でも、優海はあっけらかんと笑った。
『そんなことないよ。神様はいるよ』
私は肩をすくめて、いるわけないじゃん、と言った。
『それか、もし本当に神様がいるとしたら、めちゃくちゃ性格悪いやつだよ。人間を苦しめることに楽しみを見出だすようなヤバいタイプのやつだよ、きっと。信じるに値しないようなやつだよ』
断言した私に優海は『ほんと凪沙は毒舌だなあ』と言って、おかしそうに笑った。
何度も繰り返しているやりとりだった。
でもその日はふと不思議に思って、訊ねてみた。
『ねえ、どうして優海は神様を信じられるの』
優海はきょとんと目を見開いてから、当然のことのように答えた。
『信じる者は救われるって、父ちゃんが言ってたから。悪いことも起こるかもしれないけど、信じてたらきっといつかはいいことがあるから、くさっちゃだめだって。だから、俺は神様を信じる』
きっぱりとした答えだった。
そのときの一点の曇りもない笑顔を、私は今も忘れられない。
目頭が熱くなってきた。
ねえ、神様、と神棚に向かって心の中で語りかける。
神様なんかいないって思ってたけど、今なら、いるって信じてあげてもいい。
だから、証明してよ。
神様はちゃんと人を幸せにできるって。
神様を信じる人は救ってあげられるって。
優海はあなたのことをずっとずっと信じてるんだよ。
どんなひどい目に遭ったって、信じてきたんだよ。
だから、もうこれ以上、優海にひどいことしないで。
優海の大切なものを奪うのは、これで終わりにして。
優海を幸せにしてあげてよ。
お願いだから。
涙を流しながら、私は生まれて初めて、本気で神様に祈った。
*
優海の家を出て自分の家に戻る途中、海沿いの道を歩いているとき、なんとなくまっすぐ帰る気になれなくて、港のほうに行ってみた。
堤防を歩いていると、釣りをしている人が何人かいた。
私は釣りの趣味はないのでよく分からないけれど、このあたりではよく魚が釣れるらしく、夜や早朝には釣竿を持った人たちがどこからか集まってくる。
けっこう有名な釣り場としてインターネットなどでも紹介されているようで、わざわざ車に乗って遠方から来る人も多いらしい。
堤防の真ん中あたりにある外灯の根元に腰かけて海を見ていると、波立っていた心が少しずつ凪いできた。
今日の海は穏やかだ。
小さな漁船がいくつか、さざ波を立てながら沖を行く。
海鳥が空を切るように飛び、ときおり海面に飛び込んで、嘴に魚をくわえて飛び出してくる。
遠くの水平線あたりには、大きなタンカーが浮かんでいる。
止まっているように見えるけれど、近くで見たら本当はすごいスピードで進んでいるのだろう。
私たちの時間と同じように。
視線をあげて、入道雲の湧きあがる空をぼんやりと眺めていると、背後からばたばたと足音が聞こえてきた。
それから、きゃっきゃと楽しそうな笑い声。
振り向くと、幼稚園と小学生くらいの男の子が二人、追いかけっこをしながらこちらへ向かってきていた。
たぶん兄弟だろう。年の差はちょうど優海と広海くんくらいか。
二人は堤防の縁ぎりぎりを、足元も見ずに駆けていく。
その危うさに、ぞっと背筋が寒くなる。
親はどこにいるのだろうかと首を巡らせると、父親らしき人物がずいぶん離れたところで釣糸を垂らしていた。
こちらは見ていない。
子どもの海遊びの危険さを認識していないらしいその姿を見て、かっと身体が熱くなる。
今までにも、釣り人が連れてきた幼い子どもが海辺で危険な遊びをしているのを何度も見てきた。
そのたびに危ないなあとは思っていたけれど、だからといって見知らぬ子どもに危ないよと声をかけるのも、親に気をつけるように言うのも、なかなか難しい。
でも、『前』に彼らが走り回るのを見たときに、勇気を出して声をかけておけばよかった。
そうしたら、こんなことにはならなかっただろうに……。
そんな、どうしようもないことを考えていたら、また気分が落ち込んできた。
一度目を閉じて、ゆっくりと瞼をあげる。
広い広い海。
高い高い空。
美しい景色だ。
ふうっと大きく息を吐いて、両頬を思いきり叩いて気合いを入れる。
