こんなことが現実にあるのかと、私は自分の目を、頭を、全神経を疑いそうになった。否、実際に疑った。



 数週間前に別れを告げた彼女その人が、私と夫人のいるホテル前に、立っている。



 その形相は、もうどう表していいことか。怒りが爆発する準備が整っているようで、号泣する寸前のような、そんな顔だった。

『もっと親しみやすい名前にした方がいいんじゃないかしら。たとえば――〝嫌なことイレーサー〟とか』と茶目っけのある発言をしたあの時の表情などどこにもない。

 今まさに私は”嫌なこと”を目の当たりにしているのだ、と鬼の形相で迫ってきそうな、そんな迫力があった。

「じゃあ、さようなら、記憶消去師さん」

 夫人はそんな私の様子など一向に気付いていない様子でホテルの外へと去っていく。

 それを見るなり、今までこちらをホテルの外から睨んでいた彼女は、猛然とホテルの入り口に向かって走り出した。

 何をするのだ、と私が目をまるく見開くと、彼女はホテルから出てきたばかりの夫人に体当たりした。体の重心を低くして、タックルのごとくぶつかる。