また姉に【飛んだ】。もうこれで七回目だ。
僕は今、同じ屋根の下で暮らす、姉の部屋にいる。
足裏に妙な感触を認識するのと同時に、砂を噛んだような音が鳴った。ゆっくりと足を上げると、かかとに潰れたスナック菓子の残骸がへばりついていた。
おいおい。なんで床にスナック? しかも欠片じゃなくて丸々だ。落ちたのに気付かなかったんじゃなくて、落としたのを確認しておきながら、拾わず放置したんだろう。
ため息をつきながら部屋の中を見回す。
ゴミ箱に高く盛られた使用済みティッシュは、いくつかが山から崩れて床に落ちている。部屋中いたるところに転がるコンビニの袋。脱ぎっぱなしの服や靴下、下着が山のように積まれたベッド。いや、ベッドはそれらで埋もれて、どこにあるかわからない。いったいどこで寝てるんだ、この人は。
テーブルの上には、飲みかけのペットボトルが都心のビル群のように立ち、その中身がテーブルに垂れて固まって、べたべたとした染みが広がっている。他にも、未開封の変色した菓子パン、間にテレビのリモコンが挟まれた読みかけのマンガ、切抜き途中の雑誌が開きっぱなしで何冊も散乱している。部屋の隅に置かれた机に目を向けると、びっしりと化粧品や香水が並んでいた。教科書や参考書はおろか、書籍といえば音楽、ファッション系の雑誌しか見当たらない。いくらなんでもこれが高二女子の部屋とは。
こんな姉でも、学校では陽気で明るく友達の多い、ごくごくありふれた女子高生をやっているらしい。女ってのは本当に怖い。いや、内と外とでここまで凄まじいギャップがあるのはうちの姉だけだろう。ぜひ姉だけであってほしい。世間一般の女性の大半は違うはずだ。十五の少年が女性に抱く幻想、やまとなでしこ幻想や女神幻想を、どうかどうか壊さないでくれ。
そんな祈りにも似た望みを抱く僕は、今、がさつでずぼらな姉の中にいる。
姉の部屋にいる、という意味ではない。
いや、実際、最初に言ったとおり、姉の部屋にはいるんだけど、姉の部屋にいて、さらに『姉の体の中』にいるってことだ。
僕の意識が、『姉の体の中』に入り込み、コントロールしていると言い換えてもいい。
たんすの横の、白い縁の姿見を眺めた。
超ミニのスカートに、上着を出して着崩した制服、胸の前でアゲハチョウのように広がるリボン。付けまつげやらアイシャドーやら口紅が塗りたくられた顔をじっと見つめる。僕が見つめる鏡の中のその顔は、女装した僕の顔ではない。紛れもなく姉だ。目じりを下げ、その分だけ口角を上げ、歯を見せてにかっと笑ってみる。家では絶対見せない姉の笑顔。今度は駄々をこねる幼い女の子よろしく、身をくねらせてみた。こんな姿も見たことがない。ついでにもう一つ、絶対やらなそうなポーズをやっておこう。眉をハの字に下げ、眉間にしわを寄せ、目を潤ませて、「すみませんでした」とつぶやいてみた。
ない、ない! この人のこんな姿、一生見ることない! と心の中で叫んだ。言い知れぬ快感で、鼻の穴がひくひくと動く。その顔を鏡の中で見て、羞恥心を感じ、再び冷静さを取り戻す。
同時に、そろそろ疲れが溜まってきた。
姉の部屋のテレビをつける。
夕方のニュース番組ではちょうど、ここ最近、隣町で起こっている連続通り魔事件について報道していた。女子中高生ばかりが狙われていて、まだ犯人はつかまっていない。被害を受けた子の中には重傷を負った子もいるらしい。
まったく、反吐が出そうなほど陰湿な事件だ。耳にするだけでも激しい憤りを覚える。ただ、確認したかったのはニュースではなく、画面の左上に表示された時間だ。姉の部屋にも時計はあったが、針の進みがおかしい。電池が切れかかっているのか、息絶える直前のように、プルプルと震えながらわずかしか動いていなかった。
