「俺のことは、俺に直接質問して」
「あ、ご、ごめん。話しかけていいのか分からなくて……」
「なんで? 俺そんなに怖い?」
「こ、怖くない、怖くないよ!」
ハルが、ハルじゃないみたい。私の知っているハルは、いつも何かに怯えていて、家の玄関の前で静かに泣いているような、そんな子供だった。
ハルが自分以外の同世代と話しているところを初めて見た私は、なんとも言えない気持ちになっていた。
「冬香、放課後に、校内案内して」
周りの女の子からの視線を感じながら、私は静かに頷いた。その時、ようやく彼の顔を真正面から見ることができた。


記憶の中の彼と、今目の前を歩いている彼が、まだ上手く合致しない。美術室の前を通り過ぎて、緑色の廊下を進むと、一番奥には視聴覚室がある。
黒いカーテンに覆われているその教室は、ビデオでの学習の時にだけ使われていた。
「こんな無駄に立派なプロジェクターあんの」
「あ、あんまりいじらないでね。先生に怒られちゃうかも……」
ハルは分厚く重たい黒いカーテンを開けて、外の空気を埃っぽい教室に入れ込んだ。
春の放課後特有の、生暖かい風が彼の前髪をかきあげ、オレンジ色の夕日は彼の輪郭をぼやかした。
「も、もう心臓の病気は、大丈夫なの……?」
「うん、前よりは治療のおかげで強くなった。発作もほとんどないよ」
「そうなんだ……良かった」
ハルがいる。ここにいる。本当に?
嘘みたいだ、あんなに会いたいと思っていた彼が、ここにいる。
心臓も、前よりは良くなったんだ。良かった。学校にも通えるようになったんだね。本当に良かったね、ハル。

「なあ、ここで映画観たら、きっと最高だな。ダンボールよりは風通しもいい」
そう言って笑う彼を見て、まだ生きやすかったあの日々を思い出し、胸がぎゅっと苦しくなった。
ハル、私は、君と会えなかったこの五年間、色んなことを経験したよ。ハルは、どんな五年間を過ごしていたのかな。楽しく暮らせていたのなら良い。そうだったら嬉しい。
「ハル、私を覚えていてくれて、ありがとう」
思わず口から出た言葉に、ハルは一瞬目を丸くした。それから、私の目の前に来て、じっと私の瞳を見つめた。
幼い頃は私と同じ目線だったのに、今は私よりも頭一個半分も高い。私を見つめる彼の顔は真剣で、何か言いたそうなことを抱えているように見えた。
「……忘れたことなんかない。一日も」
「え……」
「一日もだ」
逆光で彼の表情が上手く読み取れない。けれど、その声は真剣で、全く嘘がないように聞こえた。そんなことを言われると思っていなかった私は、なんと言い返したらいいのか分からず、その場に立ち尽くしてしまった。
「なんてシーン、あったよな。冬香と観た映画で」
「あ、そういうこと……。うん、あったね。アニメ映画のムーンライトのことかな。娘と父が再会するシーンの……」
一瞬でも真に受けてしまった自分が恥ずかしくなって、思わず早口になった。ハルは無表情のまま、心臓に悪い冗談を言ったりすることがよくあった。そういうところは昔と変わってないんだな。
「ハルは、この五年間で、明るくなったね……。向こうの学校には、友達沢山いた?」
そう言うと、ハルは一瞬、目を伏せてから静かに笑った。
「うん、そうだな……」
ほんの一瞬、この一瞬を見逃さなければと、私は数年後後悔することになる。

ハルがこの時、どんな思いで私に会いに来ていたのかとか、五年間どんな思いで生きていたのかとか、何も知らないままだった。
本当に何も、ただの一欠片も、彼のことを理解していなかったんだ。

バカだな、笑っちゃうよ。
悲しすぎて、涙も出ない日が来るなんて、予感していなかった。

だって、笑っている人は、皆幸せだと思っていたから。

知らなかったんだ。幸せだから笑っているんじゃなくて、幸せになりたいから笑っている人もいるんだってこと。