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吉木との待ち合わせ場所は、なぜか目黒川だった。桜が見たいと言う彼の要望があったためだ。
日本に戻って来たばかりの彼とは、三ヶ月ぶりに会う。もう会うことに緊張はしなくなったし、特別おしゃれもしていない。
すでに屋台もお店も閉まった時間帯だったので、そんなに混んでいなかった。橋の上で桜を見上げながら彼のことを待っていると、まだ息が少し白いことに気づいた。春だけど、夜はまだ少し肌寒い。街灯に照らされた夜桜が、綺麗な列を作って川の遠くまで咲き誇っている。
その景色に見惚れていると、ふと隣にやって来て、同じように桜を見上げる人がいた。
「久しぶり、元気?」
「はは、普通顔見ながら言うでしょ」
ネイビーのトレンチコートを着た吉木は、少しだけ笑って、改めて私の顔を見てただいまと言ってきた。高校生の時よりぐんと背も伸びて、大人っぽくなった彼は、前よりも確かに取っつきやすくなった。
山での再会から、私たちにはひとつだけ大きく変わったことがある。それは、涙を流してから能力が消えたことだ。
「能力失ってから、生活に支障はない?」
「はは、ないよ。仕事で、この人泣くことあるのかってくらい冷徹な人に会った時は見たくなるけどね」
吉木の質問に笑って答えると、彼も同じように笑った。涙を取り戻したら能力が消えるなんて不思議だ。神様は、私たちにどうしてこんな力を与えたんだろう。その答えはわからないけれど、この力が無ければ吉木と交わる人生を歩んでいなかっただろう。
「詩春が千種の下で働くなんてな。世間狭過ぎ」
あんまりにも彼が隣で安心しきったように笑うので、違う表情を見たくなって私は急な話題を出した。
「そういえば私、宗方君と別れたんだ」
「はあ?」
吉木は軽く噴き出してから、怪訝そうな表情で私を見つめた。宗方君と付き合うと報告した時と同じ顔をしていて、私はそのことに噴き出してしまった。
「おい、笑ってんなよ。理由は」
「友達の関係の方が、お互い幸せなことに気づいたの」
「はあ? なんだよその抽象的な理由」
吉木の眉間のしわがどんどん深くなっていく。やばい、結構本気で怒っている。でもそんな風に言われても、ダメだったのだから仕方ない。
「付き合っても不機嫌になるし、別れても不機嫌になるんだね、吉木は」
「当たり前だろ、真剣なんだよ」
「はは、真剣って何に」
「お前の幸せにだろ」
あまりにも当然のようにそんなことを言ってのけるので、私は思わず固まった。視線に困った私は、桜の花びらが池に落ちていく様子を眺めた。吉木も何も言わずに、私と同じように花びらを見つめる。
私も、口には出さないけれど吉木の幸せを願ってる。こんなに近くにいるのに、お互いの幸せを願ってるだけの私たちの関係は、一体なんだろう。君と出会ってから、随分と長い年月が過ぎた。
ひらひらと、柔らかな花びらが再び落ちてきて、吉木の肩に着地した。それを払いのけようと彼の肩に手を伸ばすと、彼としっかり目が合った。彼があまりにも優しい目をして私を見ていたので、なんだかどうしようもない気持ちになって、ずっと胸にしまっておこうと思っていた言葉が溢れ出しそうになった。
何か言おうとして口を閉じた私を見て、吉木は不思議そうに顔を傾げる。
「おい、なに言おうとしたんだよ」
「なんでもないよ」
「なんでもなくないだろ」
「本当になんでもないってば」
押し問答を繰り返し、それでも口を割らない私に、吉木は呆れたような視線を向ける。もう大人になったはずなのに、彼と話していると子供に戻ってしまうのは何故だ。喉元から出かけた好きという言葉を飲み込むために俯いた。
「お前が本音言ってくれなくなったら、俺いつ伝えたらいいんだよ」
「え、何を……?」
「なあ、いつになったら、お前のこと好きだって伝えていい」
さわさわと桜が揺れる。川に落ちた桜が静かに波紋を作る。隣にいる君は、今どんな顔をしているの。全く予想外の告白に、頭が追いつかない。ノーリアクションのまま固まっていると、バシッと背中を叩かれた。
「サイレントで振るのやめろ」
「だ、だってびっくりさせるからじゃん」
「本当に振られてたのかよ俺」
「ち、違うよ。そうじゃなくて」
そうじゃなくて、私は、そんなことを言ってもらえる日を夢にすら見てもなかったから。吉木のことが好きなのに、両思いになることをイメージしたことがなかったなんて、君は呆れるだろうか。でも、本当にそうなんだ。ただ思うだけでいいのだと、そういう生き方が染み付いてしまっていたから、こんな予定外の展開に戸惑いを隠せない。
