ドアがレールを滑る音に反応したのか、それとも亮くんの声に反応したのか、クラス全員の視線が一斉に亮くんへ向けられる。
そして、あれだけ私たちを緊張させた喧騒は、一瞬でどこかへ消えてしまった。
教室にいた誰もが何も言わず、ただじっと亮くんを見つめる。
誰一人動かない制止した時間。
しかし、いや、やはりと言うべきか。その静止した時間を動かしたのは亮くんだった。
クラス中の視線を一身に受けてなお、亮くんは物怖じひとつせず教室へ入る。
一番後ろの窓際の席まで歩くと、静かに机の上に鞄を乗せる。その姿を、私を含めた誰もが目で追っていた。
……これは気まずいかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「おおー、亮じゃん」
亮くんのすぐ前の席にいた男の子が、沈黙を破った。
それを皮切りに、一人、また一人と亮くんに話しかける。
「よく来たなー」
「久しぶり」
「ちゃんと俺のこと覚えてるかー?」
よかった、歓迎されているみたいだ。
私たちが緊張していたみたいに、この子らも久しぶりに亮くんと顔を合わせたから驚いて黙っていただけらしい。
「うん、久しぶり。ちゃんと覚えてるよ」
亮くんは丁寧に一人ずつ答えていく。
昨日聞いた話を思い出すに、きっと亮くんはこの子らを信用していない。
自分が苦しんでいるのに幸せそうに過ごす彼らをどうしても好きになれなかったと言っていた。
でも、今の亮くんならきっと大丈夫だと思う。
差し出された手を振り払ってきたあの頃とは違う。今の亮くんは勇気を持って前に進む力があるのだから。
私は亮くんのすぐ左の窓、そのふちに腰掛けた。
「よかった。大丈夫そうだね」
そう言って、にこやかに笑ってみせる。
返事はないけれど、亮くんも同じことを考えているに違いない。だって、凄く穏やかな表情をしているから。
***
「それじゃあ次の問題を……そうだなぁ、せっかく来てることだし、石丸!」
数学の授業中、担任の先生がふいに亮くんを指名した。
容赦ない。
普通は今までずっと授業に出ていなかった子を指名しないと思うんだけど。
「はい」
私の心配をよそに、亮くんは黒板に綺麗な数式をえがいていく。全く迷いなく、堂々とした動きで。
この子、本当に不登校だったの?
「正解だ! 凄いな~。家で勉強してたのか?」
「少しだけ」
……かっこいい。
賢いなーとは思っていたけれど、ここまで賢いとは。
ちなみに私は解けなかった。高校三年生なのに!
亮くんが席に戻る途中、廊下側の席からひそひそと話す女の子たちの声が聞こえてくる。
「石丸くんってかっこいいよね」
「わかる。学校来てないのに頭いいとかやばくない?」
「ね、やばいよねー」
うんうん、もっと褒めてもいいよ。
自分のことじゃないのに何故か私が誇らしくなってしまう。
息子を褒められて天狗になる母親の気持ちはこんな感じなのだろうか。
「さすがだね」
席に戻ってきた亮くんに話しかける。
一瞬だけこちらを見てきた後、亮くんは小さなため息をついた。そしておもむろにペンを走らせる。
書き終わると、亮くんはこちらを見つつノートを指で叩く。
見てくれ、という合図だろうか。
「授業中にこっそり筆談って楽しいよね! 私も中学の頃よくやってた!」
亮くん以外に聞こえないのをいいことに、遠慮なく喋る。そして亮くんのノートを覗き込んだ。
『うるさいから授業中に話しかけないで。あとちらちら視界に入って邪魔だから後ろにいて』
……ごめんなさい、黙ります。
私は申し訳なさそうに頭を下げ、教室の後ろに座り込んだ。
亮くんめ、真面目ぶりやがって。
私は亮くんが構ってくれないと暇だというのに。
でも、上手く馴染めているようで安心した。
ぼんやりと亮くんの背中を眺めているうちに数学の時間が終わる。
次は英語だったかな。
短い休み時間が終わり、英語の授業が始まるとまたも亮くんは指名された。今度は別の先生だ。
……案の定、亮くんは英語も完璧だった。
先生に英語で問いかけられ、それをいとも簡単に英語で返す。そのたびに教室の端から女子たちの小さな歓声が聞こえてくる。
亮くんの活躍は数学や英語にとどまらず、国語や社会、果ては体育に至るまで多岐に渡った。
私は、体育館の隅で授業を見学している女の子たちの隣に座り、彼女らと同じように亮くんを目で追っていた。
今日の授業はバスケットボール。
亮くんがシュートを入れるたびに隣の女の子たちが騒ぎ立てる。
「やばい。超かっこいい」
「彼女とかいるのかな。いなかったら狙っちゃおうかなあ」
いや、それはダメ。
亮くんを褒めるのはいいけど、狙うのは許しません。
先に好きになったのは私なんだぞ! と声を大にして主張したい。したところで何にもならないのだけど。
***
「いや~ひと安心だね。よく頑張りました! 偉い偉い!」
帰り道、私は上機嫌で亮くんに話しかける。
もしかしたら一番安心しているのは私かもしれない。
亮くんは周囲に人がいないのを確認してから、
「うん、安心した」
そう言って僅かにほほ笑んだ。
……あーもう、可愛い。
いつもは笑わないのに、ふとした時に笑うから用心していないと心臓が弾けて心が根こそぎ奪われてしまいそうになる。もうとっくに奪われているけど。
「でもよかったの?」
「何が」
「クラスの子に一緒に帰らないかって誘われてたでしょ?」
「うん、いい。君と話す方が楽しいから」
「そ、そっかぁー。…………へへへ」
落ち着け、落ち着くんだ私!
