昼間なのに布団を頭までかぶり、髪の毛は枕の上に四方八方へ散らばっている。部屋のドアが開く音で、紫乃は身体をピクリと震わせた。
「おかあさん……?」
「今日は紫乃に、お友達を連れてきたの」
「おともだち……?」
そう言われても、紫乃は布団の中から顔を出さない。むしろ誰かの気配を感じたのか、芋虫のように布団ごと身体を丸めて自己防衛をしてしまった。
母はそんな紫乃を見て薄く微笑んだ後、朝陽の背中を軽く押してあげる。それから耳元で「娘のこと、よろしく頼んだわよ」と囁いて、リビングの方へと戻っていった。
部屋に取り残された朝陽は、とりあえずベッドの上の芋虫へ近付く。
「えっと。僕、あさひって言うんだけど……」
「あさひ、くん……?」
わずかな反応が帰ってきたことに喜びを覚えるが、紫乃は布団の中から顔を出そうとはしなかった。警戒されているとなんとなく察した朝陽は、無理にそれ以上近付いたりはしない。
「あの、お名前なんていうの?」
「名前……?」
わずかな沈黙の後、紫乃は例のごとく布団から顔を出さずに答えた。
「しののめ、しの……」
「しのっていうんだ」
「七歳です……好きな食べ物はウインナーで、嫌いな食べ物はピーマンです……」
「ピーマンが食べれないの?」
その質問をすると、丸まった布団がゴソリと動いた。おそらく紫乃は首を縦に振ったのだろう。
「ピーマンは、苦くて美味しくないから……」
「ええ、そんなことはないと思うけど」
今度の紫乃は、首を振ることも言葉を返すこともしない。何か会話の糸口がないかと思い、朝陽は必死に話題を探す。
そうして辺りを見渡しているうちに、絵本がたくさん詰まった本棚が置いてあることに気付いた。
「もしかして、絵本が好きなの?」
「ごめ、ごめんなさい……」
「え、なんで謝るの」
疑問に思いつつ、朝陽は本棚へ近付く。小学生になって絵本をあまり読まなくなったが、幼稚園の頃に読んだことのあるものばかりが詰め込まれていて、なんだか懐かしい気持ちになった。
「あ、桃太郎も持ってるんだね」
それは朝陽の特にお気に入りの絵本だった。思わず本棚から引き抜いて、中身を開いて読み始める。犬が仲間に加わったあたりで我に返り、パタンと絵本を閉じた。
「犬ってかわいいよね」
「イヌ……?」
「うん。桃太郎にも出てくるでしょ?」
もう一度絵本を開いて、白い犬を紫乃の方へ見せようとしたが、布団にくるまっていたため見せることはできなかった。
「イヌ、怖い……」
「え、そんなことないよ」
「だっていつもワンワン言って驚かせてくるもん……」
彼女がそう言った時、窓の向こうでタイミング悪く犬の鳴き声が聴こえた。その声に紫乃は驚いたのか、小さな悲鳴を上げて布団が小刻みに揺れる。
「鳴き声は怖いけど、でも毛がふさふさしてて気持ちいいよ?」
それきり、また紫乃は口をつぐんでしまう。しかし今度の沈黙はあまり長くなく、布団の中から控えめな声が飛んできた。
「イヌって、ふさふさしてるの……?」
「もしかして見たことない?」
布団がゴソリと動いた。
それは肯定を示している。もしかすると、彼女はあまり外へ出たことがないのかもしれないと朝陽は思った。
「触ってみたら気持ちよさそうにしてくれるし、きっとすぐに仲良しになれるよ。ちょっと一緒に探しに行ってみない?」
そんなことを、朝陽は自然と言えるようになっていた。とりあえず、写真に映っている彼女の顔を見る口実が欲しかったのだ。
しかし紫乃は布団をガサゴソと小刻みに揺らす。それは否定を示していた。
「しの、お外に出られないから……というより、出たくない……」
「え、どうして?」
「病気なの……外に行くと、迷惑かけちゃうから……」
「病気って、なんの病気?」
「……」
それきり紫乃は何も喋らなかった。分厚い布団にくるまり続け、朝陽のことを拒絶する。どうにかしてその繭を破ることはできないかと考えたが、幼い思考では解決策が思い浮かばない。
だから朝陽もそれきり何も喋らなかった。黙っていればどこかへ行ったと思って布団の中から出てくれるかもしれないという打算もあったが、結局紫乃は繭の中からは出てこない。
