「ねぇあんた、個人経営のあのボロい塾通ってんだって? あんな学歴低い講師の塾なんて、通う意味あんの? あそこしか通わせてもらえなかったんだ?」
「わ、私が……選んだの。映像より自分に合ってそうだったから」
彼女の刺々しい発言に恐る恐るそう答えると、彼女はいつのまにか床に落ちていた私の単語帳を足で踏んだ。忘れやすい部分につけていたピンクの付箋が、びりっと音を立てて破れた。

「そういう、自分の考え信じ切ってるところまじでウザいんだよ」
彼女の言葉に心臓を凍りつかされた私は、バラバラになっていく付箋をただ見つめていた。
やめて、という声も出ない。ただ、この世には自分を理不尽に嫌う人も存在するんだという事実だけが、胸に重くのしかかる。
耐えろ。耐えろ、耐えろ、耐えろ。
自分の心臓に何度もその三文字を叩きつける。まるで釘で止めるかのように打ち込む。
今だけ、後数ヶ月、耐えれば終わる。
額にうっすら浮かぶ冷や汗を拭って、私は一言も言い返さずにその席から離れた。
私の一挙手一投足が、彼女の理不尽な怒りに火をつけているのかもしれない。そんなことを予感するほど、日に日に福崎さんに八つ当たりをされる日々が増えていった。




『明日の実テ終わったら、映画観ない?』
ハルからそんなメールを受信したのは塾を終えた夜の二十時だった。
住宅街を抜けた田んぼ道は暗く、かなり遠い感覚である街灯だけが頼りだった。
薄暗い道を歩きながら、ハルのメールに『いいよ』と一言だけ返信すると、私は夜空を見上げた。
吐く息は白く、もわもわと形を変えて紺色に溶け込んでいく。チャコールグレーのダッフルコートを着ているけれど、やっぱりそれでも少し冷える。
穴ぼこだらけのアスファルトの上で立ち止まり、私は少しだけ目を閉じ、最近の出来事を瞼の裏で再生した。

今日の授業を終えた後は、詩織と少しだけ話すことができた。明日のテスト頑張ろうという一言だけだったが、とても嬉しかった。嬉しくて、声が裏返ってしまった。
福崎さんは、相変わらず私に言葉の暴力をしてくるが、完全にただの八つ当たりだと思うとあまり気にならなくなってきた。
ハルは数学の成績ばかり伸びて、英語は伸びないと嘆いていた。それでも十分いい点数なので嫌味かと思った。明日そう思ったことを伝えてやろう。
そんなことを思っていると、スマホがポケットの中で震えた。慌てて画面を見ると、ハルの二文字が表示されていた。
「もしもし? ハル?」
『よ、今何してんの?』
「塾終わって帰ってるところだよ」
『実テ前だしな。冬香見ると焦ってくるわ』
「嘘つき。全然焦ってなんかいないくせに」
拗ねたようにそうぼやくと、ハルは電話越しに小さく笑った。そういえば、ハルはどこの高校を受けるんだろう。なんとなく、聞くタイミングを逃し続けている。
そんなことを思っていると、ハルが唐突に進路を語り出した。
『俺、大学はW大受けて、そこの映画サークル入りてぇな』
「もう大学のこと考えてるの!?」
『従兄弟が映画サークル入ってて楽しそうだから、W大の推薦あるとこ受けようかな」
「あーあ、選択肢が広い人はいいね」
なんだ。まだ志望校は完全には決めてないのか。そのことになぜかほっとしている自分がいる。ハルは、自分の知らないところでどんどん先に進んでしまうことがあるから。

「受験まで、あと少しだねー……」
受験を控えて、初めて人生を逆算している。あと何日で実力テスト、あと何日で受験本番、あと何日で解放される、って。

ああ、そういえば、そのことを話した時、ハルが呟くように言っていたな。

皆、まるで明日が来ることが、当たり前のように毎日をカウントしているって。
それって、少し笑えるってーー……