テレビの時刻表示では、姉に飛ぶ前から六分が経過していた。
これ以上はうまくコントロールできそうにない。
『姉の体の中』の僕は、意識を、隣の部屋の僕の体に向けて目を閉じた。
とんでもない電力の光源が迫りくる感覚。だいぶ慣れた。いつもと同じだ。
しばらくして、ゆっくり目を開く。
ベッドから上体を起こそうとして、めまいがした。再びベッドへ倒れこむ。何回か深呼吸する。それから体をよじると、足をベッドの外へ投げ出して、手をつき、もう一度起き上がった。机の置時計を見る。実行から七分経っていた。窓を見るとガラスには、ジャージ姿でベッドに座る僕が見えた。僕の意識は『姉の体の中』から、再び僕の体に戻った。
大丈夫、また成功だ。
*
ここまでの経緯を振り返ってみる。
今日はこの部屋から、道を歩く帰宅途中の姉に【飛んだ】。
家から二十メートルほど離れていただろう。それ以上遠い距離だと、今のところうまく飛べない。
姉の体を『コントロール』しながら、そのまま玄関を開けた。
「ただいまー、着替えたら夕飯の準備手伝うね」と素朴で明るい声色をしてみた。
台所から母が顔を出したと思ったら、「あら、なによ。気持ち悪いわね。そんな声出しても、これ以上お小遣いはあげないわよ」と言い放って、ひょいっと引っ込んだ。
僕がせっかくいい子を演じてみせたのに、この人、母さんの信用ゼロだな。
『姉の体の中』に入った僕は、呆れつつも不憫に思うことはなく、そのまま階段を上がった。
二階は、僕の部屋と姉の部屋が並んでいる。僕はまず、自分の部屋のドアを少し開け、中を覗いた。ジャージ姿でベッドに横たわる僕がいた。鏡や映像以外で見る自分の姿というのは、あいかわらず気持ちのいいものではない。まるで魂の抜けた死人を見るようだ。部屋には入らず、そのままドアを閉め、一つ奥の、姉の部屋へ入った。
そして、室内のひどい有様は、先ほど見たとおりだ。
ここまで正味七分。
姉の部屋の『姉の体』から、僕の部屋にいる『僕の体』に戻った僕は、勉強机に座ると、棚から取り出したノートを開き、メモを取る。
まず日付、次に、<距離二十メートル、乗っ取った時間七分、軽いめまい>と続けた。
「あれー、なんでわたしここにいるわけー? なんなのよー!」
隣の部屋から姉の叫びが聞こえた。ノートに、<姉、異常なし>と追記した。
この一連の、非現実的な現象を説明するのはかなり難しい。
一言で表すときに、最初に思いついたのは『幽体離脱』というワードだった。ただし、あれは自分の魂が自分の体から離れるだけで、誰か別の人間の体に入り込んだりはしない。
だったら、『いたこ』みたいなものか? いたこは自分の体に霊魂を呼び寄せて、その意思を伝え告げる。いや、ちょっと違う。言ってみれば『逆いたこ』か? しっくりはこないが、まあ、遠からず、といったところか。ただ、僕の場合は、自分の体から自分の意識(ひょっとしたら魂なのか?)が別の人間に飛び、その人間の体が一時的(今はそれが、七分になった)に僕のものになる。
なにせ、その人の体をコントロールできてしまうのだ。これはもはや『逆いたこ』どころではない。考えるだけで二、三キロ体重が落ちた気分になる。
廊下をせわしなく横切る足音が聞こえたかと思うと、どたどたと階段を下りていく。
――お母さん! あたし最近、頭とか打ったっけ? あとさ、いつ家帰った?
一階に向かって叫ぶ声。姉だ。
――はあ? 何をわけのわからないこと言ってんの。
台所から母さんののんびりとした呆れ声が響いた。
――そんなことより、さっき夕食手伝うって言ったわよね。ほら、お皿並べて!
――ちょい、待った待った、マジなに言ってんのかわかんないし。これって記憶喪失? なんかヤバくない?