こんなところでぼんやりしていたって始まらない。
どうにもならないことはたくさんあるけれど、どうにかできることも確かにあるのだ。
さあ行こう、と自分を励まして、私は立ち上がった。
*
机の上に置いた一枚の紙の前で、私は頬杖をつきながらペンをもてあそんでいた。
朝のホームルームで配付された、進路希望調査のプリントだ。
希望大学、希望学部・学科。将来なりたい職業。
前はなんて書いたっけ。
覚えていない。
自分で書いた自分の進路希望を覚えていないなんて。
つまり、その程度の希望だったということだ。
仕方なく、教室の前の棚に置かれている大学一覧の本をもってきて、適当な大学のそれらしい学部を選んで記入した。
でも、なりたい職業の欄は、見ているとなんとも言えない気持ちになって、とりあえずは空欄のままにしておくことにした。
そして、昼休み。
私は席を立って移動して、真梨の席に行き、向かい合ってお弁当を開く。
隣の机には優海と黒田くん。
いつものメンバーだ。
「凪沙、進路希望のやつ、もう書いた?」
真梨に問われて、ケースから箸を出しながら答える。
「あー、うん。まあ、だいたい、適当に。職業のとこはまだ書けてない」
「私もー。職業とか言われてもまだ分かんないよね」
すると、横で会話を聞いていたらしい黒田くんがこちらを見て話しかけてきた。
「なんか意外だな。日下さんなら大学とか職業とかもうばっちり決めてるのかと思ってた」
「いやあ……全然。早く決めなきゃいけないとは思ってるんだけどね、ぴんとこないというか」
すると、コンビニの袋からおにぎりを取り出しながら優海が口をはさんできた。
「進路とかさあ、焦らなくていいんだよ。まだ俺たち一年なんだし」
パッケージを開け、海苔をぱりぱり鳴らしながらおにぎりを取り出す。
いつもの動作をしながらも、優海の表情はいつになく真顔だった。
「凪沙は凪沙のスペースで考えればいいじゃん」
一瞬、彼が何を言っているのか分からなくて、私は動きを止めた。スペース……空間? 宇宙?
真梨と黒田くんも首をひねっている。
それからすぐに『ペース』を『スペース』と言い間違えたのだと気がついて、私は思わず噴き出した。
「それを言うならペース、でしょ」
「あっ、そうか!」
優海が照れくさそうに頭をかくのを、黒田くんが「せっかくいいこと言ったのに、決まらねえなー」とからかう。
真梨もおかしそうに笑って、
「三島くんて横文字苦手だよね。この前のインフレ事件も笑ったなー」
「あー、あれな。教室じゅう爆笑だったもんな」
インフレ事件とは、先週の政経の授業で起こったことだ。
『ある程度の期間、継続的に物価が上昇し続ける現象をなんと言う?』という質問で優海が指名された。
でも彼は全く答えが分からなくて、『最初の三文字だけ教えて先生!』と懇願したところ、先生が『インフ……』と教えてくれた。
そこで優海はぱっと顔を輝かせて、『インフルエンザ!』と堂々と言ってのけたのだ。
先生がインフ、と言った時点で、インフルエンザとか言うなよ優海……と念を送っていた私は、予想通りの結果にうなだれてしまった。
今でもあのときの優海の解答は、クラスのみんなのかっこうのネタになっている。
「あー、あれなー。みんなめちゃくちゃ笑うから恥ずかしかったな。で、正解はなんだったっけ?」
呆れ返った私は弁当箱のふたで優海の頭をぱこんと叩く。
「インフレーション! もう、いいかげん覚えなよ。期末テストの範囲だからね? 分かってる?」
「うひー、そうだった、テスト! がんばらないとなー」
口ではそう言いつつも、そのへらへらした表情には全く危機感がない。
これは本腰を入れて鍛えないと。ここは、心を鬼にして。
「その締まりのない顔はなんだ!? 気合いが足りない! ふざけんのもたいがいにしろよ!」
思いっきり眉根を寄せて、できる限りの厳しい口調で言ってやると、
「わー、凪沙がこわい~」
と優海が口をへの字にした。
真梨と黒田くんがおかしそうに笑っている。
私は肩の力を抜いて、
「優海のことはもういいや。ねえ、真梨と黒田くんは進路希望書けた?」
ひでー、と嘆いている優海をよそに、二人に訊ねる。
