海に願いを 風に祈りを そして君に誓いを

その優海の前に、大柄な先輩が立ちはだかり、パスカットをしようと手を伸ばす。

その瞬間に、優海は全身のばねを使って大きく跳ねた。

先輩よりも頭ひとつ飛び出すくらい高いジャンプだった。

先輩を出し抜く形で、まだ空中高いところにあるボールを素早くつかむ。

「ナイスキャーッチ!」

仲間から一斉に拍手と歓声が沸いた。

普段はとぼけたやつだけど、運動をしているときだけはまあまあかっこいいな、といつも思う。

妙にモテるのも分かる気がした。おバカな面を見ずに、スポーツで活躍しているところだけ見たら、すごくかっこいいやつだと思われるのも頷ける。

「優海、そのまま行け!!」

すぐにドリブルをついて走り出した優海に指示が飛ぶ。

次々に迫ってくるディフェンスを目にも留まらぬ早さですり抜けた彼は、ボールをのせた右手を真っ直ぐにゴールへ伸ばし、きれいなフォームのレイアップシュートを決めた。

「ナイッシュー!!」

レギュラーの先輩たちが優海に駆け寄り、肩を抱いたり頭をくしゃくしゃに撫でたりした。

優海が可愛がられていることに安堵を覚える。

そのときだった。

「すごーい、かっこいい……」

という声とともに、小さな拍手の音が聞こえてきた。

反射的にぱっと視線を向ける。

そこには、隣の出入り口から体育館の中を覗きこんでいる美紅ちゃんの姿があった。

思わず凝視していると、視線を感じたのか、ふっと彼女がこちらを向いた。

「あ……っ」

美紅ちゃんはひどく気まずそうな顔をした。

でも、歪んだ表情のままこちらを見ている。

私も目を逸らすタイミングを失ってしまって、しばらく見つめ合った。

ここは私から声をかけないと、と口を開きかけた、そのとき。

「――ごめんなさいっ!」

彼女が勢いよくがばっと頭をさげた。

さらさらの髪が宙に踊る。

次の瞬間、美紅ちゃんは踵を返して走り出した。

「えっ、ちょっ……待って!」

私は慌てて後を追う。

足音に振り向いた彼女が、恐怖にひきつった表情を浮かべた。

それからスピードをあげる。

速い。さすが現役の運動部員。新体操って優雅に見えるけど体力使うんだろうな、と感心しながら追いかける。

でも、私の足はすぐにもつれはじめて、予想通りどんどん引き離されてしまった。

帰宅部は五十メートル以上は全力疾走できないのだ。

こうなったら最終手段、と思って声を張り上げる。

「あっ、優海!!」

私が叫んだと同時に、美紅ちゃんの足がぴたりと止まった。

彼女が振り向く前に、なんとか追いついてその華奢な肩をがっしりとつかむ。

「待って……ちょっと、話が、あって……」

息が切れて上手く話せない。

彼女は戸惑ったようにちらりと私を見てから、周囲にぐるりと視線を巡らせた。

優海を探しているらしいと気づき、慌てて謝る。

「あ、ごめん。優海って言ったのは、うそ。あいつはいないよ」
「え……っ」

驚いたように息をのんでから、彼女は頬をかあっと赤く染めた。

「あ……っ、ご、ごめんなさい……!」

見たこともないくらい真っ赤な顔を両手で隠すように押さえ、今にも泣きそうな声で謝ってくる。

私はふるふると首を横に振った。

「いやいや、なんで謝るの。み……豊原さんは何も悪いことしてないじゃん」

いきなり美紅ちゃんと呼ぶのは慣れ慣れしいかと思って、豊原さんと言い直す。

名字はすでに真梨経由でリサーチ済みだった。

「あ……うん、でも……え? 怒ってるんじゃないの?」

美紅ちゃんは私の顔色を窺うように上目遣いで見上げてきた。

やっぱり可愛いな、この子。くっきり二重にぱっちりと大きい目と、色白な肌にぷっくりと赤い唇。下手なアイドルよりも可愛い。

「怒ってないよ。ごめん、地顔がきついから恐く見えるけど、怒ってないから」

へらりと笑って言うと、逆に彼女のほうが恐縮したように肩を縮めた。

なんだか小動物みたいな子だ。

「そんなこと……きつくも恐くもないよ。ただ私が、やましいことがあったから、日下さんに見られて焦っちゃって」

「やましいって……」
「……三島くんのこと、見てたから……」

視線を落としながら申し訳なさそうにつぶやかれた言葉に、いやいや、と答えながら首と手を振る。

「そんな、見るのは美紅ちゃんの自由だし、私が怒るようなことじゃないし」

それ以上、どう言っていいか分からなくなり口をつぐんだ。

『どうぞご自由に見てください』などと言うわけにもいかない。お前は何様のつもりだ、という話だ。別に優海は私の所有物じゃない。

「でも……私、日下さんの彼氏だって知ってるのに、三島くんのこと……」

『す』という言葉が聞こえた気がしたと同時に、私は思わず「ああっ」と叫び声をあげて制止した。

うつむき加減だった美紅ちゃんが驚いたように目をあげる。

「どうしたの?」
「いや、あの……」

苦し紛れに美紅ちゃんの背後を指さして、「猫がいたような……」と漫画みたいなごまかし方をしてしまった。

彼女は「えっ?」と振り向いてきょろきょろと見回す。

「猫? 珍しいね、校内にいるなんて。すぐそこ道路だし、危なくないかな……」

心配そうにつぶやきながら私が指したあたりの植木の間を覗きこむ背中に、申し訳なさがこみあげてくる。

「ごめん……猫も……うそ……」

正直に告白すると、美紅ちゃんは「ええ?」と噴き出しながら振り向いた。

「ふふ、日下さんって面白いね。もっと真面目で話しにくい感じかと……あ、ごめん」
「いや、いいよいいよ全然!」
「ありがと。話しにくいのかなと思ってたけど、冗談とか言うんだね。なんかほっとしちゃった」


