あいかわらず眠気を誘う社会の授業が終わると、校内に昼休みを告げるチャイムが鳴り渡った。いつもなら、しばらく自分の机でぼーっとしてから弁当の箱を開けるところだが、今日は違った。
僕はチャイムとともに教室を出た。ほかのクラスからもぱらぱらと生徒たちが出てくる。なるべく目立たないように廊下を小走りで移動し、ひとけが途絶えたところで階段を一段飛ばしにして一気に駆け下りた。昇降口を出ると体育館側へ回り、だれかに見られていないか辺りを注意深く窺い、安全を確認すると、倉庫へ入った。
薄暗い倉庫の中は、砂利と新聞のインクが混ざったような匂いが漂っていた。そろそろ沙希たちがトイレへ連れ立つ時間だ。僕は新聞紙や雑誌の山にうずもれるように、それらと倉庫の壁の間に身を潜めた。
目を閉じ、沙希の姿、存在を強く意識する。この距離から飛ぶのにはもう十分に慣れた。いつもどおり、まぶたの向こうが光る。乗り移るのは一瞬だ。
「沙希、どうしたの?」
目を開くと、いつも沙希のグループにいるショートカットの女子が僕の顔を覗き込んでいた。
まあ、正確に言えば、僕が飛んだ沙希の顔を、だが。
「ううん、なんでもない。ちょっと貧血」
沙希の体に入った僕は、大丈夫、大丈夫、と軽く応えて、すっと立ち上がった。
そんなことより、僕の胸(今は沙希の胸)がバクバクいってやばい。
だって、だって……
ショートカットの隣に、紛れもなくかすみちゃんがいるんだから。
僕を見るその瞳が子猫のように潤んでいる。耳の後ろから胸にかけて流れるような髪からいい香りがしてきた。
「もしかしてダイエット中?」
ショートカットが尋ねた。
僕は机の上の弁当をひょいっと手にとって笑う。
「まさか、このわたしがダイエットなんてするわけないじゃん。もうおなかペコペコ。さ、行こ行こ」
沙希はいつもあっけらかんとしていて、明るく振舞う子だった。だから佐藤ヒロシの体で観察していて感じた、いつも通りの沙希を演じる。
教室の面々はみんなそれぞれの昼休みを過ごし始めていた。机をくっつけて、グループで弁当を広げる女子たちや、授業中に早弁したのか、早速グラウンドへサッカーをしにいく男子の一団、読書したり、耳にイヤホンをさしたりして一人で食べている者もいる。
僕(沙希)たちは、というと、ショートカットの女子とかすみちゃんを含めた五人グループで、まずは一緒にトイレに寄って、それから校舎の屋上に上がった。
屋上にはすでにいろんな学年の生徒がいくつか輪を作っていた。青々としすぎない空と澄んだ空気、降り注ぐやさしい日差しが気持ちよかった。
僕らは屋上の片隅に、輪になって座る。かすみちゃんは乙女座りしたが、僕はいつもの沙希の行動パターンを模倣してあぐらをかいた。みんなそれぞれに持ち寄ったお弁当を開く。
隣の女子が、「あ、沙希のから揚げおいしそう。一個いただき」と言って、ひょいっとつまんでいった。
なんか感激。僕は完全に沙希として認識され、溶け込めている。
よし……、僕もいつも沙希がやっているように、かすみちゃんのお弁当から卵焼きをひとかけら抜き取ってみよう。
「じゃあ、わたしはかすみの卵焼きをいただき」
手にした箸をかすみちゃんの弁当に近づける。
が、……やばい、震える。手が……手が……震える。
止どまれ。舌を噛んだ。
ぐをっ! 痛い。
でも幸い、手の震えはなんとか治まった。無事にかすみちゃんの卵焼きを口に入れる。
ああ、おいしい。かすみちゃんのお弁当を頬張っている幸福と、ファーストアクションをなんとか無難にこなせた感激から、僕は心の中で小躍りした。
こんなに至近距離でかすみちゃんと会話することは、女子と付き合ったことはおろか、話すことも稀な僕にとってはG難度の技といってもいい。声が震えたりどもったりしないように、昨夜、自分の部屋で何度もイメージトレーニングしていた。(手の震えは防げなかったが、まずまずの出だしだ)
僕があまりにおいしそうに食べたからか、「あー、いいなー。わたしにもちょうだい」と、ほかの女子たちもかすみちゃんのお弁当を覗き込んだ。