「周りに理解されないで傷つくことが、沢山あるよ……私といたら」
「そんなの親とか地元の奴とか親戚だけだろ」
「いやそこが大部分じゃん。根っこじゃん」
「お前そんなのが人生の根っこなのかよ。くだらない根っこだな」
「私は吉木みたいに図太くないんだよ。分かるでしょ」
混乱して、思ったよりも強い口調で当たってしまった。そんな私に、吉木は変わらないトーンで問いかける。
「で、お前の気持ちはどうなの?」
そんなの、山で再会したあの日から答えは出ている。でも、絶対に口にしてはいけない気持ちだと思って生きてきた。
だって、私は君を好きになっていい立場の人間じゃない。
「好きじゃない。友達でいたい」
これが本心だったら良かった。そしたら君の幸せを第三者の視点で願えた。もし君と恋人同士になれたら、私が君を幸せにしなければならない。そんなの、怖くて約束できない。
だって君は、誰よりも幸せになって欲しい人だから。
「好きじゃない。でも幸せになって欲しい。守ってあげたい。吉木がもし悲しい思いをすることがあったら、誰よりも早く駆けつけてあげたい……」
「なにそれ」
「好きじゃ……ないって……言わなきゃなのに」
いよいよ声が震えた瞬間、吉木に引き寄せられ、彼の胸の中に顔を埋める体勢になった。彼にこんな風に抱き寄せられるのは、学生の頃から数えて三回目だ。吉木のにおいや体温が伝わってきて、驚くほど心が落ち着いていく。
私は、この人を幸せにできるだろうか。どんなに辛い時も、悲しい時も、そばにいることしかできそうにないよ。上手な励まし方も、愛の表現も、気の利いた褒め方も知らない。
君が不機嫌な時はきっとすごく不安になるし、私が不機嫌な時は八つ当たりすると思う。いつか、お互いに一緒にいる理由がわからなくなるかもしれない。君を幸せにできないかもしれない。
それでも君は、私の隣を選んでくれるのか。
「駄目だ……大切過ぎて、手にするのが怖い」
「詩春」
「もし、吉木のことを又傷つけることをしてしまったら、私もう二度と一緒にいられな」
「俺がお前を守りたい理由は、お前の弱さを知ってるからだよ」
「なにそれ……」
「あんなに傷つけあったのに、それでも今こうして隣にいることを、素直に自信に変えられないのか」
胸の中で黙り込んでいる私に、吉木ははっきりとした口調で伝えたんだ。
「何があっても守るから、大丈夫だよ」
……最近知ったけれど、大丈夫だよって言葉、君はよく使うんだ。全く根拠のない言葉なのに、魔法みたいな言葉だ。たった三文字の言葉なのに、本当にどうにかなる気がしてくる。
この人と一緒なら、人生のほとんどが大丈夫な気がしてくる。そんな風に信じられるのも、私が君の弱さも知っているからだろうか。弱さを支え合って生きていくことが、強さに変わっていくのだと、君が教えてくれたんだ。
「……一緒にいたい。ずっと」
彼の胸の中でぽつりと呟くと、うん、と彼は優しく頷いた。多分君のいない世界では、私はもう生きていけないから。どんな悲しいことも、辛いことも、苦しいことも、あの過去を乗り越えられた私達なら、きっと大丈夫。そう思える。私はあなたと、生きていきたい。
自分の気持ちを認めたら、するすると優しい気持ちが体の中に流れてきた。不思議だ。吉木の言葉はぶっきらぼうなのに、どうしてこんなにも胸に響くんだろう。
そっと顔を上げて、吉木の顔を見上げる。その瞬間風が吹いて、桜の木から大量の花びらが彼の背後に舞い上がった。ひらひらと舞い降りた一枚の花びらが、あなたの睫毛に止まった。
「はは、なに泣きそうな顔してんだよ」
そのあまりの綺麗さに、胸が締め付けられて、好きも愛してるも越えた言葉が溢れ出た。
「……私も守りたい。吉木を」
そう言ったら、君は泣きそうな顔をして笑ったんだ。吉木が、ありがとうと言って瞼を閉じた瞬間、睫毛に乗っていた桜の花びらがほろりと落ちた。まるで涙を流すかのように、それはゆっくりと足元に降りていく。
その映像が、永遠かのように感じるほど、儚くて切なかった。消えないように、思わず私は君の手を握る。君はそんな私の手を強く握り返して、噛みしめるように呟いたんだ。
「やっと詩春と、手を繋げる」
大切な人がいる。それだけで、世界はこんなにも美しい。
end
最後までお読み頂きありがとうございました。
