「……冬香」
張り詰めた空気の中、ハルが静かに口を開いた。
「俺、冬香に協力してほしいことがある」
「協力……?」
「……記憶が欠落してから、心の芯が抜けたみたいに、ずっと体が空洞なんだ」
ハルの瞳は暗くて、光が宿っていなくて、暗闇に溶けてよく見えない。
私は、一歩彼に近づいて、どんな言葉も聴き落とさないように耳をすませた。

「俺の能力を知っているのは、冬香だけだ。だから、お願いしたいことがある」
「うん、なんでも言って」
ハルの為になることなら、なんでも力を貸したい。もう一度、私を信じてほしい。

「冬香の色んな感情を、分けてほしい。空っぽな俺に」
「え……?」
「悲しい時も、嬉しい時も、感動した時も、感情を分けてほしいんだ」

ハルの瞳が、真っ直ぐに私を映し出している。感情を分けてほしいという切実な思いが、切れ長の瞳に溢れていた。

私の感情なんかを分けて、ハルの為になるのだろうか。
醜い感情を読まれて、嫌われたりしないだろうか。
戸惑う私に、ハルは更に言葉を続ける。

「俺、自分の記憶なんか、正直そんなに思い出さなくたっていいと思ってる」
「え……」
「体も強くないし、きっと自己防衛で記憶を消したんだろうから」
「自己防衛で……」
ハルの言葉がズキリと胸を刺す。忘れないと自分を守れないくらい、私の存在はハルを傷つけてしまったんだ。
その事実を受け止めて、思い出して欲しい気持ちだけでなく、思い出されることが怖い気持ちが混ざってしまった。

「でも俺は、時間に逆らって生きていくことは出来ないなら、これからのことだけを感じ取って生きていきたい」
ハルは淡々と語るばかりなのに、私はハルの言葉を全部受け止めるのに必死だ。
でも、ハルが本気で相談してくれていることは、瞳から十分に伝わってきた。

「それを冬香に、手伝って欲しいんだ。この力を知っている冬香にしか、頼めない。……冬香の心を……心臓を、俺に分けて欲しい」

ハルは、前を向いて生きようとしている。
色んなことを感じ取って生きていこうとしている。
私は、そんなハルの人生を、手伝えるかな。自信はないよ。だけど、ハルの人生に交わりたい。今度こそ守りたい、ハルを。この空っぽなハルを満たしてあげたい。

「分かった……。ハル」
私は、静かに頷いて、ハルに一歩近づいた。
ハルは中学の時よりうんと身長が伸びていたから、心臓がある位置を上手く合わせられない。
ぐっと背伸びをして、彼の背中に手を回して、自分の心臓にぴったりと彼の胸を当てた。
涙が出るほど懐かしいハルの匂いに、不覚にも涙が出そうになってしまった。

「心臓、震えてる……」
ハルはそう言って、昔みたいに私を優しくハグした。
ドクンドクン、という鼓動が、服越しなのにこんなにも鮮明に伝わってくるのは、ハルの能力の効果なのだろうか。

私は、自分の心臓を彼に捧げる勢いで、強く強く抱きしめながら誓った。

もう君を傷つけない。手離さない。だからそばにいて。

こんな気持ち、読まれてしまったら恥ずかしい。それでも構わない。自分の全てをさらけ出したっていい。……ハルの生きる力に、少しでも繋がるのなら。

「冬香、ありがとう……」
こんな私の気持ちと共鳴したのか、ハルはそれ以上何も言わずに、私を抱きしめるだけだった。
私は彼の背中に腕を回しながら、絶対にもうこの手を離さないと、強く強く心に刻んだ。

その日から、私とハルの、少し奇妙で新しい関係がスタートしたんだ。