「よかったら、一つずつどうぞ」
かすみちゃんは弁当箱をみんなに差し出した。卵焼きのほかにも、焼き魚やポテト、ウインナーやアスパラのベーコン巻きがかわいらしく盛られている。
「卵焼き、甘すぎない?」
かすみちゃんが不安そうにみんなを見た。
「おいしい! ふわふわしてて、甘さもちょうどいいよ」
女子の一人が絶賛する。
「これもしかして、全部かすみが作ったの?」
別の女子が訊いた。
「うん。ちょっとお母さんに手伝ってもらったけど」
かすみちゃんが頬を赤く染めてはにかむ。少し俯いた瞬間に耳にかかっていた長い髪が何本かはらりと垂れた。それを指ですくって耳にかけなおすしぐさが、自然な感じでどきりとした。
……って、おいおい、見惚れてる場合じゃない。
僕は今、沙希なんだ。
「かすみはいいよねー、料理うまくて。わたしなんか何度やっても焦がすか崩れるか、卵焼きすら満足にできないんだよ」
沙希の嫌味のないあっけらかんとした言い方で、お茶目に嘆いてみせた。
わたしもわたしも、と他の女子たちが口々に共感を並べた。
弁当箱をしまってからは、水筒のお茶を飲みながら、女子たちが持ち寄った雑誌を開いた。音楽雑誌、アイドル雑誌、ファッション雑誌といろいろだった。
「わたし、なよなよした男性アイドルよりも、ギターをジャンジャン弾いちゃうムキムキなロッカーのほうが好きだな」
ジャンジャン、という表現はともかく、沙希はロックをこよなく愛する。学校帰りの尾行では、たいていCDショップに寄って、洋楽の中でもマニアックそうなアルバムを視聴していた。
かすみちゃんは、沙希のロック愛談義をいつもにこにこしながら聞いていた。
「ねえ、見て、占い載ってるよ」
女子の一人が持っていたファッション雑誌の一ページを指す。
「かすみって何座だっけ」ショートの女子が尋ねた。
「さそり座」
え、かすみちゃん、さそり座なんだ。僕といっしょだ。ということは、誕生日近いかも。
またしてもドキドキしてきた。
「さそり座は、『心配事が悪いほうに転ぶ恐れあり。影から支えてくれる人のサポートで乗り切れるかも』だって」
ショートカットの女子が読み上げた占いに、かすみちゃんの顔が曇った。
「ごめん、かすみ、気にした?」
ショートが心配そうにかすみちゃんを見た。
「やだ、かすみ、悪いほうに転ぶなんて、ないない。大丈夫だって」と僕もすぐにフォローした。「第一かすみ、心配事ないでしょ」
かすみちゃんは曖昧な表情で微笑んだ。
「この雑誌の占い、全然当たんないしね。わたしの星座、恋愛成就みたいなこと書いてあるけど、片思いの人すらいないのに、ありえないよね」
ショートの女子もかすみちゃんのことを気遣ってか、多少自虐的に言って笑ってみせた。
「わたしさ、今日すっごく香りのいい紅茶入れてきたんだ。かすみ、飲んでみてよ」
別の女子が自分の水筒を開き、コップ代わりのふたに中身を注いだ。ほんのりと桃の甘みが漂った。
はい、と手渡されたコップを、かすみちゃんは両手でていねいに受け取る。ありがと、と一言つぶやいて、紅茶を口に含んだ。湯気とともに立ち上る香りを体いっぱい吸い込んで、味わうように喉に流した。
どう? という女子の問いかけに、かすみちゃんは「おいしい!」と驚き、目を輝かせた。
でしょ、でしょ、と女子も満足げだ。
「沙希も飲んでみて」
女子が言うと、かすみちゃんから女子へ、女子から僕へコップが回ってきた。
「え、いいの?」
思わず聞き返してしまった。
「なに遠慮してんのよ。いいもなにも、いつもだったら飲む飲むってはしゃぐくせに」
たしかにそうだ。沙希ならはしゃぐはず。あまりに動揺して、つい本音が出てしまった。
僕の手にあるコップ。みんなが僕を見ている。もちろんかすみちゃんも。
コップを口に運ぶ途中で、気付いた。僕が口をつけようとしているところがほのかに湿っている。これはもしや。かすみちゃんの……? え、え、え?
