ハルが記憶から消えていく。
 社会人になって、仕事をして、毎日忙しさで日々が通り過ぎていくことが怖い。
 ハルのことを一日だって忘れたことはないのに、ハルがどんな声で名前を呼ぶんだっけとか、どんな顔で笑うんだっけとか、記憶が少しずつ曖昧になっていく。
 私の記憶力は、なんて頼りないんだ。
 嫌だ、忘れたくない。ハルの欠片を何ひとつ失いたくない。思い出にしたくない。通り過ぎたくない。

 もうこれ以上、消えていかないでよ、ハル。
 私にはハルが全てなんだよ。
 ハルが私の世界を作ってくれたんだよ。
 それなのにどうして、どうして、どうして。

「冬香っ、どこに行くの!」
 学生会館のホールを抜け出して、大学の門にたどり着いたその時、後ろから私を引き留める強い声が聞こえた。
 後ろを振り向くと、そこにはムトーが立っていた。
「帰ったらだめだよ、冬香」
 彼女は逃げようとする私の手を取り、手の平を強く握りしめた。
 いつになく真剣な表情のムトーは、大きな目を私に向けて、無言で圧をかけている。
 その力強い目力に耐えられなくなり、私は自ら目を逸らした。
「いても意味ないよ……。辛いだけだ」
「意味があるとかないとか、それ以前に、私は冬香が心配なの!」
「心配って……、私が現実逃避していることとか? ひとりだけ過去に引っ張られて前を向けていないこととか?」
 ムトーが心配してくれる気持ちはすごく嬉しいのに、口からは余裕のない尖った言葉ばかり出てくる。
 こんなこと言おうと思ってなかったのに。だけど、悲しみの渦が胸の中で暴れるせいで、人を傷つける言葉ばかり出てしまう。

「皆はっ、もうなんでもない顔し働けているの? なんでもない顔してスーツを着て、なんでもない顔して友達と楽しくランチして、なんでもない顔して毎日過ごして……っ」
「……冬香」
「あんなに一緒に過ごしたのに! どうして皆はそんなに普通でいられるの。おかしいよ……っ」
「冬香!」
 ムトーが大きな声を上げて、私の名前を呼んだ。
 握りしめた手を離して、今度は両肩を掴んでじっと私を見つめている。
 嫌われた。もう駄目だ。失望されたに違いない。
 こんな、自分だけ悲劇のヒロイン気取りの人間、友達でいたくないに決まっている。

「私は、冬香だけは、諦めたくないの……っ!」

 それは、いつか私が“詩織”に対して放った言葉だった。
 ムトーはボロボロと涙をこぼして、私のことを見つめ続けている。
 その瞳は真剣そのもので、私のことを本当に心配してくれている瞳だった。

「諦めたくないのよ。どうしてハルがいなくなったからって、私たちは友達を止めなくちゃいけないの……?」
 涙を久しぶりに見たせいで、ムトーと共に乗り越えてきた、あらゆる辛い日々が、脳裏を駆け巡る。
 自分の考えなしの行動のせいで彼女を傷つけたこと、それでも許してまたそばに置いてくれたこと、同じ大学でハルと再会させるために一生懸命になってくれたこと。
 こんなに色濃い体験を共にして、大切な存在となった人を、私は今泣かせている。
 ムトーの問いかけが、じくじくと胸に痛みを広げていく。

「ウザがられても、鬱陶しがられても、見捨てられないっ……、あんたは私の、友達だから……」
 肩を掴み手が震えている。ムトーの涙はとても綺麗で、化粧を溶かして滑り落ちていく。
 そんなムトーを見たら、少しずつトゲトゲした針が溶けて行って、私はずっと怖かったことを口にした。

「ごめん……、本当は、さっきの言葉、自分に言い聞かせてたの」
「え……?」
「ハルがいなくなっても、私、なんでもない顔して就活して、就職して、仕事をしている。お腹は減るし、美味しいものを食べた時はちゃんと美味しいって感じる……」
 何を言っているか、自分でもわからなくなってきた。でも私にとって今一番恐ろしくて悲しいことは、今これなんだ。
「私ね、ハルがいなくなっても、意外とちゃんと生きていけてしまってる……。このままなんとなく日々を過ごして、どんどんハルが消えて行ってしまうんじゃないかと思うと、怖くて悲しい……っ」