自分が死んだら悲しむ人がいる。そんな単純なことが彼らの生きる希望になったというシンプルな作品でしたが、なにか感じ取って頂けましたら幸いです。
大切な人がこの世界にいることの美しさに気がつけた二人の物語を、最後まで見届けて頂きありがとうございました。
また気が向いた時にふと読み返して頂けると嬉しいです。ありがとうございました。
春田
クリーム色のカーテンから、朝の光がゆらゆらと透けている。隣の部屋から、微かにピアノの音が漏れている。柔らかな朝日が君の肌や髪の毛を白く光らせて、一瞬この景色に溶け込んで消えてしまいそうに見えた。
まだ新品のソファーは、座ると大きく跳ね返るほど張りがあり、床から天井までぴったりサイズの本棚は、何もないこの部屋で一番の存在感を放っている。
所在なさげに皮のソファに座った私を、吉木は真顔でじっと見つめて言い放った。
「借りてきた猫みたいだな」
「そりゃ落ち着かないでしょ」
「まあ、人の家って落ち着かないよな」
黒Tシャツにパンツスタイルというラフな格好の吉木は、窓を開けて空気を入れ替えた。直線的な光が私の瞳を刺し、新築独特のツンとした香りが鼻腔を擽ぐる。
日当たり抜群、と吉木は嬉しそうに呟いたが、眩しいので早く閉めて欲しい。
「引っ越しの手伝い、ありがとな。助かった」
「お礼は高級寿司でいいから、気を遣わないで」
「はは、食いもんかよ。分かった」
吉木が、暫くは日本で暮らすことになり、新しいマンションを借りた。今日は引っ越し当日で、夜通しで彼の荷解きを手伝っていたのだ。それで、この眩しすぎる朝日を浴びているという状況なのであって、徹夜でぼんやりとした頭にこの光は刺激が強過ぎる。
「明日からゴールデンウィークで良かったー」
ばたんとソファに寝転がった私に、吉木が乱暴にタオルケットを投げた。付き合ってから初めて彼の家に来たけれど、緊張感なんてまったく抱く暇もないまま、今に至る。
私が手伝わないと、吉木が生活感のない箱みたいな部屋で暮らすことは目に見えていたので、かなり真剣に手伝った。これは時給三千円もらってもいいくらいだ。
そんなことを考えて寝そべっていると、吉木がソファの前にあったクッションに腰を下ろした。
ソファに寝そべっている私の目線ちょうどに、座っている彼の後頭部がある。真っ黒でサラサラな髪の毛が、目と鼻の先にあるので、私は思わずそれに触れてしまった。
「なんだよ」
「吉木が、いるんだなと思って」
「当たり前だろ、ここは俺の家だ」
「顔疲れてるね」
「お前もな」
吉木はソファに肘を乗せこちらに振り返ると、私の顔をじっと見つめた。背の高い吉木と、こんな風に同じ高さで目線を合わせることなんて滅多にないから、一瞬ドキッとした。
綺麗に通った鼻筋や、透けるように美しい白い肌や、鋭く攻撃的な瞳が、今すべて手に届く範囲にある。ずっと遠かった吉木が、今目の前にいる。その事実がなんだか信じられなくて、頭の中がぼんやりとしてきた。
「詩春」
そう私の名を呼んで、彼が顔を近づけてきた。彼が私の名前を呼ぶのは気まぐれで、不意打ちに囁かれるとドキッとしてしまうことがある。
空気を感じ取って、吉木と同じように静かに目を閉じ、唇が触れようとしたとき、インターフォンが大きく鳴った。
吉木は何事もなかったかのように、私から離れてすっと立ち上がった。
宅配便を受け取りに行った彼の足跡を聞きながら、私は心臓あたりを手で押さえて、強く目を閉じた。
びっくりした。吉木の行動は、いつも突拍子がないから。
想いを伝えあってから一ヶ月が過ぎたけれど、私達は忙しさに流されてこうしてゆっくりする時間を取れなかった。やっと会えたのが今日なのだが、吉木と付き合っているという感覚がまだ現実的になっていない。
吉木が荷物を受け取って、こちらに近づいてくるのが分かる。
「昼適当に買ってくるけど、何か食いたいのある?」
「うーん、唐揚げとビール」
「了解、待ってろ」
そう言って、彼は財布だけ持って家を出て行った。一人暮らしには広すぎる部屋にぽつんと一人になった私は、不思議と体の力が緩んで、少しは彼と二人きりの空間に緊張していたのだと分かった。
朝日は眩しいけれど、徹夜明けのせいで、緊張がほぐれた瞬間どっと眠気が襲ってきた。
目を再び閉じると、隣の部屋から聴こえるピアノの音色がどんどん鮮明になってくる。なんという曲なのかは分からないが、嫌いじゃないメロディだ。その音色に吸い込まれるかのように、私はそのまま眠りについてしまった。