僕はコップに口をつけた。
これはまさかの、間・接・キス‼⁇
紅茶の味より、コップの縁の感触に体中の全神経を集中させた。
体が急に熱を発した。
バイタル異常! 血圧心、拍数急上昇!
脇と背中から汗が噴き出す。たぶん、頬も額も耳も火照っているはずだ。
「ちょっと沙希、どうしたの。大丈夫?」
さすがにみんなも僕の変化に気付いたのだろう。心配そうに見つめる四つの顔は、すり硝子で隔たれたようにぼんやりとしか見えない。
頭がくらくらする。
想像以上だ、かすみちゃんとの間接キス。
正義だ愛だと騒ぎ立て、彼女を守るためといって沙希に入ってかすみちゃんに近づいておいて、これじゃ完全に変態ストーカーじゃないか。
僕は体育館裏の倉庫の中の自分に意識を合わせた。
女子たちの声が、頭の中の小部屋を反響しながら小さくなっていく。
目の前が光に包まれた。
学校から帰ると、そのまま力なく自室のベッドに倒れこんだ。
昼休みのあとの授業がなんだったのかさえ、ほとんど覚えていない。沙希は自分の体が妙に汗ばんでいたことと、昼休みの記憶がないことから、五時間目の授業を早退して病院へ向かった。
佐藤ヒロシの体で沙希を尾行し、沙希の行動を十分に把握した上で臨んだ今日の計画だったが、ひとつ、決定的に準備できていないことがあった。
それは、女子に対する免疫。
もうちょっと自然に接する自信があったのに、憧れの子と初めて話すのがこんなに緊張するとは。我ながら情けない。
間接キスごときで気を失いかけるとは。自嘲気味にも、笑うに笑えない。こんなんでどうやってかすみちゃんを守る? 守る前に挙動不審を怪しまれて僕の能力がばれてしまうかもしれない。長いため息が漏れた。
こんなとき、どうする?
数々の栄光を掴み取ってきたマンガの主人公たちだったら、何をする?
ベッドに仰向けになって考えた。天井の明かりがぼんやりと照っている。
そうだ、修行だ。修行をして克服すればいい。
明日は幸い、学校は休みだ。
かすみちゃんへの免疫力は本人と話し続けないとつけようがないが、まずはいろんな女子、いや、女性と話す機会を作ってみよう。いつも話すことのない女性と、できるだけ面と向かって話すんだ。
僕はチャイムとともに教室を出た。ほかのクラスからもぱらぱらと生徒たちが出てくる。なるべく目立たないように廊下を小走りで移動し、ひとけが途絶えたところで階段を一段飛ばしにして一気に駆け下りた。昇降口を出ると体育館側へ回り、だれかに見られていないか辺りを注意深く窺い、安全を確認すると、倉庫へ入った。
薄暗い倉庫の中は、砂利と新聞のインクが混ざったような匂いが漂っていた。そろそろ沙希たちがトイレへ連れ立つ時間だ。僕は新聞紙や雑誌の山にうずもれるように、それらと倉庫の壁の間に身を潜めた。
目を閉じ、沙希の姿、存在を強く意識する。この距離から飛ぶのにはもう十分に慣れた。いつもどおり、まぶたの向こうが光る。乗り移るのは一瞬だ。
「沙希、どうしたの?」
目を開くと、いつも沙希のグループにいるショートカットの女子が僕の顔を覗き込んでいた。
まあ、正確に言えば、僕が飛んだ沙希の顔を、だが。
「ううん、なんでもない。ちょっと貧血」
沙希の体に入った僕は、大丈夫、大丈夫、と軽く応えて、すっと立ち上がった。
そんなことより、僕の胸(今は沙希の胸)がバクバクいってやばい。
だって、だって……
ショートカットの隣に、紛れもなくかすみちゃんがいるんだから。
僕を見るその瞳が子猫のように潤んでいる。耳の後ろから胸にかけて流れるような髪からいい香りがしてきた。
「もしかしてダイエット中?」
ショートカットが尋ねた。
僕は机の上の弁当をひょいっと手にとって笑う。
「まさか、このわたしがダイエットなんてするわけないじゃん。もうおなかペコペコ。さ、行こ行こ」
沙希はいつもあっけらかんとしていて、明るく振舞う子だった。だから佐藤ヒロシの体で観察していて感じた、いつも通りの沙希を演じる。