何かを問いかけ直すエネルギーを使うのも惜しいのか、一階の母さんの声はぴたりとやんだ。
姉は引き続き、「あー、ストレスかなあ、記憶飛びまくりだし! マジ脳がイシュクしてんのかなー」などと嘆いている。ていうか、わめいている。
一般家庭で家族がこんな異変を口にしたらちょっとした騒ぎになるんだろうけれど、我が家は幸い、普通じゃない。僕が「姉の体の中」に入らなかったとしても、姉はいつも支離滅裂なことばかり言っているから、家族は気にも留めないのだ。
さて。
リピートするが、この一連の非現実的な現象を説明するのは、やはり難しい。
自分の意識を持ったまま、ほかの人の体に入る能力は、生まれながらに持っていたわけではない。そもそも僕には、そんな特殊能力を持つような甲斐性なんて一グラムもない。
名前は陽一。鈴木陽一。まあ、普通だ。
父・母・姉・僕の、世間一般的に中流階級を自負する四人家族で、慎ましやかに暮らしてきた。中三の僕にとってもっぱらの悩みは、彼女がいないことと、今年受験があることくらいだ。そんな感じの、ごくごく平凡な僕なのに、この能力はある日突然、本当に事故のようにして、意図せず身についてしまった。
きっかけは、やはり姉だ。不精でだらしないのは部屋だけではない。
あの人とは生まれたときからずっと同じ家で暮らしているが、十五年経った今でもまったく慣れることができない。本当に血縁関係があるのかと、疑いたくもなる。
カバンとか手帳とかノートとか、持っているものを置くとき、いつも放り投げるし、音楽は重低音を効かせて大音量を流し、トイレに入っている間もドアが半開きだし、電話でのしゃべり声が異常にでかいし、電話は「じゃあね」も言わずにガチャンと切るし、足のネイル用に指の間に挟むスポンジを食卓に置くし、歯を磨くとき水を出しっぱなしにするし、テレビのチャンネルはカチャカチャ変え続けるし、食事中はくちゃくちゃと咀嚼音がうるさいし、服には食べこぼしをつけてるし、ご飯粒を残すし、部屋の植物はすぐに枯らすし、風呂上りに服は着ないし、それを睨むと「すけべ」と言い返してくるし、あぐらはかくわ、いびきはかくわ、ブウと屁はこくわ――。
挙げればきりがない。しかもしかも、がさつでずぼらに加え、粗暴でもある。
プロレス観戦が好きな姉は、他人に技をかけて楽しむイヤな性癖がある。
かけられるのはもっぱら僕だ。姉は基本、観戦メインで実際にやっているわけではないので、素人といえば素人なのだが、どうしてこれが、なかなか技が極まる。
「いてててて、姉ちゃん、やめろよ、腕折れるって!!」
二ヶ月前、腕ひしぎ十字固めとかいう技をかけられたときには、激痛が走った。ド素人ゆえに、姉は力の加減というものを知らない。幸い腕は折れなかったものの、なぜか肩を脱臼した。「あれー、おかしいな、大丈夫?」とか言いながら悪びれもせずに首をひねる姉を見たときには、ジャイアンよりたちが悪いとさえ思った。泣きべそをかいて呻く僕の顔を覗き込んだかと思えば、「今度は三角絞めかけさせてね」などと微笑んできた。
鬼畜、サイコ、悪魔。姉を形容する言葉はこの程度では足りない。
脱臼の翌日は、大事をとって学校を休んだ。
僕に不思議な力が発現したきっかけは、その日の夜だ。
肩から腕に包帯を巻かれて、いらつきながら片手で夕食をとっていたとき、電話が鳴った。
父は残業で遅くなると言っていた。姉もまだ帰っていない。母はちょうど二階へ上がっていて、一階には僕しかいなかった。電話は玄関のほうにあったため、急いで椅子を立とうとする。そのとき、玄関から姉の声が聞こえた。
「あー、腹減ったー、ご飯はー」
電話がプルルルルと鳴り続けている。
ここでいつもの姉なら、「おい、陽一、早く出なよ」と、自分が一番電話の近くにいるにもかかわらず、僕に命令してくるところだったが、この日はなにを思ったのか、僕が駆け寄る前に姉が電話口に出た。
「はい、鈴木でございます」
出た、ソトヅラ美人! うちのなかとは大違いだ。
自分から出てくれただけありがたいことなのだが、しかし。
受話器に向かって姉が発した言葉が、僕を一瞬で凍りつかせた。
「はい? 徳永? なに、陽一の彼女? んなわけないか、ハハハ」
相手が自分に関係のない僕の友達だったりすると、この人は突然いつもの横柄さを丸出しにする。
姉が豪快に笑う。
……て、ちょっと待て。
徳永……かすみちゃん?
