「……こんな話、よく信じる気になったね」
ぽつりと言うと、優海は不思議そうに首をかしげた。
「当たり前じゃん。凪沙の言うことなら何でも信じるって言っただろ」
私はふっと笑って彼の頬をむにっとつねる。
「優海は私のだけじゃなくて誰の話でも信じるじゃん。前も言ったけどさあ、そんなんじゃいつか悪いやつに騙されちゃうよ?」
「いいよ。そのときは凪沙が助けてくれるだろ」
「……ったく、他力本願だなあ」
「そのときのためにも、凪沙がいなくなったら困るから。明後日は全力で助けるからな!」
私は「バーカ」と笑ってうつむいた。
『俺が凪沙を助ける』。
その言葉がどれほど嬉しかったか、優海には分かるだろうか。
私の話を聞いたら、彼ならそう言うかもしれないと、予想はしてしたけれど、実際に迷いなく真剣に言ってくれるのを聞いたら、震えがくるほど嬉しかった。
優海が言うと、本当に助かってしまう気がするから不思議だ。
それは優海が、本当にまっさらな気持ちで私を助けると言ってくれていて、心の底から私が助かると信じきっているからなんだろう。
彼の言葉を聞いていると、その温もりに包まれていると、私がもうすぐ死んでしまうなんて、やっぱり悪い夢にしか思えなくなってくる。
「凪沙がいなくなったら困る。生きていけない。だって凪沙は、俺のかたわれだから」
優海の指が、私の胸許の桜貝にそっと触れた。
「だって、約束しただろ? 俺と凪沙は、貝殻のかたわれみたいに唯一の存在だから、絶対に離れないって。一生一緒にいようって」
桜貝の約束。
将来お互いの身に起こることなんてなんにも知らなかった、幼くて純粋だった私たちが見つけた幸せの貝殻。
それを迷いなく私にあげると言った優海に、私はその半分を渡した。
一緒に幸せになればいいでしょ、と言って。
優海が鳥浦に戻ってきて、好きだと告白されて、付き合うことになった。
そのとき、この砂浜でお互いの貝殻を交換して、『一緒に幸せになるために、永遠に一緒にいよう』と誓った。
「あの約束を守るために、俺は凪沙を絶対助ける。だから、これからもずっと一緒にいてよ……凪沙」
うん、と小さく頷いて、私はまた海へと目を向けた。
今日の命を終えようとしている太陽は、最後にありったけの輝きを放つかように真っ赤に燃えている。
その光を受けて、海も空も雲も砂も、世界の全てが目も眩みそうなほど鮮やかなオレンジ色に染まっていた。
頭をずらして、優海の胸に耳を寄せる。
優海の鼓動が、私の鼓膜を優しく揺らした。
こうやって彼の胸の音を聞くのが私は昔から大好きだった。
温かくて、優しくて、安心して、泣きたいくらい幸せだ。
私は目を閉じて、心の中で優海に語りかける。
絶対に彼には聞こえないからこそ言える、たくさんの想い。
涙に滲む目で夕陽を見つめながら、その中のいちばん大事なことだけを、言葉にして彼に伝える。
「ごめんね、ありがと。優海、大好き」
*
「ただいまー。遅くなっちゃった」
家に帰って、居間でテレビを見ていたおばあちゃんに声をかけた。
「おかえり、なぎちゃん。優海くんと出かけとったんでしょう」
「うん。帰りに寄り道して遅くなっちゃった、ごめんね」
「いいよお、そんなん。楽しかったね?」
「うん!」
おばあちゃんは「そうね」と嬉しそうに笑った。
「さて、晩ご飯の準備しようかね」
「あ、私も手伝うよー。着替えてくるからちょっと待ってて」
部屋に戻って荷物を置き、部屋着に着替えて台所に入ると、おばあちゃんと並んで晩ご飯を作った。
あの日目を覚ましてから、おばあちゃんと暮らせる時間も限られていることを知って、できる限り手伝いをして時間を共に過ごすようにしたので、料理にもずいぶん慣れてきた。
皿に盛りつけ、今の食卓に運び、向かい合って「いただきます」と手を合わせる。