日が落ち始め夕日が差し込んできた頃、そろそろお家に帰らねばと思い立った朝陽は立ち上がる。無意識のうちに、そんな言葉を漏らしていた。
「またきてもいいよね」
返事はなかった。
だからそれを肯定と受け取り、次の日も東雲家へ遊びに行った。幸いなことに夏休みということもあって、時間はたっぷりとある。紫乃の母は、次の日も朝陽が家に訪れたことを喜んでいた。
特にこれといって話題があるわけではないが、毎日紫乃の家へと通う日が続く。
そういう日が一週間ばかり続いた頃、朝陽は一つの妙案を思いついた。自分の家の押入れから絵本を引っ張り出して、紫乃の部屋の本棚になかったものを探し出す。その中で特に自分の好きなお話を選んで、東雲家に遊びに行った。
例のごとく紫乃は芋虫になっているが、もう慣れてしまったから気にしない。朝陽はベッドの上の紫乃に聞こえるように、絵本の読み聞かせを行なった。
初めは全く反応を見せなかったが、物語が終盤に差し掛かるに連れて、芋虫がこちらへと近付いてくる。ようやく心が通わせられた気がして、朝陽は嬉しい気持ちになった。
「海の中から湧き上がってきた宝箱には、たくさんの宝石が入っていました。お宝を手に入れて裕福になったおじいさんは、おばあさんと一緒に末永く幸せに過ごしました。おしまい!」
絵本を読み終わり、パタンと音を立てて閉じる。
しばらく紫乃の反応を窺っていると、布団の中から声が聞こえてきた。
「海って、綺麗なの……?」
朝陽たちの住んでいる地域は内陸側で、海に面してはいない。そのため実際に見たことがないため、写真で見た情景を思い浮かべた。
「すっごい青くてね、お魚がいっぱい泳いでるんだよ」
「そうなんだ……」
「お空には白い鳥がいっぱい飛んでてね、海が太陽の光でキラキラ輝いてるんだ」
「……」
少しは海に興味を示してくれたように思えたが、すぐに全てを諦めてしまったかのような声で紫乃は呟く。
「でも海を見れなきゃ、カギのかかった宝箱とおんなじだよ……」
「そんなこと……」
「朝陽くんに、しのの気持ちなんてわからないから……」
その言葉が胸の内側にグサリと突き刺さって、思わず涙がこぼれそうになってしまう。しかし母から前に教えられた言葉を思い出し、朝陽は踏みとどまった。
男の子が、女の子の前で泣いたりしてはいけない。
「……じゃあそのカギが見つかるまで、僕は待つよ。しのの病気が治るまで、僕は待ってる。だから病気が治ったら、一緒にいろんなものを見に行こう。紫乃が行きたいって言ったところなら、どこへだって連れて行くよ」
「無理だよ。だって、治らないんだから……」
無慈悲にも彼女はそう告げる。
「だって、そういう病気なんだもん。海だって、イヌだって、道に咲いているお花だって、しのには一生見ることができないの……だからしのにとって、そんなもの綺麗じゃない……」
それは、明らかな拒絶。開きかけていた扉は、大きな鍵がかけられたかのように固く閉ざされてしまい、もう朝陽が触れることは叶わない。
それでもその孤独に触れたくて手を伸ばすけれど、結局見えない壁に阻まれて届くことはなかった。
「もう、しののへやに来ないで……どっちにしても、しのはもうすぐ……」
母の教えてくれた言葉は、守ることが出来なかった。目からはぽろぽろと涙がこぼれ、頬を濡らしていく。目の前の少女に見られなかったことが、朝陽にとっての唯一の救いだった。
しかし紫乃の母に大丈夫かと心配されて、不甲斐なさに余計涙が溢れてくる。最後に残った理性を総動員して、震えながらも朝陽は訴えた。
「しのは、悪くないんです……僕が勝手に泣いただけだから……」
一番泣きたいのは彼女の方だと、子どもながらに理解できていた。だからあの場でどうしても泣くわけにはいかなかったのだ。
紫乃の母は、朝陽を抱き寄せて頭を撫でてあげた。そして小さく呟く。
「ごめんね。朝陽くんに、全部背負わせちゃって……」
背負ったわけではないと言いたかった。僕はただ、自分の意思で紫乃と仲良くなりたかったのだと。
だけど壊れた感情が邪魔をして、それを言葉にすることが出来なかった、ただ、仲良くなりたいだけなのに。