そんなことはない。

私は真面目すぎて頭が固いし、気が強くて怒りっぽいし、人当たりのいい態度や笑顔も苦手なので、よく恐いと言われる。

そのうえ今なんて、自分に都合が悪いからうそまでついてしまった。しかも二回も。

それなのに、たちの悪いうそをついた私にも美紅ちゃんは怒ることなく、むしろ笑って「面白い」とか「ほっとした」とか言ってくれたのだ。

予想していた通り、話に聞いていた通り、本当にいい子だ。

そのことにほっとすると同時に、ちくりと胸に痛みが走った。

その痛みを忘れるため、私は最大限の笑みを浮かべる。

「豊原さんこそ、優しいね。怒らないでくれてありがとう」

私がそう言うと、彼女はまた気まずそうに目を逸らした。

「あの……本当に、ごめん。日下さんがいるって分かってるから、告白しようとか……付き合いたいとか、全然思ってないから」

せっかく話題を変えたのに、美紅ちゃんはまた優海の話に戻してしまった。

どんな顔をすればいいか分からなくて、私もうつむく。

「ただ、さっきはたまたま、本当にたまたま、体育館に忘れ物しちゃって取りに行ったら、バスケ部が練習してて、思わず見ちゃって……」

彼女が本当に申し訳なさそうに言うので、私のほうが心苦しくなってしまう。

そりゃあ、とても可愛い女の子が自分の彼氏に密かに好意を寄せていると知ったら、いい気はしないというのが正直なところだ。

彼女には悪気がないと分かっていても、自分のほうが劣っていると自覚があるだけに、焦ってしまった。

それでも、今は。

「あの」

私は顔をあげて、美紅ちゃんをまっすぐに見た。

彼女も同じように見つめ返してくれる。

可愛くて優しくて、素直で誠実な女の子。

何も問題はないじゃないか、と自分に言い聞かせながら、口を開いた。

「優海のこと、好きになってくれてありがとう」

自分で言いながら、やっぱり何様だよとは思う。

それでも私は、彼女に言っておかなければならないのだ。

「あいつ、実はすごくおバカなんだけど、見限らないでね。バカでうるさいけど本当に優しいし、いいやつだから」

だから――と後に続けたかった言葉は、さすがに言えなくて飲み込んだ。

美紅ちゃんは黙って私を見ている。

「どうして、そんなこと……」

ぽつりとこぼれた言葉に、私は笑みで返す。

「ほんとごめんね、偉そうなこと言って。感じ悪いのは分かってるんだけど、どうしても言いたくて」
「………」

彼女はどこか困ったような顔で私を見ている。

当然だ、急にこんなことを言われても意味が分からないし、戸惑いしかないだろう。

「……あのさ、偉そうついでに、もうひとつ言っていい?」
「……え?」

首をかしげた彼女に向かって、最大限の明るい声と笑顔で言った。

「告白とか、したいならしてもいいからね」

美紅ちゃんの顔がまた真っ赤になった。

「え……っ、なんで……」

動揺するのも当然だろう。

彼女からしたら、私は今日初めて話をしただけの、ただの同学年の生徒だ。

でも、申し訳ないけれど私は知っていた。

彼女がツイッターで、誰にともなく、胸のうちを吐き出すようにつぶやいていたこと。

