「やめて、ハルに触らないで! ハルは心臓が弱いの!」
私の言葉に、ハルに群がっていた皆は咄嗟に彼から離れた。
私だけが彼に近づき、ハルの手を握った。
「薬はどこ、鞄に入ってるの!?」
息を切らしながら彼が何かを言おうとするので、私は彼の口に耳を寄せた。

「制服、血のり着くから……」

真っ赤に染まった彼の手が、引き離すように私の肩を押した。
この時の、血に染まったハルの映像は、嫌という程頭の中にこびりついている。

乱れたハルを見て初めて、ハルの弱さの真ん中に、触れたような気がしていた。でもそれは、ただの思い過ごしに過ぎなかった。
太陽みたいな存在のハルの心は、掻き分けても掻き分けても直接触れられないほど、泥まみれだった。

でも私は、信じている。
その泥ごと、ハルのことを信じているよ。
そう思っていることを、どうしてちゃんと口で伝えてあげなかったんだろう。




あの事件を起こしてから、ハルは福崎さんの両親と担任に呼び出しをくらい、反省文を書かされていた。
廊下で偶然ハルのお母さんと通りすがったけれど、ハルのお母さんはいつも通り能面のような顔をしていた。
ハルはクラスで恐れられる日が続いたが、ハルが何事もなかったかのように接するため、徐々にあの出来事の衝撃度は薄れていった。むしろ、あれは幻だったんじゃないかとさえ思う。 あの後、詩織の家に足を運んだが、詩織はやっぱり私とは会ってくれなかった。
一方で、福崎さんの人望は地の底に落ち、ハルが代表して福崎さんの悪行を止めてくれたと、ヒーロー扱いさえされていた。
私はその様子を、どこか冷めた目つきで見つめていた。
「持田さん、あの時はごめんね」
お昼休み、ぼうっと窓の外を見つめていると、小木さんが数人友達を後ろに連れてやってきた。
私は本気で、あの時ってなんの話だろうと思った。
「……あの時、ひどいこと言ってごめん。詩織が不登校になったのは、福崎さんのせいなのに、福崎さんが怖くてあんなこと言ってしまって……」
彼女は、申し訳なさそうに眉を下げて、三つ編みにした髪の毛を両手でいじっている。
私は、心に言葉が入ってこないとはこのことなんだな、と思いながら、小木さんの言葉を受け流していた。
「でも良かったね。市之瀬君が、福崎さんのことああやって懲らしめてくれて……正直スッキリしたっていうか……」
あんなハルを見て、あんな姿の福崎さんを見て、この人はスッキリした気持ちになったのか。
小木さんの言葉が、空気のようにただ耳を通り抜けていく。私は何も言葉を返さずに流し聞いていると、福崎さんが教室に入ってきた。
もう誰も、彼女の存在に怯えたり、注目したりしない。
「邪魔だ、どけ」
福崎さんが、小木さんの背中を押して、自分の席に座った。小木さん達は、怖、と一言だけ呟いてくすくすと笑った。
なんだかその笑い声が、とても醜く耳障りに聞こえた。
その笑い声を切り裂くように、誰かが低い声を上げた。

「冬香、お前こっちに来い」
ハルが、端っこの席から窓際にいる私を呼んだ。驚いた私に向かって、彼はもう一度、こっちに来いと言った。
なんでハルは、私が少しでも居心地が悪いと感じると、気づいてくれるんだろう。
私は席を立ち上がり、福崎さんの後ろを通って、ハルの元へ向かった。
去り際、小木さん達が、「せっかく話しかけてあげたのに、感じ悪」と私に向かって呟いていた。