それだけが、朝陽の望みだった。
「おかあさん……?」
「今日は紫乃に、お友達を連れてきたの」
「おともだち……?」
そう言われても、紫乃は布団の中から顔を出さない。むしろ誰かの気配を感じたのか、芋虫のように布団ごと身体を丸めて自己防衛をしてしまった。
母はそんな紫乃を見て薄く微笑んだ後、朝陽の背中を軽く押してあげる。それから耳元で「娘のこと、よろしく頼んだわよ」と囁いて、リビングの方へと戻っていった。
部屋に取り残された朝陽は、とりあえずベッドの上の芋虫へ近付く。
「えっと。僕、あさひって言うんだけど……」
「あさひ、くん……?」
わずかな反応が帰ってきたことに喜びを覚えるが、紫乃は布団の中から顔を出そうとはしなかった。警戒されているとなんとなく察した朝陽は、無理にそれ以上近付いたりはしない。
「あの、お名前なんていうの?」
「名前……?」
わずかな沈黙の後、紫乃は例のごとく布団から顔を出さずに答えた。
「しののめ、しの……」
「しのっていうんだ」
「七歳です……好きな食べ物はウインナーで、嫌いな食べ物はピーマンです……」
「ピーマンが食べれないの?」
その質問をすると、丸まった布団がゴソリと動いた。おそらく紫乃は首を縦に振ったのだろう。
「ピーマンは、苦くて美味しくないから……」
「ええ、そんなことはないと思うけど」
今度の紫乃は、首を振ることも言葉を返すこともしない。何か会話の糸口がないかと思い、朝陽は必死に話題を探す。
そうして辺りを見渡しているうちに、絵本がたくさん詰まった本棚が置いてあることに気付いた。
「もしかして、絵本が好きなの?」
「ごめ、ごめんなさい……」
「え、なんで謝るの」
疑問に思いつつ、朝陽は本棚へ近付く。小学生になって絵本をあまり読まなくなったが、幼稚園の頃に読んだことのあるものばかりが詰め込まれていて、なんだか懐かしい気持ちになった。
「あ、桃太郎も持ってるんだね」
それは朝陽の特にお気に入りの絵本だった。思わず本棚から引き抜いて、中身を開いて読み始める。犬が仲間に加わったあたりで我に返り、パタンと絵本を閉じた。
「犬ってかわいいよね」
「イヌ……?」
「うん。桃太郎にも出てくるでしょ?」
もう一度絵本を開いて、白い犬を紫乃の方へ見せようとしたが、布団にくるまっていたため見せることはできなかった。
「イヌ、怖い……」
「え、そんなことないよ」
「だっていつもワンワン言って驚かせてくるもん……」
彼女がそう言った時、窓の向こうでタイミング悪く犬の鳴き声が聴こえた。その声に紫乃は驚いたのか、小さな悲鳴を上げて布団が小刻みに揺れる。
「鳴き声は怖いけど、でも毛がふさふさしてて気持ちいいよ?」
それきり、また紫乃は口をつぐんでしまう。しかし今度の沈黙はあまり長くなく、布団の中から控えめな声が飛んできた。
「イヌって、ふさふさしてるの……?」
「もしかして見たことない?」
布団がゴソリと動いた。
それは肯定を示している。もしかすると、彼女はあまり外へ出たことがないのかもしれないと朝陽は思った。
「触ってみたら気持ちよさそうにしてくれるし、きっとすぐに仲良しになれるよ。ちょっと一緒に探しに行ってみない?」
そんなことを、朝陽は自然と言えるようになっていた。とりあえず、写真に映っている彼女の顔を見る口実が欲しかったのだ。
しかし紫乃は布団をガサゴソと小刻みに揺らす。それは否定を示していた。
「しの、お外に出られないから……というより、出たくない……」
「え、どうして?」
「病気なの……外に行くと、迷惑かけちゃうから……」
「病気って、なんの病気?」
「……」
それきり紫乃は何も喋らなかった。分厚い布団にくるまり続け、朝陽のことを拒絶する。どうにかしてその繭を破ることはできないかと考えたが、幼い思考では解決策が思い浮かばない。
だから朝陽もそれきり何も喋らなかった。黙っていればどこかへ行ったと思って布団の中から出てくれるかもしれないという打算もあったが、結局紫乃は繭の中からは出てこない。