いつもの亮くんみたいに無表情を心がけるんだ! 平常心を保たなくちゃ。
…………うん、無理!
好きな人に楽しいなんて言われたら嬉しいに決まっている。
それにしても、
「君……かぁ」
私は悩ましげに息をついた。
思えば、今まで一度たりとも名前で呼んでもらったことがない気がする。
もうそろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな。せめて苗字だけでも。
「ねぇ亮くん、そろそろ名前で呼んでよ!」
「えー……」
こら、あからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。
異性を下の名前で呼ぶのが恥ずかしいのはわかるけれど、もうそんなことを気にするような仲ではないはず。
「私たちもう仲良しだからいいでしょ! 呼んで!」
「んー……じゃあこころさんで」
「さん付けは何かよそよそしい……。呼び捨てがいいなぁ」
やり直しを求める。
もうお互い腹のうちを語り合った仲なのだから、佐々木とかこころとか、そんな適当な呼び方をしてほしい。
諦めずに食い下がっていると、ついに観念したのか、亮くんは大きく息を吸った。そして、吸った量とは裏腹に消え入りそうなほど小さく、
「……こころちゃん」
恥ずかしそうに、そう呟いた。
こうも恥ずかしそうに呼ばれるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
呼び捨てでいいと言ったのにまさかちゃん付けしてくるとは。
これからずっとこころちゃんと呼ばれるのだと思うと気が気でない。嬉しさと恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
しかし照れるのも束の間、すぐに亮くんの顔から表情が消える。
視線は真っすぐ彼の家に向き、その真面目な顔つきがこれから行う母との対談に備えてのものだと悟る。
そうだ、呑気に名前を呼び合って照れている場合ではなかった。
亮くんにはこれから、学校以上に大切なことがあるのだ
「お母さんとの話し合い、私も同席していいの?」
学校への同伴は許されたものの、今回は紛れもなく石丸家だけの問題。
果たして第三者である私が入り込んでいいものだろうか。
いくら私が亮くんの事情を全て知っていたとしても、これは非常に繊細な問題だ。言葉選びひとつ違えるだけでこの子の人生が右にも左にも傾くのだから。
見守りたい反面、それを躊躇する私がいる。
「……むしろ席を外すつもりだったの? 見守るって言ったのに」
言って、亮くんは不服そうにこちらを睨んできた。
その視線を受け、私はつくづく自分が情けない存在であることを痛感する。
この子には、そもそも私を置いて話をするという選択肢が存在しないらしい。
到底一人では抱えきれない問題に向き合う彼と、支えると言った私。
そんな私の言葉をまっすぐに受け止めて、安心して心を預けてくれている。だからこそ、今になって腰が引けている私に不満そうな眼差しを向けているのだろう。
実感する。この子の決意はとうに固まっていたのだと。
この期に及んで怖気づいているのは、どうやら私だけのようだ。
今しがた自分の口から飛び出た言葉に自分で呆れてしまう。
確認するまでもなく、自信を持って傍にいればいい。それが私の役目なのだから。
睨む亮くんの瞳を力強く見返し、私は改めて覚悟を決める。
「ずっと見守るよ。一番近くで、どんな時も」
そう言って、精一杯笑ってみせた。
「うん、約束だから」
亮くんもまた、笑顔だった。
そして、あれだけ私たちを緊張させた喧騒は、一瞬でどこかへ消えてしまった。
教室にいた誰もが何も言わず、ただじっと亮くんを見つめる。
誰一人動かない制止した時間。
しかし、いや、やはりと言うべきか。その静止した時間を動かしたのは亮くんだった。
クラス中の視線を一身に受けてなお、亮くんは物怖じひとつせず教室へ入る。
一番後ろの窓際の席まで歩くと、静かに机の上に鞄を乗せる。その姿を、私を含めた誰もが目で追っていた。
……これは気まずいかもしれない。
そんなことを考えていた時だった。
「おおー、亮じゃん」
亮くんのすぐ前の席にいた男の子が、沈黙を破った。
それを皮切りに、一人、また一人と亮くんに話しかける。
「よく来たなー」
「久しぶり」
「ちゃんと俺のこと覚えてるかー?」
よかった、歓迎されているみたいだ。
