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 濡れた身体をホテルで拭いて、休息を取った後、私と茜は再び凛々子の住まいを訪れた。そこへタイミングよく彼女が現れる。

「懲りないわね」
「こんばんは」

 茜が会釈をすると、凛々子は一瞥だけして、目を逸らした。私達に構わず玄関の扉を開けようとする彼女の元へ行き、私はドアノブを掴んだ。

「……何をするのかしら」
「お話を。お時間は取らせません」
「しつこいわ。話すことなんて何もないわよ」
「明日も来ます。明後日も。おばさんが本当のことを話してくれるまで何度だって」

 煩わしそうに私を睨んでから、彼女は私の背後にいる茜に目線を移した。

「……あなた、お兄さんでしょう? 妹の横暴を止めないで見ているつもり? こんな時間まで出歩いて、親御さんが心配するわよ」
「親の許可は取ってあります。お忙しいところ申し訳ありませんが、少しの時間でいいんです。鈴葉の話を聞いてやってくれませんか?」

 凛々子は私の手を掴み、無理矢理ドアノブから退かすと溜め息を吐いた。

「いい加減にして。あなたにとってあの子がどれほど大事な存在だったか知らないけれど、皆が皆そうだと思わないことね」
「……おばさんは違うんですか?」

 そんなわけない。この人は、嘘に嘘を重ねている。

「もう嘘はやめて下さい」
「……図々しい子」

 彼女の瞳が、初めて怒りに燃えた。彼女は歯を食い縛って私を睨んだ。

「自分のしたことがわかっているの?」
「っ」
「あなたが雪の日に会おうだなんて馬鹿な提案をしなければ、そもそも穂波は殺されなかった。そうは思わなかった?」
「……思っていますよ。今でも」
「犯人と同じくらいの罪を背負っているくせに、よくも私の前に姿を現せたわね」
「――――やっと聞けた」

 それがきっと、彼女が私に言いたかった本当の言葉。

「それがおばさんの本当の気持ちだよね?」

 私がそう言うと、彼女はハッと目を見開いて、拳を握り締めた。

「……あなたを糾弾するつもりはないわ。あの子の死なんて大したことない。どうだっていい!」

 凛々子が自分の気持ちを見て見ない振りをしたその時、茜が動いた。

「妹を侮辱しないで下さい」
「何ですって……?」
「鈴葉にとって、娘さんはとても大切な親友だったんです。言葉を慎んで下さい」

 凛々子は茜の瞳をじっと見つめた後、私達に背を向けた。そして、鍵を開けたドアノブを捻ると――――。

「……入りなさい」

 私達が自宅に入ることを許して、躊躇いつつ、笑みを浮かべた。

***

 外観とは違って、室内は清潔そのものだった。埃一つ落ちていない和室に通されて、私と茜は座布団の上に腰を下ろした。お茶の用意を済ませた凛々子がテーブルを挟んだ向かい側に座り、私と茜の前に麦茶の入ったコップを置く。

「私の居場所がよくわかったわね」
「……こなみのおかげです」

 ――――なあ、なあ

 可愛らしく鳴き声を上げて、和室に茶色の毛並みをした猫が入って来た。私が手招くと、躊躇うことなくその猫は私の膝の上で丸くなった。
 青いリボンに背中の三日月模様――――穂波の飼っていた猫、『こなみ』だ。

「この子がここに入って行くのを見たんです」
「凄い偶然ね……」
「……おばさんがこの子の世話をしているとは思いませんでしたよ」
「私もそんなつもりなかったわよ。でも、ついて来るんだもの。仕方ないじゃない」

 こなみが私の膝の上から飛び降りて、凛々子の腕に頭をすり寄せた。そんな彼女に茜が尋ねる。

「この時間まで、一体何を……?」
「近くで介護の仕事をしているの。朝からずっと」

 だから、この時間に帰って来るのか。

「仕事をしているとね、気が紛れて楽なのよ」

 彼女はそう言って、自分の分の麦茶を口に含んだ。そして、コップを静かに置く。

「――――私の夫は、海で溺れた穂波を助けて死んだの。あの子が四歳の時だった」
「え……」

 彼女は唐突に話し始めた。私は膝の上で拳を握り締める。

「それが理由で穂波を避けていたんですか?」
「……違うわ。あの子が私を避けたの」

(穂波が――――?)

「……夫の葬儀の時に、駆け寄ってきたあの子をね、私は思わず突き飛ばしてしまったのよ。気がついた時にはもう手遅れで、あの子は私に謝り続けていた。それからよ。あの子は私に近づかなくなって、我儘も言わなくなったし、口答えもしなくなった」

 彼女の瞳から、涙が零れた。テーブルの上に幾つも染みを作って落ちていく。

「謝らなくてはいけなかったのは私なのにね……」
「……おばさん」

 私は、肩を震わせる彼女の隣に座り、その背を撫でた。

「毎年、あの子の誕生日が来る度に謝ろうとして、出来なくて……事故以来、一度もプレゼントをあげられなかった」

 後悔するようにそう言った彼女に私は微笑みかけた。

「でも、毎年用意してたんですよね?」
「っ、な、何でそれを……?」
「穂波から聞いてました。あの子は気づいていましたよ」

 穂波は毎年、自分の誕生日は真っ直ぐ家に帰っていた。誕生日プレゼントもケーキも渡されないのだと知りながら――――。そんな彼女に私は一度だけ尋ねたことがある。

『何で、それでも家に帰るの?』

 すると、彼女はこう答えた。

『だって、纏めて数年分が貰えるかもしれないじゃない? 開封は手伝ってね、鈴葉!』

 私は、穂波らしい言葉だと思った。

「おばさんが歩み寄ってくれるのをずっと待っていたんだと思います……」

 私は涙を堪えてそう言った。

「おばさん……何で嘘を吐いたんですか? 仕事に逃げたくなるほど、穂波のことが大事だったくせに」

 言いたくもない言葉を言ってまで、穂波の死から逃れようとした彼女に私は尋ねた。

「あなたなら、わかるでしょ」

 彼女の目を見て、私は唇を噛むと、俯いた。
 ――――ああ、そういうことか。