「ねぇ――」

 それまで本の世界から帰ってこなかった一沙(かずさ)が、少しかすれた声で言った。

「今日さ、夏草の森で花火が上がるよ」
「……は?」

 シャープペンをトントンとノートに打ち付けていた私は顔を上げてみる。少し日に焼けた肌が目の前に。一沙はぼんやりとした目を小説の下から覗かせていた。

「花火。上がるんだよ。夜中に」
「そんな英語の直訳みたいな言い方しなくても分かる」
「日本語が通じて何よりだよ」

 一沙はそう皮肉っぽく言うと、喉の調子が悪いのか顔をしかめて咳払いした。最近、声変わりしたらしい。もともと声質が高いわけでもなかったから違和感はないけれど、なんだか先に大人へ近づいてる感じがして、私は置いてきぼりの気分だった。だから、一沙が喋るたびに何かカンに障る。

「花火って……いつまでも子供みたい。あんなの一瞬じゃん。パッと散って終わりだよ」
「蓮(れん)は本当にかわいくないよね」
「名前が蓮の時点でかわいい要素は一つもない」
「どっちかと言えば、僕の名前の方が女の子っぽい」
「そうだよ。それなのに男だし。声が変わったからますますアンバランスじゃない? 変なの」

 言い過ぎた、なんてことは微塵も思っちゃいない。私はかわいくないから許される。そう思っていると、彼は口をつぐんでしまった。

「……何、怒ったの?」
「花火、一緒に見に行ってくれたら許す」

 そう冷たく返しながら、一沙は小説を机に置く。わざとらしく、私のノートの上に。数式を解いていたシャープペンの近くに。
 タイトルは「25時の光」。

「これさ、面白いの?」

 立ち上がる一沙に訊いてみる。
 柔らかい文庫本。淡い水色の飛沫が散ったような装丁。細い明朝の文字が横に並んでいるだけの、なんだか素っ気ない本。
 同年の子たちは漫画風のキャラクターが描かれた、いわゆるライトノベルを読んでいるのに一沙だけは静かに無表情で、でも目の奥を輝かせて文字だらけの世界を追いかけている。確か、ジャンルは青春。主人公の男の子がいろんな局面に立たされて、それでもガムシャラに頑張るっていう。

「……面白くはないかな」

 私の手にある文庫本を、彼はいとも簡単に否定した。

「じゃあなんで読んでるの」
「うーん……見た目がカッコイイから?」

 装丁のことだろうか。お世辞にもカッコイイとは思えないんだけど。

「よく分かんない」
「僕がこれを読んでるっていうその格好が、ほかの連中と違って大人っぽく見えるだろ」
「何それ」

 呆れたのは一沙がふざけているからだ。本は本なのに、そうやって線引するのはなんかムカつく。

「じゃあ、なんだ。この本は一沙のお飾りってこと?」
「そういうことにしといて」

 ふふふ、と小さく忍び笑いをする一沙。その仕草は幼い時と変わらずで、大人びてしまった彼とは不釣り合いに思えた。

「それで、花火は見に行ってくれるの?」

 話を逸らしたのに無理やりに戻してきた。私は本をベッドに放り投げて、一沙の手から遠ざける。そして、ノートに目を落としてそっけなく言う。

「行かないよ」
「じゃあ、さっきの言葉は一生許さない」
「いいよそれで」
「………」

 黙り込む一沙の顔を思い浮かべてみる。薄い唇をきゅっと結んで、薄い眉をひそめて私を睨んでいる。そうに違いない……ほらね。そういうところは昔から変わらないのに。何を急に背伸びしているんだろう。私を置いて大人になることの方がよっぽど許されない。

「――蓮」

 掠れた不安定な音が、影と一緒に私の頭に近づく。

「迎えにいくから、ちゃんとついてきて」
「ついてきてって……何、怖いから?」

 おどけて言ってみる。すると、一沙はため息を落としながら「あぁ、そうだよ」と仕方なさそうに返した。

「じゃ、僕は帰るね」

 私から遠ざかって、彼は部屋を出ていこうとする。
 こうして学校帰りに私の家に立ち寄るのはいつからだったか。一沙のお母さんが仕事で帰りが遅いから私の家に預けられる。それが日課になって、中学二年になった今でも無意識に足を運んでいる。
 階段を降りていき、「お邪魔しましたー」と気だるそうに言う彼の声が耳に届いた。