「ごめん……詩織……」
私の中途半端な偽善が、彼女をあそこまで追い詰めてしまった。

そして私は、思い出してしまった。
自己防衛のために、ずっと認めずに、蓋をしていた感情を。

私が、あの時福崎さんをビンタしたのは、福崎さんという権力の強い人間に、自分だけは選ばれたという優越感を、一瞬でも抱いてしまった事実を、詩織に悟られないためだった。

「最低だ……私……」
教室になんか、怖くて怖くて戻れない。あそこに私の居場所はない。けれど、福崎さんの声が、教室の外にまで聞こえていた。

「ねぇ、ハルは知らないかもしれないけど、私が持田さんだけに入学式で声かけた時、あの子笑ってたよ。嬉しそうに。自分だけが選ばれたって、顔してた」
やめて。やめてよ。私は思わず彼女の言葉を止めようと、教室の入り口に近づいたが、震えで足がそれ以上進まなかった。

ーーもうやめて。心が、心が壊れそう。
羞恥心と自己嫌悪が、爪先から心臓に向かって攻め立ててくる。
冷や汗がどっと額から流れ出て、貧血に近いような感覚に陥った。

「ヒエラルキーなんかくだらないって顔しといて、いざ自分が上のグループに入れるとなると喜んでさ。それって一番性格悪」
その時、ガシャン! という音がした後に、途端に視界の目の前が真っ赤に染まった。バケツのような何かが目の前を横切って、気づくと目の前には、赤に塗れた福崎さんと、返り血のようなものを浴びたハルがいた。
一瞬、何が起きたのか理解ができずにいたが、空っぽになった血のりのバケツが床に転がっているのを見て、ハルがそれを福崎さんに投げたことだけが分かった。

「は、な、何すんの……」
「どぶはどぶに帰れよ」

目を丸くして固まっている福崎さんに向かって、ハルは冷たくそう言い捨てた。
いつも明るく笑っていたはずのハルが、今は光を宿していない冷たく黒い瞳で福崎さんを見下ろしている。

「俺は、お前なんか信じてない。お前の言うことなんかには、一ミリたりとも心が動かない」
「な、なんなの……、許さないから……彼氏に言いつけてやる!」
そう言った瞬間、ハルはそばにあったバケツを蹴り飛ばして、福崎さんの真横にある墓石のオブジェに当てた。
シャンシャンと音を立てて、へこんだバケツが床の上で静かになっていく。

「言えよ。今すぐ。俺はいつ死んだっていいんだ」
「なっ……、なに、言ってんの……、あんた、ヤバ……」
「言えって。電話かけてみろよ。ここに呼べよ。来てんだろ、今、文化祭に」
「な、なんなの、やめて……」

なんで、なんでハル、どうしていつ死んだっていいなんて、そんなこと言うの。これは本当にハルなの? あんなに、太陽みたいに笑っていたハルなの?
でも、私、あの目を知ってる。見覚えがある。あの顔を見るのは、初めてのことじゃない。

「呼べよ。俺は自分の信じてるものを傷つけるやつは許さない。絶対に」

そうだ、あれは、ハルの両親がお金のことで言い争っているときだった。
心臓の弱いハルの通院費のことで両親が喧嘩するたび、ハルは生きていること自体に罪悪感を抱くような、そんな表情をしていた。

心臓は、良くなったんじゃないの?
もしかして、今もいつ死んでもいいって、本気で思って生きてるの?

「ハル、もうやめて……!」
ハルが再び福崎さんに近づいていったその時、ハルは突然左胸付近を抑えゆて、その場に倒れこんだ。
床に散らばった血のりが、ハルの体を赤く染めた。うめき声のようなものが、教室に響き渡った。暫く沈黙が続いてから、クラスの女子が悲鳴をあげた。
その悲鳴でやっと他の生徒も正気に戻り、ハルの元へ駆け寄った。
何人かが教室を飛び出して担任を呼びにいき、何人かがハルの名前を呼び続け、福崎さんの元には誰も行かなかった。
私も暫く茫然自失としていたが、ハルのうめき声が再び耳に届いた時、私は弾かれたようにハルのそばに駆け寄った。