僅かな月明かりの中、兄は穏やかな顔をしている。

 ずいぶん前からそうするのを決めていたのだと、表情が物語っていた。

 きっと、私に付き合ってこの部屋で過ごす間、色々な事を考えてたに違いない。だからこその、この表情。

 呑気にソファーで寛いでいた訳じゃなかったんだ。

「今まで親に守ってもらった分以上、今度は俺らが守ってやろうぜ。あの世からさ。俺らが出来るのはそれだけだ。でも……充分だろ?」

「……うん」

 目尻に皺を寄せ、兄が笑う。

 その瞳がほんの少し潤んでいる様に見えたのは、気のせいじゃないと思う。

 でも、私がそれを指摘すると、兄は「違う」と首を振った。

“月の明かりのせいだ”

 案外ロマンチックな事を言う人だったんだ、兄って。

 笑ってしまった。

「じゃあ、そろそろ行くか」

「天国?」

「その前にあるだろ、やる事。優子が心残り片付けてくれないと俺だって成仏出来ん。……ほら」

 兄の手が差し出された。

「またフラフラと迷われたら困るからな」



……こころのこりは、渡せなかったものを渡したかった事。

 母へのお土産……小さな観葉植物。

 親への想い。「意地張ってごめんね」「いつも荷物と手紙ありがとう」、照れ臭くて言えない言葉を綴った手紙。

……こころのこりは、

 言いたかった言葉を笑顔で言う事。

『たまには顔見せなさい』

 心配しながら見守ってくれた、両親へ。

 実家の庭には、今日も花が沢山咲いているだろう。

 天国に負けない位、綺麗であたたかな場所。

 さあ、《あっち》へ行く前に、ちょっと寄り道。

 帰ろう。

 わたしたちの家へ。

 どうしても、言いたい言葉があるから。

『ただいま』って。笑顔で、ね。

 見えなくても、聞こえなくても、きっと伝わるよね。

 そうしたら、お母さん達にも笑顔が戻ってくる。

 今すぐじゃなくても、必ず。

……必ず。

 私と兄は、ずっと昔の子供の頃みたいに手を繋いで、空っぽの部屋を後にする。

 見上げた空に綺麗な月。

 優しく静かな、最後の夜だった――。