お前が泣く資格なんかないんだよ、という怒鳴り声が聞こえる。声はハッキリ聞こえるのに、一体どうして顔が出てこないんだ。防衛本能で、脳が記憶を消してしまったんだろうか。それくらい、私はあの言葉に傷ついていたんだろうか。

「申し訳ございませんでした」
 あれは、私がまだ小学五年生だった頃だ。突然家に現れた、能面のように無表情なおじさんに、母は玄関先で土下座していた。四角い縁なしメガネの奥にある瞳は、土下座した母を冷たく見下していた。
「あなたの土下座になんの価値もありません。弁護士から電話があると思いますが、よろしくお願いします」
「はい、前田にも伝えておきます」
「ちゃんと言っておいてくださいね、殺人を犯したあなたの旦那に」
 殺人、というワードを言う瞬間、そのおじさんは書類を母に投げつけた。それは、遺書をコピーしたA四サイズの紙だった。ふわりと足元に運ばれてきたそれを見て、私はどこかぼんやりと、父が何をしたのかを理解した。
〝くるしい〟。たった一言そう書かれた紙は、ひとつの命が、自ら絶たれたことを暗示していた。
 そのおじさんは、父が追い詰めてしまった女性社員の旦那だった。
「一生忘れません。加害者の顔も、あなたの顔も、あなたの娘の顔も」
 能面のような顔をした彼と、ばちっと目が合った瞬間、私はその場に凍りついた。
「一生忘れません、一生恨みます。それだけ、伝えにきました」
 母は何も言わずに、床に頭をこすりつけている。パサパサの茶色い髪が、床の上に散らばっている。
 お父さん、一体何をしたの。誰かを殺したの。今、一体どこにいるの。なんでこんな時にいないの。お母さんを助けてよ。
 私の目には、母を土下座させているおじさんが、悪役にしか見えなかった。しかし、次の瞬間、悪役は私たち側なのだと理解した。