「んー、おいしい! おばあちゃんの料理、ほんと美味しいよね」
「あらまあ、ありがとね」
「私のほうこそ、いつもご飯もお弁当も作ってくれてありがとう」
一度目の夏では、まさかおばあちゃんとこんなに早く別れることになるとは思っていなくて、日頃の感謝を伝えることもできていなかった。
だから、二度目の夏は、『ありがとう』をできるだけたくさん言うようにしていた。
「なぎちゃんも大人になったねえ」
おばあちゃんが味噌汁をすすりながらしみじみと言った。
「この間まで幼稚園だったような気がするのに、あっという間だねえ。きっと気がついたら成人式なんだろうねえ……」
少し寂しそうに言うおばあちゃんに、私は「まだまだ先だよ」と笑って答えた。
「でも、本当におばあちゃんには感謝してるよ。いきなり連れてこられて、しかもお母さんはいなくなっちゃって、それなのにここまで育ててもらえて、本当に私は幸運だったなって思う」
「そんなの当たり前よお、可愛い孫なんだから」
「ううん、本当におばあちゃんはすごいなって思う。今までありがとね」
これからもよろしく、と付け加えると、おばあちゃんは「もちろんだよ」と笑った。
こんなに喜んでくれるのなら、これまでもいくらでも機会はあったんだから、たくさんたくさん『ありがとう』を伝えておけばよかったな、と思った。
食事の後片付けを終えて、部屋に戻る前、私はおばあちゃんの前に正座して口を開いた。
「あのね、おばあちゃん。お願いがあるんだけど……」
*
町のみんなが寝静まり、鳥浦が闇と沈黙に沈むころ、私は部屋で龍神祭の提灯と向き合っていた。
本番はもう明後日、今夜には絵付けを終わらせなければいけない。
中学のとき使っていた絵の具入れを持ち出してきて、パレットに青の絵の具を絞り出す。
それから水を含ませた筆で、提灯の和紙に色をのせていく。
描くものは決まっていた。
海の絵だ。
コバルトブルーの海、白い波、水色の空、白い雲。
いつも私を見守ってくれていた、穏やかで優しい海。
それから、ピンク色の絵の具を筆にとって、桜貝の絵を描き、さらに文字を書き加えた。
これで完成だ。
提灯の中に、火を灯した蝋燭を入れて、照明を消す。
真っ暗闇の中で煌々と光を放つ温かいオレンジ色の灯火。
そして浮かび上がる提灯の絵。
うん、いい感じ、と私はひとり微笑む。
今まででいちばんの出来だった。
*
朝食を終えて、おばあちゃんに「優海と会ってくるね」と伝えて家を出た。
昨日の別れ際に、優海に待ち合わせの場所と時間を指定されていた。
『作戦を立てよう』
今までに見た彼の表情の中でいちばん真剣な顔つきだった。
『その子が溺れた時間と場所、凪沙が見つけたときのこと、全部きっちり教えて。どうやったら溺れるのを阻止できるか、っていう作戦が大事だろ』
その作戦を練るために、優海の家に来てほしいというのだ。
うちで話をするとおばあちゃんに聞かれてしまうかもしれないから、という彼の気遣いだった。
『あと、もしも溺れちゃったときのために、助けるために必用なものとか揃えとかないと。作戦会議が終わったら、買い出しに行こう』
買い出し、という表現がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
『本当は今日やっときたいけど、タエさんが心配するから、凪沙はとりあえず帰らなきゃな。続きは明日の朝にしよう』
正直、優海がこんなにちゃんとリーダーシップをとれるとは思っていなくて、驚いた。
やるべきこと、必要なものを考えて、それを実行するための道筋を立てることができる。
のほほんとしていると思っていたけれど、本当はすごくしっかりしているのだ。
