そして、いつか中学生の私に言った台詞を、今のハルが再び口にした。

「記憶喪失なんて嘘だ。冬香を忘れたことなんて、一日もない。……一日も」

 ハルの声が、瞳が、体が、全て震えている。それだけで、今までどんな思いで彼が嘘をついてきたのかが伝わってきた。
 どうしてそんな嘘をついたのか、理由が私には全く分からなくて、ただただ頭の中が真っ白になっていくばかりだ。
 記憶喪失じゃないということは、じゃあ今私の目の前にいるハルは、私の知っているハルなの……?

「嘘だったの……?」
 私の問いかけに、ハルは静かに頷く。
 聞きたいことは山ほどあるのに、こんなにいっぱいいっぱいになっているハルを見たら、言葉が出なくなってしまった。
 真実に近づきたいと思ってここへ来たのに、何を恐れているんだろう。
 再び頭にズキっとした痛みが走り、私は眉を一瞬顰めた。
 そんな私を見て耐えられなくなったのか、ハルはごめんと呟いて、突然図書室から走り去っていった。

「ハル!!」
 頭痛に耐えながら、私もすぐにハルを追ったが、ハルは何度呼び掛けても止まらなかった。
 階段を同じように駆け下り、長い廊下を走り抜け、ハルの足音だけを頼りに後を追った。
 しかし、角を曲がった瞬間彼を見逃してしまい、私は誰もいない廊下で立ち尽くしてしまった。

「ハル、ハルどこ……?」
 不安で心臓がどきどきしている。それはきっと、ハルも同じだ。
 ハルが私に、記憶喪失だと嘘をつかなければならなかった理由は何……?
 思い出せ、思い出して、私。
 でもね、私、理由は分からないけれど、ひとつだけ分かっていることがあるよ。
 
 何があっても味方だと言ってくれた君が、私を傷つけるために嘘をつくことなんて、絶対ないってこと。

 分かってるよ、ハル。
 どんな真実が待っていようと、私もハルの味方だよ。
 ハルはそれを分かってくれないの? だから私から逃げたの?

「ハル……、お願い、離れて行かないで……」
 冷たい廊下をとぼとぼと歩いていると、ふと雨が雪に変わっていることに気づいた。
 どうりで今日は寒いわけだ。
 雨よりもずっとゆっくりと地上に舞い降りてくるそれを見て、私は随分昔のことを思い出していた。
 
 ハルと出会ったのは、私がまだちゃんと文字もかけないほど小さい時で、マンションの階段下で蹲っているハルに話しかけたんだった。
 確かあの日も雪が降っていて、私とお母さんはこんな寒空の下蹲っているハルを見て仰天したんだった。
 青白くなったハルに『大丈夫? お家はどこ?』と話しかけたら、ハルは青白い唇を震わせて『家ってどこ?』と問いかけてきたんだ。
 幼い頃の私には、その時のハルの状況が良く分からなかったけれど、今思えばあれは壮絶な家庭環境を知らせるサインでしかなかった。
 
 あの日、寒さで震えるハルに、私はハグの魔法しかかけてあげられなかった。
 
 ハル、私は君に、春の人と書くにふさわしい、温かい幸せを捧げたかった。
 それが小さいころからの、私の夢だったんだよ。
 君は、どんな時も私のことを信じてくれたから。どんな時も、痛みを分かち合ってくれたから。
 
「……どうして、共鳴しても、私の気持ちを分かってくれないの……?」
 
 ぽつりと呟いた言葉が、ひんやりとした廊下に吸い込まれていく。
 私はあるひとつの勘を頼りに、あの教室へと足を運んだ。
 それは、黒く分厚いカーテンで囲まれた、あの教室だ。
 ハルが、何があっても私を取ると言い、私がハルへの気持ちを自覚したあの教室だ。

 引き戸に手をかけ開けると、銀色の空が半分だけ見えていた。
 もう半分は真っ黒なカーテンが引かれていて、そこからは人の足が見えた。
 ……やっぱりここにいた。
 私はゆっくり、黒いカーテンの中で蹲っているハルに近づいた。
 私の気配に気づいているハルは、黒い布越しにぽつりと呟いた。