足はそのままに、右足の太ももを男の首に当てた。男はかすみちゃんの両足に右腕と首を挟まれる格好になる。ここまでに、一度も瞬きする余地がなかった。

かすみちゃんは右ももに男の首を当てたままひざを折った。ほぼ同時に右足の甲を左足のひざ裏に引っ掛ける。左ひざ、右ひざ、右ももがトライアングルを作り、その中に男の右腕と首が挟みこまれた。
この姿勢、ていうか、技、どっかで見たことがある。
腕ひしぎ、じゃなくて、なんだったっけ。
姉がよく観ている格闘技の試合で、何度か目にした技だ。
トライアングルの形で絞め上げる……、
三角絞め。

そうだ、それだ。でも、いったいなんで、かすみちゃんがそんな技を?
かすみちゃんは、両足に挟んだ男の頭を左手で自分の腹に押さえつけ、男の右腕をもう一方の手で引っ張り上げた。完全に極まっていた。
この技はたしか、足の絞めつけによって、自らの腕で自分の頚動脈を絞めることになる危険な技だ。レフェリーが止めなければ、技を掛けられた側は『落ちる』。つまり、気絶するということだ。

「かすみちゃん」
僕はもう一度彼女の名を呼んだ。
男の体からはすでに、意思や力が感じられない。
自分の上にぐったりと覆い被さる亡骸のような男を横にどかし、かすみちゃんはゆっくりと体を起こして立ち上がった。めくれ上がったスカートの裾を直す姿は、明らかにいつもの、というか先ほどまでのかすみちゃんとは違った。