私たちが緊張していたみたいに、この子らも久しぶりに亮くんと顔を合わせたから驚いて黙っていただけらしい。
「うん、久しぶり。ちゃんと覚えてるよ」
亮くんは丁寧に一人ずつ答えていく。
昨日聞いた話を思い出すに、きっと亮くんはこの子らを信用していない。
自分が苦しんでいるのに幸せそうに過ごす彼らをどうしても好きになれなかったと言っていた。
でも、今の亮くんならきっと大丈夫だと思う。
差し出された手を振り払ってきたあの頃とは違う。今の亮くんは勇気を持って前に進む力があるのだから。
私は亮くんのすぐ左の窓、そのふちに腰掛けた。
「よかった。大丈夫そうだね」
そう言って、にこやかに笑ってみせる。
返事はないけれど、亮くんも同じことを考えているに違いない。だって、凄く穏やかな表情をしているから。
***
「それじゃあ次の問題を……そうだなぁ、せっかく来てることだし、石丸!」
数学の授業中、担任の先生がふいに亮くんを指名した。
容赦ない。
普通は今までずっと授業に出ていなかった子を指名しないと思うんだけど。
「はい」
私の心配をよそに、亮くんは黒板に綺麗な数式をえがいていく。全く迷いなく、堂々とした動きで。
この子、本当に不登校だったの?
「正解だ! 凄いな~。家で勉強してたのか?」
「少しだけ」
……かっこいい。
賢いなーとは思っていたけれど、ここまで賢いとは。
ちなみに私は解けなかった。高校三年生なのに!
亮くんが席に戻る途中、廊下側の席からひそひそと話す女の子たちの声が聞こえてくる。
「石丸くんってかっこいいよね」
「わかる。学校来てないのに頭いいとかやばくない?」
「ね、やばいよねー」
うんうん、もっと褒めてもいいよ。
自分のことじゃないのに何故か私が誇らしくなってしまう。
息子を褒められて天狗になる母親の気持ちはこんな感じなのだろうか。
「さすがだね」
席に戻ってきた亮くんに話しかける。
一瞬だけこちらを見てきた後、亮くんは小さなため息をついた。そしておもむろにペンを走らせる。
書き終わると、亮くんはこちらを見つつノートを指で叩く。
見てくれ、という合図だろうか。
「授業中にこっそり筆談って楽しいよね! 私も中学の頃よくやってた!」
亮くん以外に聞こえないのをいいことに、遠慮なく喋る。そして亮くんのノートを覗き込んだ。
『うるさいから授業中に話しかけないで。あとちらちら視界に入って邪魔だから後ろにいて』
……ごめんなさい、黙ります。
私は申し訳なさそうに頭を下げ、教室の後ろに座り込んだ。
亮くんめ、真面目ぶりやがって。
私は亮くんが構ってくれないと暇だというのに。
でも、上手く馴染めているようで安心した。
ぼんやりと亮くんの背中を眺めているうちに数学の時間が終わる。
次は英語だったかな。
短い休み時間が終わり、英語の授業が始まるとまたも亮くんは指名された。今度は別の先生だ。
……案の定、亮くんは英語も完璧だった。
先生に英語で問いかけられ、それをいとも簡単に英語で返す。そのたびに教室の端から女子たちの小さな歓声が聞こえてくる。
亮くんの活躍は数学や英語にとどまらず、国語や社会、果ては体育に至るまで多岐に渡った。
私は、体育館の隅で授業を見学している女の子たちの隣に座り、彼女らと同じように亮くんを目で追っていた。
今日の授業はバスケットボール。
亮くんがシュートを入れるたびに隣の女の子たちが騒ぎ立てる。
「やばい。超かっこいい」
「彼女とかいるのかな。いなかったら狙っちゃおうかなあ」
いや、それはダメ。
亮くんを褒めるのはいいけど、狙うのは許しません。
先に好きになったのは私なんだぞ! と声を大にして主張したい。したところで何にもならないのだけど。
***
「いや~ひと安心だね。よく頑張りました! 偉い偉い!」
帰り道、私は上機嫌で亮くんに話しかける。
もしかしたら一番安心しているのは私かもしれない。
亮くんは周囲に人がいないのを確認してから、
「うん、安心した」
そう言って僅かにほほ笑んだ。
……あーもう、可愛い。
いつもは笑わないのに、ふとした時に笑うから用心していないと心臓が弾けて心が根こそぎ奪われてしまいそうになる。もうとっくに奪われているけど。
「でもよかったの?」
「何が」
「クラスの子に一緒に帰らないかって誘われてたでしょ?」
「うん、いい。君と話す方が楽しいから」
「そ、そっかぁー。…………へへへ」
落ち着け、落ち着くんだ私!