教室の面々はみんなそれぞれの昼休みを過ごし始めていた。机をくっつけて、グループで弁当を広げる女子たちや、授業中に早弁したのか、早速グラウンドへサッカーをしにいく男子の一団、読書したり、耳にイヤホンをさしたりして一人で食べている者もいる。
僕(沙希)たちは、というと、ショートカットの女子とかすみちゃんを含めた五人グループで、まずは一緒にトイレに寄って、それから校舎の屋上に上がった。
屋上にはすでにいろんな学年の生徒がいくつか輪を作っていた。青々としすぎない空と澄んだ空気、降り注ぐやさしい日差しが気持ちよかった。
僕らは屋上の片隅に、輪になって座る。かすみちゃんは乙女座りしたが、僕はいつもの沙希の行動パターンを模倣してあぐらをかいた。みんなそれぞれに持ち寄ったお弁当を開く。
隣の女子が、「あ、沙希のから揚げおいしそう。一個いただき」と言って、ひょいっとつまんでいった。
なんか感激。僕は完全に沙希として認識され、溶け込めている。
よし……、僕もいつも沙希がやっているように、かすみちゃんのお弁当から卵焼きをひとかけら抜き取ってみよう。
「じゃあ、わたしはかすみの卵焼きをいただき」
手にした箸をかすみちゃんの弁当に近づける。
が、……やばい、震える。手が……手が……震える。
止どまれ。舌を噛んだ。
ぐをっ! 痛い。
でも幸い、手の震えはなんとか治まった。無事にかすみちゃんの卵焼きを口に入れる。
ああ、おいしい。かすみちゃんのお弁当を頬張っている幸福と、ファーストアクションをなんとか無難にこなせた感激から、僕は心の中で小躍りした。
こんなに至近距離でかすみちゃんと会話することは、女子と付き合ったことはおろか、話すことも稀な僕にとってはG難度の技といってもいい。声が震えたりどもったりしないように、昨夜、自分の部屋で何度もイメージトレーニングしていた。(手の震えは防げなかったが、まずまずの出だしだ)
僕があまりにおいしそうに食べたからか、「あー、いいなー。わたしにもちょうだい」と、ほかの女子たちもかすみちゃんのお弁当を覗き込んだ。
「よかったら、一つずつどうぞ」
かすみちゃんは弁当箱をみんなに差し出した。卵焼きのほかにも、焼き魚やポテト、ウインナーやアスパラのベーコン巻きがかわいらしく盛られている。
「卵焼き、甘すぎない?」
かすみちゃんが不安そうにみんなを見た。
「おいしい! ふわふわしてて、甘さもちょうどいいよ」
女子の一人が絶賛する。
「これもしかして、全部かすみが作ったの?」
別の女子が訊いた。
「うん。ちょっとお母さんに手伝ってもらったけど」
かすみちゃんが頬を赤く染めてはにかむ。少し俯いた瞬間に耳にかかっていた長い髪が何本かはらりと垂れた。それを指ですくって耳にかけなおすしぐさが、自然な感じでどきりとした。
……って、おいおい、見惚れてる場合じゃない。
僕は今、沙希なんだ。
「かすみはいいよねー、料理うまくて。わたしなんか何度やっても焦がすか崩れるか、卵焼きすら満足にできないんだよ」
沙希の嫌味のないあっけらかんとした言い方で、お茶目に嘆いてみせた。
わたしもわたしも、と他の女子たちが口々に共感を並べた。
弁当箱をしまってからは、水筒のお茶を飲みながら、女子たちが持ち寄った雑誌を開いた。音楽雑誌、アイドル雑誌、ファッション雑誌といろいろだった。
「わたし、なよなよした男性アイドルよりも、ギターをジャンジャン弾いちゃうムキムキなロッカーのほうが好きだな」
ジャンジャン、という表現はともかく、沙希はロックをこよなく愛する。学校帰りの尾行では、たいていCDショップに寄って、洋楽の中でもマニアックそうなアルバムを視聴していた。
かすみちゃんは、沙希のロック愛談義をいつもにこにこしながら聞いていた。
「ねえ、見て、占い載ってるよ」
女子の一人が持っていたファッション雑誌の一ページを指す。
「かすみって何座だっけ」ショートの女子が尋ねた。
「さそり座」
え、かすみちゃん、さそり座なんだ。僕といっしょだ。ということは、誕生日近いかも。
またしてもドキドキしてきた。
「さそり座は、『心配事が悪いほうに転ぶ恐れあり。影から支えてくれる人のサポートで乗り切れるかも』だって」
