海に願いを 風に祈りを そして君に誓いを

海を見ながら歩いていたら、突然、右手が温かくなった。

見ると、いつの間にか優海が隣を歩いている。

優海の手あったかいね、と私が言うと、凪沙のためにあっためといたから、と彼は笑った。

そこで目が覚めた。

外はもう明るかったけれど、私は枕を抱きしめたまましばらく動けなかった。


あれは中学生のとき、優海と再会してから初めて手をつないだときのことだ。

子どものころはよく手をつないで歩いていたけれど、小学生になるとあまりつながなくなっていた。

そして優海がしばらく鳥浦を離れていて、中学で戻ってきて付き合いはじめたとき、数年ぶりに手をつないだのだ。

それは秋の終わりごろのことで、冬が訪れるのが早い海辺の町では、すでに凍えるほどに冷たい風が吹いていた。


まだ付き合いはじめたばかりで、砂浜をふたりで歩いていたときにふいに優海が並んで距離をつめてきて、『手、つないでいい?』と訊ねてきた。

胸が破裂してしまうんじゃないかと思うほどどきどきしていたけれど、平然とした顔で『別にいいけど』とそっけなく答えたのを覚えている。

恥ずかしかったのだ。

優海は寒さのせいで赤く鼻をこすりながら『やった』と笑い、そっと私の右手を握った。

その瞬間、寒さに凍えて冷えきっていた指先が、太陽のような温もりに包まれた。

『優海の手あったかいね』
『凪沙のためにあっためといたから』

優海はポケットに忍ばせていたカイロで手を温めておいたらしかった。

それ以降優海は、これまでの三年間、冬場に手をつなぐときには必ず温めてから私に触れる。

面倒じゃないのと訊ねたら、冷たいとびっくりするだろ、と笑って答えた。

「……っ」

思い出したら、涙が溢れ出して止まらなくなった。

優しい優海。

私は彼から優しさしか受けたことがない。

彼と出会ってから、優しくされたことしかない。

彼といるときに、つらくなったことも、悲しくなったことも、ケンカしたことも、怒ったことも、泣かされたことも、寂しくなったことも、一度もない。

天の邪鬼で照れ屋で、素直になれなくて、そっけない態度や冷たい言葉をたくさんぶつけてしまう私を、優海はいつも優しくて明るい光で包んでくれた。

優海は私の光、私の太陽だった。

私は優海が大好きだった。

今も大好きだった。

それなのに。

「……なんで一緒にいられないのぉ……?」

こんなにこんなに好きなのに、どうして離れなくちゃいけないんだろう。

どうして一緒にいられないんだろう。

「やっぱり神様なんて大嫌いだ……っ」

私は仰向けに倒れたまま、両手で顔を覆って涙を流しつづけた。





「真梨、おはよう」

教室に入って、席についていた真梨に声をかけると、彼女は挨拶もそこそこに言った。

「おはよ、ねえ、聞いた?」
「へ? なんの話?」
「三島くんと美紅ちゃんのこと」
「……」

私は一瞬言葉につまってしまってから、ぱっと笑みを浮かべた。

「あー、うん。お似合いだよね」

そう答えた瞬間、

「何言ってんの!」

がたんと真梨が立ち上がった。

その音に驚き、周囲の視線が集まる。

真梨は慌てた様子で腰をおろし、私の腕を引いて屈ませると、こそこそと耳打ちしてきた。

「だめだったって」
「……えっ?」

どくんどくんと動悸が激しくなってくる。

頭に血が昇ったような感覚で、ぼうっとして真梨の言葉がうまく耳に入ってこない。

「三島くん、断ったんだって」
「………」
「美紅ちゃんと仲良い子から聞いたの。他に好きな子がいるからごめんって」
「……へえ」

すぐにはそれしか言えなかった。

でも、頭をフル回転させて必死に言葉を捻り出す。

「バカだねえ、あいつも。あんな可愛くて良い子に告られるなんてめったにないよね。人生に一回の奇跡かもしれないのに、断っちゃうとかほんとバカだわー」

私の必死の言葉を、真梨は静かな瞳で受け流した。

「ねえ……凪沙」
「……ん?」
「三島くん、きっとまだ凪沙のことが好きなんだよ。だから断ったんだよ……」

ないない、と笑ったけれど、声も顔もひきつってしまっている気がした。

それでも私は下手な演技をつづける。

「そんなわけないって。だって私、ちょっと人に言えないようなひどい別れ方したからね? 真梨も知ったら引くよ絶対。こいつ性格悪すぎだろって軽蔑するよ」

「しないよ」

真梨はきっぱりと断言した。

「軽蔑なんかしない。私は凪沙の本心分かってるから」
「……本心って……」
「凪沙の三島くんに対する気持ち、分かってるから」

あまりにも確信をもって言われて、何も言い返せなくなってしまう。

私は唇を噛んでうつ向いた。

沈黙が流れる。

「……それだけ」

しばらくして急に明るく声色を変えた真梨の言葉に、私は目をあげた。

「私が言いたかったのは、それだけ。あとはもう何も言わない。あとは凪沙が決めることだもんね」
「……決めるって……私は、何も」
「応援してる。がんばってね、凪沙」