いつもの亮くんみたいに無表情を心がけるんだ! 平常心を保たなくちゃ。
…………うん、無理!
好きな人に楽しいなんて言われたら嬉しいに決まっている。
それにしても、
「君……かぁ」
私は悩ましげに息をついた。
思えば、今まで一度たりとも名前で呼んでもらったことがない気がする。
もうそろそろ名前で呼んでくれてもいいんじゃないかな。せめて苗字だけでも。
「ねぇ亮くん、そろそろ名前で呼んでよ!」
「えー……」
こら、あからさまに嫌そうな顔をするんじゃない。
異性を下の名前で呼ぶのが恥ずかしいのはわかるけれど、もうそんなことを気にするような仲ではないはず。
「私たちもう仲良しだからいいでしょ! 呼んで!」
「んー……じゃあこころさんで」
「さん付けは何かよそよそしい……。呼び捨てがいいなぁ」
やり直しを求める。
もうお互い腹のうちを語り合った仲なのだから、佐々木とかこころとか、そんな適当な呼び方をしてほしい。
諦めずに食い下がっていると、ついに観念したのか、亮くんは大きく息を吸った。そして、吸った量とは裏腹に消え入りそうなほど小さく、
「……こころちゃん」
恥ずかしそうに、そう呟いた。
こうも恥ずかしそうに呼ばれるとこっちまで恥ずかしくなってくる。
呼び捨てでいいと言ったのにまさかちゃん付けしてくるとは。
これからずっとこころちゃんと呼ばれるのだと思うと気が気でない。嬉しさと恥ずかしさで頭がどうにかなってしまいそうだ。
しかし照れるのも束の間、すぐに亮くんの顔から表情が消える。
視線は真っすぐ彼の家に向き、その真面目な顔つきがこれから行う母との対談に備えてのものだと悟る。
そうだ、呑気に名前を呼び合って照れている場合ではなかった。
亮くんにはこれから、学校以上に大切なことがあるのだ
「お母さんとの話し合い、私も同席していいの?」
学校への同伴は許されたものの、今回は紛れもなく石丸家だけの問題。
果たして第三者である私が入り込んでいいものだろうか。
いくら私が亮くんの事情を全て知っていたとしても、これは非常に繊細な問題だ。言葉選びひとつ違えるだけでこの子の人生が右にも左にも傾くのだから。
見守りたい反面、それを躊躇する私がいる。
「……むしろ席を外すつもりだったの? 見守るって言ったのに」
言って、亮くんは不服そうにこちらを睨んできた。
その視線を受け、私はつくづく自分が情けない存在であることを痛感する。
この子には、そもそも私を置いて話をするという選択肢が存在しないらしい。
到底一人では抱えきれない問題に向き合う彼と、支えると言った私。
そんな私の言葉をまっすぐに受け止めて、安心して心を預けてくれている。だからこそ、今になって腰が引けている私に不満そうな眼差しを向けているのだろう。
実感する。この子の決意はとうに固まっていたのだと。
この期に及んで怖気づいているのは、どうやら私だけのようだ。
今しがた自分の口から飛び出た言葉に自分で呆れてしまう。
確認するまでもなく、自信を持って傍にいればいい。それが私の役目なのだから。
睨む亮くんの瞳を力強く見返し、私は改めて覚悟を決める。
「ずっと見守るよ。一番近くで、どんな時も」
そう言って、精一杯笑ってみせた。
「うん、約束だから」
亮くんもまた、笑顔だった。