「俺は体育の先生になりたいから、教育学部の体育科」
黒田くんが即答した。
「わあ、さすがだねえ、しっかりしてるー」
真梨は黒田くんに向かってぱちぱちと手を叩いた。
黒田くんが「なれるか分かんないけどさ」照れくさそうに笑う。
次に真梨が「私はねえ」と微笑みながら口を開いた。
「まだ全然決まってないけど、なんとなく美容のお仕事楽しそうだなって思ってて、そういう系の専門学校調べて書いといた」
「わー、いいじゃんいいじゃん、似合いそう」
こくこくと頷きながら言うと、真梨はありがとうと笑った。
中学のころから真梨はいつも可愛い髪形をしていたし、休みの日には化粧もネイルも綺麗にしているし、美容師でもネイリストでも向いていそうだ。
当たり前だけれど、みんなそれぞれに色んな夢がある。
夢の形は人それぞれなのだ。
でも、私の夢は――。
そんな考えに沈んだ瞬間、「凪沙ー」と泣きそうな声が聞こえてきた。
顔をあげると、優海が情けない表情でこちらを見ている。
「なんで俺には聞いてくれないんだよー」
「あー、ごめん、忘れてた」
「ひどっ!」
黒田くんが笑いながら「優海はなんて書いたん?」と訊ねる。
「おっ、見たい見たい?」
「どうせ仮面ライダーになりたいとか書いてるんでしょ」
「ひどいよ凪沙ー、俺もうガキじゃないんだからさ~」
「あ、そっか、仮面ライダーは小学校のときだね。中学のときはスパイダーマンって言ってたか」
「さすが優海だなー」
「あはは、三島くんてほんとおもしろいね」
「さてさて、仮面ライダースパイダーマンと来て、優海くんは高校ではなんて書いたのかな~?」
にやにやしながら言うと、優海は『えっへん』と効果音のつきそうな顔をして、一枚の紙をみんなの前で広げた。
「じゃじゃーん。見よ、これが俺の夢だ!」
彼の進路希望票を受け取り、なりたい職業の欄を見ると、『書き切れないから裏に書きました!』とある。
いったい何をそんなに書いたのか、と首をひねりながらプリントを裏返すと、優海にしては細かい字で、上から下までぎっしりと何かが書かれていた。
「なにこれ」と笑いながらも視線を落として、目に入ってきた文字にどきりとした。
『卒業したら就職する。かせげる仕事! 凪沙は賢いからたぶん大学にいくから、俺はその間にがんばって働いて金ためる! 百万くらいたまったらプロポーズ!! ……少ない? 三百万くらいあったほうがいいかな?』
そこには、純粋に私との将来の夢を描く優海の言葉があった。
『あっ、でも、凪沙は真面目だから学生結婚とかいやがりそうだな。凪沙が大学卒業して就職決まってからにしよう。あ、仕事に慣れてからのほうがいいかな? まあそれは凪沙の様子見ながら決める』
優海はいつも私のことを最優先に考えてくれる。
それは昔からちっとも変わらない。
『結婚したらあったかい家庭を築く! 子どもはたくさん欲しいけど、何人も産むのは凪沙が大変かな~。でも二人か三人はいるといいな。兄弟がいないとさみしいから。俺が産んでやれたらいいけど無理だし、俺が全力で支えて応援するから、がんばってもらえるかな?』
優海の家族写真が目に浮かんだ。
面倒見のいい優海は、いつも弟の広海くんと遊んであげていた。
兄弟がいないとさみしい、という言葉が私の胸に突き刺さった。
『家は大きくなくてもいい。広すぎる家はさみしいし、狭いほうがいつも凪沙の近くにいれるからいい。そんで犬と猫を飼う。凪沙は猫派で俺は犬派だから、どっちも飼う! 世話が大変かもしれんけどがんばる。大家族でにぎやかで楽しい家にするんだ!』
ふ、と唇から息が洩れた。
「どうどう? 完璧な人生設計だろ?」
優海が自慢げに私の顔を覗きこんできた。
きらきらと輝く瞳は、希望に満ちていた。
私はひとつ呼吸をしてから、
「ぜんっぜん完璧じゃないし!」
と紙を突き返した。
「ええーっ、なんでなんで、何が足りない?」
「いやいや、何が足りないっていうか、いちばん大事なこと書いてないじゃん。進路希望の調査なんだから、なんの仕事に就きたいかがいちばん大事でしょ。なのに、『かせげる仕事!』とかなんの具体性もないし間抜け!」