私の言葉を遮った真梨の笑顔があまりにも力強くて、私の弱々しい言い訳なんて跡形もなくかき消されてしまったような気がした。




四時間目の体育のために移動していたとき、急に具合が悪くなってきた。

頭が痛くて、身体がだるくて熱くて、心臓が嫌な感じで脈うっている。

しばらくは無理をして歩いていたけれど、だんだん足が重くなってきて、うまく進めなくなってきた。

よろめいて壁にもたれ、息をつく。

最近ずっと食欲がなかったし、ゆうべは夢見が悪かったせいであまり眠れなかったのも良くなかっただろうか。

ちょうど周りに誰もいなくてよかった。

担任の先生に提出物があって遠回りしたのが幸いした。

校舎の日陰に入っている渡り廊下の壁はひんやりと冷たく、火照った身体に心地よかった。

頭がくらくらしてきたので、背中をべったりとつけて、ずるずるとしゃがみこむ。

しばらくじっといていたら良くなるだろう。

でも、早く行かないと授業に遅れてしまう。

体育だから着替えないといけないし、更衣室から体育館までは意外と遠い。

急がなきゃ、立たなきゃ、と思いつつも、これから熱気のこもった体育館で走らないといけないと思うと、乗りきれる気がしなかった。

でも、急に保健室に行ったりしたら迷惑がかかるし心配される。

なんとかして頑張らなきゃ、と思うのに、どうしても身体が動かない。

立てた膝を両手で抱えて顔を埋めていると、考えたらいけないと思うのに、どうしても優海の顔が浮かんできた。

『断ったんだって』

真梨が耳許にささやいた言葉が、まざまざと甦ってくる。

『きっとまだ凪沙のことが……』

頭を抱えて必死にかき消そうとするけれど、なかなか忘れることができない。

自分の気持ちを直視せざるを得なかった。

優海が美紅ちゃんの告白を断ったと知って、喜んでしまっている自分の気持ちを。

「……だめだって言ってんのに……バカじゃないの、私……」

自分でそう仕向けておいて、失敗したと知って喜ぶなんて、あまりの性格の悪さに自分でも引くくらいだ。

美紅ちゃんに申し訳なさすぎて、どうすればいいか分からない。

それでも、喜んでいる自分がいるのは確かだった。それはどうしても変えられない。

「ほんっと最低だな……」

ふ、と自嘲的な笑みが洩れた。

膝に額を強く押しつけて、唇を噛む。

頭はがんがん鳴っていて、自己嫌悪が込みあげてきて、最悪な気分に襲われていた、そのときだった。

「凪沙」

優しい光が天上から突如降ってきたような気がした。

ゆっくりと顔をあげる。

確かめなくたって、声の主が誰なのかは分かりきっていたけれど。

「……ゆ、う」

かすれた声で呼ぶと、優海はうん、と微笑んだ。

なんでこんなところに、と訊ねようとしたけれど、うまく声にならなかった。

「大丈夫か? 体調悪い?」
「……平気。休憩してただけ」

我ながら下手な言い訳だった。

案の定、優海はちっとも信じていない様子だ。

普段は何も疑わずになんでも無条件に信じてしまうくせに、こういうときばっかり。

そんな不平もうまく言葉にできずにいると、優海の手がそっと私の額に当てられた。

温かい手。

ずっと私のもので、これからも私のものだと思っていた手。

その手を、ぱしんとはねのけた。

優海は一瞬動きを止めたけれど、何事もなかったかのように口を開く。

「熱はなさそうだけど、これから出そうな顔してる」
「……ふ。なにそれ」

思わず笑ったけれど、優海は真剣だった。

「だって凪沙、熱出す前、目の周りが赤くなんじゃん。だから見れば分かるよ」

これだから幼馴染は嫌だ。

私の弱点を全て知っている優海の目をごまかすのは、すごく難しい。

「保健室行こう」
「……やだ」
「なんで」
「ちょっとだるいだけだもん。行ったって追い返されるよ」
「でも凪沙、いっつも具合悪いの無理して悪化させるじゃん。早めに休ませてもらおう、な?」

突然、なんでそんなに優しいのよ、と叫びたくなった。

あんなにひどいことした私に、どうしてそんなに優しくできるの、と詰りたくなった。

どうしてあんたはそんなにバカなの。どうして怒ったり恨んだりしないの。

素直にもほどがある、純粋にもほどがある。

大切なものを奪った神様を、それでも信じている優海。

突然一方的に別れを告げた私に、それでも優しくする優海。

どうしてこの人はこんなに綺麗なんだろう。

こんなに綺麗な心で、こんなに残酷な世界を、本当に生き抜くことができるのだろうか。

いつかとんでもなく酷い目に遭って、もう二度と立ち直れないくらい傷つけられて、ぼろぼろになってしまうんじゃないだろうか。

それでもきっと優海は、今みたいな透明な笑顔を浮かべるんだろう。

でも、そんな思いもそんな顔もさせたくないのだ。

だから、これ以上優海が悲しむことのないように、彼から嫌われることを、彼から離れることを決めたのに。

そんな私の血の滲むような努力を軽々と蹴っ飛ばして、優海はなんでもないように私を追ってきてしまうのだ。