その名を耳にした瞬間、僕の心臓がトクンと跳ね、手にしていた箸は床に落ちた。
――『ゲームセット!』
球審のかけ声で、僕の夏はおわった。
レギュラーを目指して汗にまみれた二年半。毎朝四時半起きの生活と、絶えることのなかった擦り傷。ニュースなんかでは冷夏なんて言っているけれど、今年の夏空は、いつにもまして青く感じた。
僕は中学校生活の青春のすべてを野球にかけてきた。好きではあったものの、決してうまかったわけではない。小学校の頃から常にベンチウォーマー。中学に入っても二年間は、時折回ってくる代走要員としてくらいしか出場の機会には恵まれなかった。
負ければ部活動引退となる市内大会の一回戦、五回裏にして0―5。すでに敗戦濃厚な中、監督の恩情で補欠の三年生も順番に打席に立たせてもらえた。
スタンドからは、父母会やOBの方々と、弱小野球部にはもったいないほどの有志から声援が送られた。その中に、僕の女神はいた。
クラスメイトの、徳永かすみちゃん。
打席に立つ直前、僕はネクストバッターズサークルから何気なくスタンドを見た。 それはまさに、一瞬のことだったけれど、まわりの時間が止まったような気がした。
すべての音も、僕の鼓膜にはたどり着けなかった。スタンドの人だかりのなか、緑色のメガホンを必死でふる彼女と目が合った。 暑さのせいか顔の火照ったかすみちゃんは、僕に向かってなにかを叫んだ。吸い込まれるような、深く美しい瞳。言葉は届かなくても、たしかに思いは受け取った。
直後、僕は人生最初で最後の安打を放った。それがスクイズによる内野安打だろうと。
あの日から彼女は、僕の心をとらえて離さなかった――。
バイタル異常。血圧、心拍上昇。
物静かで、可憐で、日だまりのような笑顔が印象的な、僕が秘かに想いを寄せている、あのかすみちゃんが?
いったい、なんで……僕に電話を?
「え? 日直? 声小さいな、はっきりしゃべんなよ。ん、なに、今日の授業箇所?」
日直だからって、休んだ僕に今日の授業箇所を伝えようと電話してくれたのだろうか。なんていい子なんだ。まさに僕の女神。
……ていうか、おい、姉よ。かすみちゃんになんていう口をきいてるんだ……。あんたがこの家で野人のように振る舞うのは百歩譲って可としよう。しかし、だ。あんたがいま話しているかすみちゃんは、あんたの生きる世界とは別の次元の存在なんだぞ。
「そんなんいいよ、あいつどうせ勉強なんてしないし、いまさらやったって無駄無駄無駄無駄! ハハハ」
おいおい! だからそんな下卑た笑いを彼女の耳に浴びせるんじゃない!
その間にも、ヤツ(姉)の、受話器を勝手に置こうとしている姿が眼に入った。この瞬間だけ、世界の動きが鈍く、スローモーションになった。
僕が密かに想い焦がれているかすみちゃんから、初めて電話がかかって来たっていうのに。ふざけた態度を!
やぁーめぇーろぉー、おぉーくぅーなああああー!
僕の怒りが最高潮に達したそのとき。
車のハイビームを浴びたかと思うようなまばゆい光に襲われた。
それに耐えられずぎゅっと目を瞑る。
光はしばらく続く。
何が起こったのか、まったくわからないまま体は固まっていた。
ん?
まぶたの向こうで光が消えたことを認識してから、再びゆっくりと目を開け、辺りを確認した。すると、玄関のほうにいたはずの姉がおらず、その代わりに、食卓で気を失っている僕がいた。
状況がまったく理解できない。下からなにやら声が聞こえる。手元を見ると、握られた受話器から声がした。あれ、いつのまに受話器を持ったんだ?
「もしもし、もしもし」
かすみちゃんの声が漏れ聞こえる。
僕は深呼吸して心を落ち着けると、受話器を口元まで持ち上げた。
清潔な声色を意識し、
「さっきはごめんなさい。陽一は大丈夫。明日はちゃんと学校に行くって言っていますから。今日は電話ありがとう」
と言って電話を切った。それだけで精一杯だった。
ふだん絶対に聞くことのない声。自分が発しているのに、自分の声ではない不思議。今の台詞を発したのは、まさしく「姉」の声だった。
玄関横の壁に掛けられた丸い鏡をのぞくと、受話器を置いた姉が映っていた。
僕が右手を上げると、鏡の中でも姉が手を上げた。口を開けば姉も口を開く。
全身に鳥肌が立った。
これが、僕が他人の体に初めて乗り移るまでのいきさつだ。