ショートカットの女子が読み上げた占いに、かすみちゃんの顔が曇った。
「ごめん、かすみ、気にした?」
ショートが心配そうにかすみちゃんを見た。
「やだ、かすみ、悪いほうに転ぶなんて、ないない。大丈夫だって」と僕もすぐにフォローした。「第一かすみ、心配事ないでしょ」
かすみちゃんは曖昧な表情で微笑んだ。
「この雑誌の占い、全然当たんないしね。わたしの星座、恋愛成就みたいなこと書いてあるけど、片思いの人すらいないのに、ありえないよね」
ショートの女子もかすみちゃんのことを気遣ってか、多少自虐的に言って笑ってみせた。
「わたしさ、今日すっごく香りのいい紅茶入れてきたんだ。かすみ、飲んでみてよ」
別の女子が自分の水筒を開き、コップ代わりのふたに中身を注いだ。ほんのりと桃の甘みが漂った。
はい、と手渡されたコップを、かすみちゃんは両手でていねいに受け取る。ありがと、と一言つぶやいて、紅茶を口に含んだ。湯気とともに立ち上る香りを体いっぱい吸い込んで、味わうように喉に流した。
どう? という女子の問いかけに、かすみちゃんは「おいしい!」と驚き、目を輝かせた。
でしょ、でしょ、と女子も満足げだ。
「沙希も飲んでみて」
女子が言うと、かすみちゃんから女子へ、女子から僕へコップが回ってきた。
「え、いいの?」
思わず聞き返してしまった。
「なに遠慮してんのよ。いいもなにも、いつもだったら飲む飲むってはしゃぐくせに」
たしかにそうだ。沙希ならはしゃぐはず。あまりに動揺して、つい本音が出てしまった。
僕の手にあるコップ。みんなが僕を見ている。もちろんかすみちゃんも。
コップを口に運ぶ途中で、気付いた。僕が口をつけようとしているところがほのかに湿っている。これはもしや。かすみちゃんの……? え、え、え?
僕はコップに口をつけた。
これはまさかの、間・接・キス‼⁇
紅茶の味より、コップの縁の感触に体中の全神経を集中させた。
体が急に熱を発した。
バイタル異常! 血圧心、拍数急上昇!
脇と背中から汗が噴き出す。たぶん、頬も額も耳も火照っているはずだ。
「ちょっと沙希、どうしたの。大丈夫?」
さすがにみんなも僕の変化に気付いたのだろう。心配そうに見つめる四つの顔は、すり硝子で隔たれたようにぼんやりとしか見えない。
頭がくらくらする。
想像以上だ、かすみちゃんとの間接キス。
正義だ愛だと騒ぎ立て、彼女を守るためといって沙希に入ってかすみちゃんに近づいておいて、これじゃ完全に変態ストーカーじゃないか。
僕は体育館裏の倉庫の中の自分に意識を合わせた。
女子たちの声が、頭の中の小部屋を反響しながら小さくなっていく。
目の前が光に包まれた。
学校から帰ると、そのまま力なく自室のベッドに倒れこんだ。
昼休みのあとの授業がなんだったのかさえ、ほとんど覚えていない。沙希は自分の体が妙に汗ばんでいたことと、昼休みの記憶がないことから、五時間目の授業を早退して病院へ向かった。
佐藤ヒロシの体で沙希を尾行し、沙希の行動を十分に把握した上で臨んだ今日の計画だったが、ひとつ、決定的に準備できていないことがあった。
それは、女子に対する免疫。
もうちょっと自然に接する自信があったのに、憧れの子と初めて話すのがこんなに緊張するとは。我ながら情けない。
間接キスごときで気を失いかけるとは。自嘲気味にも、笑うに笑えない。こんなんでどうやってかすみちゃんを守る? 守る前に挙動不審を怪しまれて僕の能力がばれてしまうかもしれない。長いため息が漏れた。
こんなとき、どうする?
数々の栄光を掴み取ってきたマンガの主人公たちだったら、何をする?
ベッドに仰向けになって考えた。天井の明かりがぼんやりと照っている。
そうだ、修行だ。修行をして克服すればいい。
明日は幸い、学校は休みだ。
かすみちゃんへの免疫力は本人と話し続けないとつけようがないが、まずはいろんな女子、いや、女性と話す機会を作ってみよう。いつも話すことのない女性と、できるだけ面と向かって話すんだ。