『今日ちょっと話せた』
『かっこよかったー!』
『好きすぎてつらい』
『告白したらすっきりするかな?』
『振ってもらえたら諦めもつくはず』
『でも彼女さんに悪いよね……』

相手が優海だということは、どこにも書かれていなくて、そこに美紅ちゃんの本気度と気遣いが感じられた。

読んでいると彼女の苦しい気持ちが伝わってきて、胸が痛かった。

もしも私が優海と出会っていなかったら。付き合っていなかったら。

彼女が先に彼に出会っていたら。

そしたら、優海と美紅ちゃんが付き合っていたかもしれないのに。

私が先だったせいで、こんなことに。

そう思えてきて、やるせなくなった。

前の私は、全くこんな考え方はしなかったんだけれど。

「だって、ほら、彼女がいたら告白しちゃいけないなんて法律はないし」

美紅ちゃんが頬を赤く染めたまま怪訝な表情を浮かべる。

私は気持ちが変わらないうちに、と思って一気にまくしたてた。

「もし美紅ちゃんが優海のことを本気で好きでいてくれて、告白したいと思ってるんなら、私に遠慮してやめるとかはしなくていいから。それにほら、分かんないじゃん、優海は美紅ちゃんに告白されたら私と別れて美紅ちゃんを選ぶかもしれない」

「そんな……そんなはずないよ。だって、二人すごく仲良しじゃない」

美紅ちゃんが戸惑った表情で私に近づいてくる。

「そんなことないよ……優海には美紅ちゃんみたいな子のほうがお似合いだもん」

「ええー……」

彼女は途方に暮れたように声をもらした。

「それに……」

本当は言うつもりはなかったことだけれど、こらえきれなくなって、その言葉が口からこぼれ落ちてしまった。

「私と優海は、別れる、かもしれないから……」

え、と彼女が目を見張った。

どういうこと? とかすれた声で訊ねられたけれど、聞こえなかったふりをする。

「だから、美紅ちゃんは、告白したいと思ってるなら告白したほうがいいよ」

じっと見つめていると、美紅ちゃんの顔が苦しそうに歪みはじめた。

申し訳なくなって、今度は謝らずにはいられなくなった。

「ごめんね……無神経なこと言ってるって、嫌な気持ちにさせてるって、分かってる。ごめん……」

声が震えてきた。

慌てて自分を叱咤激励する。

「私、ほんとに自己中で勝手なんだ。美紅ちゃんのこと困らせてるし不愉快にさせてると思うけど、そういうやつだと思って呆れといて、ね」

美紅ちゃんは何も答えない。

眉根を寄せたままじっと私を見ている。

それから、そっと私の肩に手を置いた。

「大丈夫……?」

気遣わしげに、優しい優しい声をかけられる。

一気に胸が苦しくなった。

「なんか変だよ、いつもの日下さんと全然ちがう……三島くんと何かあったの?」

あ、やばい、泣きそう、と思ったときには、涙で視界が滲みはじめていた。

これはだめだ。

こんな姿を見せたら、優しい彼女はきっと何もできなくなってしまう。

そう思った途端、気がついたら私は叫んでいた。

「――いやなの!」

唐突に大声をあげた私に驚くように、美紅ちゃんが目を見開く。