ずっとひとりで生活してきているのだから、当然かもしれない。
海沿いの道を自転車で走りながら、手首の腕時計をちらりと見て時間を確認した。
優海との待ち合わせ時間まで、あと二十分。
彼の家までは五分とかからないのに、こんなに早く家を出たのには、もちろん理由があった。
もう一度時計を見る。
そろそろだな、と海へ視線を向けた。
堤防の先端のほうで一心に海を見つめながら釣竿を動かしている男性。
その後ろでじゃれあっている幼い兄弟。
彼らは追いかけっこを始め、こちらに向かって走ってきた。
父親は彼らが離れていくことに気がついていない。
せめてライフジャケットを着させていれば。
でも、それは今さら思っても仕方のないことだ。
さあ、と心の中で自分に掛け声をかけた。
目を閉じて、胸許の桜貝を握りしめる。
深く息を吐いてから、ゆっくりと瞼をあけた。
自転車を放り出して防波堤の階段を降り、船着き場を駆け抜ける。
堤防に向かって一直線に走る。
男の子がつまづき、弟に追い付かれそうになって、体勢が整わないまま慌てて方向転換する。
勢い余ってよろけて、足を踏み外し、堤防から落下する。
私は驚いて泣き出した弟の側まで必死に走り、そのまま海の中へと飛び込んだ。
一瞬にして世界が青くなり、水に包まれる。
必死に目を開いて、首を巡らせて男の子の姿を探しだした。
すでに気を失って沈みかけている小さな身体を抱えこみ、腕をつかんで海面へ向かって手足を動かす。
光の網に包まれながら見る海面は、思った以上に遠くて、ちゃんと辿り着けるのか不安に襲われる。
思うように動かない身体に動転し、息が苦しい。
あと少し、あと少しだけがんばれ、私。
ここで失敗したら意味がない。
この子を助けないと意味がない。
足掻いて足掻いて、やっとのことで海面近くまで来た。
その瞬間、男の子のお父さんが飛び込んできた。
引き渡して、ほっと安堵した途端、力が抜けた。
ごぽりと息を吐き出す。
口から出た透明な泡が、海面へ向かってゆっくりと昇っていく。
一気に海水を飲み込んでしまい、肺まで水で満たされるのが分かった。
火がついたように喉や気管が痛くて、気が遠くなっていくのを自覚した。
もうだめだ。
全身を泡に包まれながら、海底へと向かって緩やかに沈んでいく。
意識が遠のいていき、苦しみも和らいできた。
目を閉じて、桜貝を両手に握りしめる。
ねえ、優海、と心の中で呼びかけた。
優海、ごめんね。
嘘だったんだ。
祭の日に死ぬって言ったけど、本当は今日だったんだ。
私が死ぬって言ったら、きっと優海は助けようとするだろうなって、運命を変えようとするだろうなって、思ったから。
ごめんね。
優海が私の言うことは全部信じるって分かってから、それを逆手にとって嘘ついちゃった。
何度も言ったでしょ?
そんなに簡単に信じてたら、いつか悪いやつに騙されちゃうよって。
あれ、私のことだったんだ。
騙してごめんね。
だって、神様に言われたんだ。
運命は変えちゃいけないんだって。
死に直すことはできるけど、死ぬ運命を変えることは許されないんだって。
難しいことは分からないけど、そんな大それたことをしたら、死ぬはずだった私が生きつづけたりしたら、ひずみが生まれて、周りにまで悪影響を及ぼすって。
それがもしも、優海やおばあちゃんや、学校のみんなに及んでしまったら?
そんなの、だめでしょ。
私が生きたせいでみんなに迷惑がかかるなんて、だめでしょ。
もしも優海が私を助けようとしたら、優海が死んじゃうかもしれない。
そんなの耐えられない。
私は十五歳の夏に死ぬ運命だった、それだけのこと。
それなのに、もう一度この夏を生きて、優海と少しでも長く過ごすことができた。
それだけで、私はじゅうぶん。
もうじゅうぶん幸せだ。