日が落ち始め夕日が差し込んできた頃、そろそろお家に帰らねばと思い立った朝陽は立ち上がる。無意識のうちに、そんな言葉を漏らしていた。
「またきてもいいよね」
返事はなかった。
だからそれを肯定と受け取り、次の日も東雲家へ遊びに行った。幸いなことに夏休みということもあって、時間はたっぷりとある。紫乃の母は、次の日も朝陽が家に訪れたことを喜んでいた。
特にこれといって話題があるわけではないが、毎日紫乃の家へと通う日が続く。
そういう日が一週間ばかり続いた頃、朝陽は一つの妙案を思いついた。自分の家の押入れから絵本を引っ張り出して、紫乃の部屋の本棚になかったものを探し出す。その中で特に自分の好きなお話を選んで、東雲家に遊びに行った。
例のごとく紫乃は芋虫になっているが、もう慣れてしまったから気にしない。朝陽はベッドの上の紫乃に聞こえるように、絵本の読み聞かせを行なった。
初めは全く反応を見せなかったが、物語が終盤に差し掛かるに連れて、芋虫がこちらへと近付いてくる。ようやく心が通わせられた気がして、朝陽は嬉しい気持ちになった。
「海の中から湧き上がってきた宝箱には、たくさんの宝石が入っていました。お宝を手に入れて裕福になったおじいさんは、おばあさんと一緒に末永く幸せに過ごしました。おしまい!」
絵本を読み終わり、パタンと音を立てて閉じる。
しばらく紫乃の反応を窺っていると、布団の中から声が聞こえてきた。
「海って、綺麗なの……?」
朝陽たちの住んでいる地域は内陸側で、海に面してはいない。そのため実際に見たことがないため、写真で見た情景を思い浮かべた。
「すっごい青くてね、お魚がいっぱい泳いでるんだよ」
「そうなんだ……」
「お空には白い鳥がいっぱい飛んでてね、海が太陽の光でキラキラ輝いてるんだ」
「……」
少しは海に興味を示してくれたように思えたが、すぐに全てを諦めてしまったかのような声で紫乃は呟く。
「でも海を見れなきゃ、カギのかかった宝箱とおんなじだよ……」
「そんなこと……」
「朝陽くんに、しのの気持ちなんてわからないから……」
その言葉が胸の内側にグサリと突き刺さって、思わず涙がこぼれそうになってしまう。しかし母から前に教えられた言葉を思い出し、朝陽は踏みとどまった。
男の子が、女の子の前で泣いたりしてはいけない。
「……じゃあそのカギが見つかるまで、僕は待つよ。しのの病気が治るまで、僕は待ってる。だから病気が治ったら、一緒にいろんなものを見に行こう。紫乃が行きたいって言ったところなら、どこへだって連れて行くよ」
「無理だよ。だって、治らないんだから……」
無慈悲にも彼女はそう告げる。
「だって、そういう病気なんだもん。海だって、イヌだって、道に咲いているお花だって、しのには一生見ることができないの……だからしのにとって、そんなもの綺麗じゃない……」
それは、明らかな拒絶。開きかけていた扉は、大きな鍵がかけられたかのように固く閉ざされてしまい、もう朝陽が触れることは叶わない。
それでもその孤独に触れたくて手を伸ばすけれど、結局見えない壁に阻まれて届くことはなかった。
「もう、しののへやに来ないで……どっちにしても、しのはもうすぐ……」
母の教えてくれた言葉は、守ることが出来なかった。目からはぽろぽろと涙がこぼれ、頬を濡らしていく。目の前の少女に見られなかったことが、朝陽にとっての唯一の救いだった。
しかし紫乃の母に大丈夫かと心配されて、不甲斐なさに余計涙が溢れてくる。最後に残った理性を総動員して、震えながらも朝陽は訴えた。
「しのは、悪くないんです……僕が勝手に泣いただけだから……」
一番泣きたいのは彼女の方だと、子どもながらに理解できていた。だからあの場でどうしても泣くわけにはいかなかったのだ。
紫乃の母は、朝陽を抱き寄せて頭を撫でてあげた。そして小さく呟く。
「ごめんね。朝陽くんに、全部背負わせちゃって……」
背負ったわけではないと言いたかった。僕はただ、自分の意思で紫乃と仲良くなりたかったのだと。
だけど壊れた感情が邪魔をして、それを言葉にすることが出来なかった、ただ、仲良くなりたいだけなのに。
それだけが、朝陽の望みだった。