神様の隣で、君が笑った。

 

「……帰るか」


今日も青い空がゆっくりとオレンジ色を帯びて、長い一日の終わりを告げようとしていた。

カーテンを開けた朝陽は鞄を手に持ち、当たり前のように私に向かって手を差し出す。

大きな手。

子供の頃は私の手と変わらなかったのに、いつの間にか追いつけないほどの差が、ついてしまった。


「……っ」

「……菜乃花?」


目の前の朝陽が、眉根を寄せて私を見ている。

私は朝陽の手を掴もうと手を伸ばして──
一瞬、重ねることを躊躇した。

頭の中で木霊するのは、昼間聞いた陸斗くんの言葉だ。


『っていうか、ズルはやめましょうとか小学生で習うことだろ?』


──私は、自分がADHDであることを理由に、朝陽のことを縛り付けている。

朝陽の優しさを利用して、朝陽が私から離れられないようにしているのだ。

 
 

「菜乃花、どうした?」


心配そうに声を零して、朝陽が私の顔を覗きこんだ。

……ズルは、やめましょう。そんなの、小学生でも知っていること。

私だって、知ってることだ。ズルはもう、やめなきゃいけないんだって。

早く朝陽を解放してあげなきゃいけないと、昼間聞いた陸斗くんの言葉に攻め立てられているような気持ちになって──冷や汗が、背中を伝った。


「……菜乃花」

「……っ」

「菜乃花、こっち見て」


優しくて。木漏れ日のような声が私を呼んだ。

ゆっくりと俯いていた顔を上げると、見慣れた朝陽の笑顔があって、それだけで泣きたくなる。

 
 

「あさ、ひ……」

「一緒に、帰ろう」


固まっていた私の手を、朝陽の大きな手がそっと、掴んだ。

視界の端では、アイボリーのカーテンが初夏の風に吹かれて、ゆらゆらと揺れている。

大きなグランドピアノと、古めかしい音楽室。

世界から切り離された、二人だけの小さな世界。

繋がれた手は、今日もとても温かい。

私は必死に瞬きを繰り返して涙を払うと、繋がれた手に力を込めた。

 
 


 *
 ・
 ゜
 +
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 There is strong shadow where there is much light.
 光が多いところでは、影も強くなる。

 /Johann Wolfgang von Goethe (ゲーテ)

 

 



「商業科と合同の課外活動も、あと少しで終わりかぁ」


制服が、夏服に変わったある日。

校内清掃に勤しむ私と朝陽の後ろで、リュージくんが箒の柄の先に顎を乗せ、残念そうに溜め息を吐いた。

リュージくんの言う課外活動とは、この学校で行われている特別授業のことだ。

特進科、普通科、商業科が合同で行う唯一の授業で、生徒はいくつかある課外活動のうち、ひとつを選択し、約二ヶ月半それぞれの目的に合わせて活動をする。

私と朝陽、そしてリュージくんは高校一年生のときと同じく校内清掃を選び、週に数回ある授業で顔を合わせていた。

朝陽とリュージくんが通う特進科があるのは第一棟。私が通う商業科があるのは第三棟だから、普段は滅多に会うことができない。

だから、私にとっては本当に貴重で大切な時間なのだけれど……。

 
 

「なんで特進科だけ、後半は別の授業に変わるんだよ―」


リュージくんの言うとおり、それもあと数回で終わりかと思うと、仕方がないことだとわかっていても、寂しい。

進学クラスである特進科だけは、後半から特進科独自の授業に切り替わり、生徒たちは合同授業から抜けるのだ。

昨年も途中から朝陽とリュージくんがいなくなって、後半の課外活動中、とても寂しかった。


「なのちゃんだって、俺たちと一緒にいたいよな!?」

「それは……うん、そうだけど、でも……」


特進科の特別授業も大事だろうから、仕方がないことだとも思ってる。


「なのちゃんだけじゃなく、朝陽と仲良く校内清掃するのも楽しいのに!」

「無理。俺は全然楽しくないし」

「またまたぁ。朝陽くんってば、ほんと、ツンデレなんだから!」

「……ウザい」

「アハハ」


思わず声を零して笑ってしまった。

特進科の二人と会えるのは、基本的に朝の登校時間と放課後の下校時間だけ。

今のように昼間の授業中にも会えたらとても嬉しいけれど、そんなことは無理なのだとわかっている。

 
 


「おー、山田、榎里(えのさと)……あと、月嶋。三人、ちょうど良いところにいた」


ぼんやりと、朝陽とリュージくんのやり取りを眺めていたら、不意に背後から声を掛けられた。

振り向くと校内清掃の担当の先生がいて、思わず首を傾げてしまう。


「ちーっす。先生、俺らに何か用っすか?」


いち早く反応したのは、榎里……と呼ばれた、リュージくんだ。


「おお。お前ら、三人で第三音楽室の掃除、やってきてくれないか? あそこは最後に廻そうかと思ってたんだが、後々取っておくと逆に忘れそうだからなぁ」


──第三音楽室。

そこは、第三棟にある音楽室で、私と朝陽が放課後の待ち合わせ場所に使うあの場所だ。

私が好んで足を運ぶ場所であり、毎回、朝陽が呆れながら私を迎えに来てくれる場所のこと。


「それじゃあ、よろしくなぁ。そんな広い教室じゃないから、三人いれば十分だろ」


簡単な指示を残して、先生は別の子たちが清掃している輪の中へと消えていった。

 
 

……第三音楽室。

放課後以外に、朝陽と一緒に行くのは初めてだ。

もちろん今日は二人きりではなくて、リュージくんも一緒だけれど──。


「よっしゃ! じゃあ、パパッと終わらせに行くか!」

「……っ」


元気の良いリュージくんが、私と朝陽の背中をバンッ!と叩いた。

反射的に背筋を伸ばすと、隣に立っていた朝陽がリュージくんに向かって「馬鹿力でやめろ!」と声を上げる。


「悪い悪い! まぁ、とにかく行こうぜ!」


リュージくんの手には、モップが二つと大きなバケツが一つ、握られていた。

私の右手には雑巾。

朝陽の手にはモップが一つと、空いているもう片方の手は、真っ直ぐに私へと伸ばされて──。


「……菜乃花、行こう」


柔らかな笑顔と同時に握られた手に、心臓が甘く高鳴った。

ざわざわと不穏に揺れる心と、窓の外で風に揺れる木々。


「……うん」


私は温かい手をそっと握り返すと、一度だけ小さく、頷いた。

 
 

 * *


「おー、やっぱ、第三棟って何度来てもボロいなぁ」


第三棟に入るなり、そんなことを言ったリュージくんは熊のように大きな身体を揺らして、ズンズンと廊下を進んでいく。

私と朝陽はまるで親熊に連れられた小熊のように彼の後ろをついて歩き、高校生にしては大き過ぎる背中を感心しながら見つめていた。


「マジで、ボロすぎて壁にヒビとか入ってるし!」


リュージくんの言う通り、商業科が使っている第三棟の建物は、とても古い。

数年前に建て替えがされた特進科の第一棟、普通科の第二棟と比べると──というか、比べものにならないくらいボロボロなのだ。