「持田冬香ちゃん?」
「え、なにーー」
男性の声に振り向いた瞬間、酸素の行く手を塞がれた。冷たい革の手袋の感触が唇に触れて、気づいたら後ろから何者かに抱き締められていた。
スマホが手からすり抜けて、ハルが私を呼ぶ声が地面から聞こえる。
ハルに抱き締められる時とはまるで感覚が違う。
全身の血が凍るような感覚が走り抜け、心臓が激しく動き始めた。
「福崎愛理に頼まれただけだから、恨まないでよ? 受験できないくらい精神追い込んでやってって」
革の手袋から自分の熱い吐息がフゥフゥと漏れる。何が起こっているのが、全く分かっていないが、バクンバクンと今にも破裂しそうな心臓が、警報を鳴らしている。危険だと。
二人男性がいることを理解したのは、口を塞がれてから何秒後だっただろうか。
ガムテープで口を塞がれたあとパニックで暴れた私は、薄暗い道に倒れこんだ。
多くの草が割れ目から顔を出しているぼこぼこのアスファルトは、簡単に私の柔らかい肌を傷つけ、血を流させた。
「文化祭の時、君の幼馴染が愛理にペンキかけて、今すぐ俺のこと呼べって挑発してたらしいね? やるじゃん、完璧その時君の人生終わったね?」
「愛理のこと、もしかしてただのギャルだとか思ってる? 残念だけど、そんなレベルじゃないからね、俺たちが生きてる世界って」
ダッフルコートを乱雑に脱がされた時、私の頭の中にハルの言葉がリフレインした。
私達は、まるで明日が来るのは当たり前のように生きているって。
私もそう思っていた。私は明日も同じ時間に起きて、同じように授業を受けて、家に帰り、支度をして、また今日と同じように塾に向かうって。
明日が来ることを当たり前に思っていないハルは、もしかして、これほどに近い恐怖を味わったことがあったのだろうか。
「やめて! 離れて! 警察呼びましたよ!」
世界がどぶ色に染まっていったその時、女性の声が鼓膜を震わせた。
スマホのライトが男性二人の顔を明るく照らし、その光の元にはがくがくと足を震わせる詩織が立っていた。
鼻から息をすることを忘れていた。それほど私はショック状態に陥っていたが、詩織の声を聞いてようやく呼吸を思い出した。
助けて、とガムテープの下から叫んだ。熱い涙がじわっと溢れ出て、首や耳に流れ込んだ。
「はは、警察とか嘘だろ。おいお前、あの女も捕まえてこいよ」
やめて、やめて、やめて。顔を強く強く横に振った。
逃げて、詩織。助けて、詩織。
矛盾した感情が胸の中で暴れまくっている。
しかし、詩織が襲われそうになっている様子を見て、体のどこかにあったスイッチがようやくオンになった。
私は隙をついて男を全力で突き飛ばし、田んぼの用水路に落とした。それから、詩織を捕まえようとしているもう一人の男も後ろからタックルし、重たいテキストが入った鞄を顔面に叩きつけ、詩織の手を引いて全力で住宅街へ向かって逃げた。
自分の体のどこにそんな力があったのか、自分でも信じられない。
けれど、もう二度と詩織を傷つけたくないという思いと、こんなところで人生終わりたくないという思いだけが、自分の体を突き動かしていた。
怒声が後ろから聞こえたが、たまたま車が通りかかり、住民に見られることに怯えたのか彼らはそれ以上追ってこなかった。
けれど、私達は恐怖心に煽られながら、塾まで死にものぐるいで走り逃げた。
「どうしたの!? 二人とも」
顔面蒼白の私達を見て、塾長は血相を変えて私達を中に入れてくれた。
バク、バク、バク、と心臓がまだ激しく動いている。強く握り締めた詩織の手は、私と同じようにぶるぶると震えていた。
「詩織、大丈夫……?」
「ふ、冬香こそ……」
「う、うん……うん」
掴まれて赤くなった手首と、血だらけの膝を見て、私は何の涙か分からない涙をぼろっと零した。
「とにかく、すぐに親御さんと警察を呼ぶから。坂上さん、ドアに鍵かけて、温かい飲み物用意してあげて」
私達は固く手を握り締めあったまま、しばらく椅子に座ることもできずに、床にへたり込んで震えていた。
お母さんは、電話をかけてすぐに私を迎えに来てくれたけれど、私は詩織の親が迎えに来るまで手を離さなかった。
まるで悪夢のような、まだ現実味のない出来事のように思える。