お風呂は少し熱めの43℃だったけど、冷えた身体をお湯につけると一気に肌の硬さが和らいだ。
「はあ……気持ちいい」
自然とそんな言葉が出てきた自分にビックリしたけど、あのまま東京にいたらこんな気持ちにはなってなかったから、おばあちゃんには迷惑をかけてしまうけど北海道に来て良かったのかもしれない。
ちゃぽん……と天井から落ちた水滴が頬に当たる。それを冷静に眺められるぐらい私は落ち着いてる。
だけど、ひとつだけ。
――『久しぶりに誰かと話せて楽しかった。またね』
俚斗のあの言葉。それだけが何故か頭から離れない。
吉沢俚斗。本当に独特の空気を持っていて、その余韻が今も続いてる気がする。
私も久しぶりにこんなに喋った。
初めてひとりで飛行機に乗って、久しぶりにおばあちゃんに会えて、そしてまた美瑛町に戻ってきた。
これからどうするのか。
いつまでいるのか。
私はどうしたらいいのか。
それさえもまだ曖昧だけど、今日はとりあえず東京では感じられなかった安心感に包まれていたい。
***
北海道の朝は早い。
カーテンの向こう側ではザクザクとなにやら奇妙な音が響いていて、一応目覚ましの設定はしてあったけど、その前に目が覚めた。
布団から出るとすぐに身震いするほどの寒さに襲われて、私は厚手のダウンジャケットを羽織って外に出る。
「うわ……」
そこは一面真っ白な世界。
私が寝ている間にも雪は降り続けて、足を一歩踏み出すとブーツが埋もれてしまうほどの積雪だった。
「あら、小枝」
家の前ではおばあちゃんが赤色のスコップを片手に雪かきをしていた。さっきのザクザクというのはこの音だ。
「手伝うよ」
「大変よ。大丈夫?」
「平気」
私は家の物置小屋からもう一本のスコップを持ってきた。雪はサラサラとしてるけど、スコップで持ち上げるとかなりの重さでこれは確かに大変だ。
雪国の人は冬の間はほぼ毎日こんな風に雪かきをしなければならない。それを高齢者であるおばあちゃんがするにはかなりの重労働だと思う。
「どこに運べばいい?」
「あそこの突き当たりの空き地よ」
家の前の道路はすでに路肩に雪の壁ができていて、夜中に除雪車(じょせつしゃ)が入ったのかもしれない。
それでも除雪車がやってくれるのはあくまで車が通る車道だけ。他の場所の雪かきはこうしてみんな手作業だ。
スコップですくった雪を空き地に捨てに行って、またスコップで雪かきをしての繰り返し。それを三往復したところで運動不足の私は手に力が入らなくなってきた。
「明日筋肉痛になっちゃうんじゃない?」
おばあちゃんはまだ余裕の表情でさすがとしか言いようがない。
北風が吹くたびに白い粉雪が舞って冷たい。それでも額にはほんのりと汗をかいていて、寒さと汗でなんともいえない気持ちわるさを感じた。
「筋肉痛になってもいいよ」
むしろ今の私にできることは雪かきぐらいしかないし。
私は当たり前のことを言っただけなのに、おばあちゃんは「ふふ、ありがとうね」と嬉そうな顔をしていた。
そんな話をしている間に他の家からも次々と住人たちが出てきて屋根の雪降ろしをしたり、車が出入りできるように雪を押し出したり大忙し。
……やっぱり雪国の冬は大変だ。
「洸野さんおはよう。こんなにしばれる12月は久しぶりねー」
するとそこへひとりの女性がおばあちゃんに声をかけてきた。年齢はおばあちゃんと同じくらいで60代ぐらい。
雪を捨てにきた途中なのか手にはリアカーを押していた。おばあちゃんとはかなり親しそうで、雪かきを忘れて話し込んでいる。
「1か月季節がずれてるんじゃないかしらね」
「本当ね。この雪が続くと思うと気が滅入るわ」
ふたりの会話を聞きながら私は黙々と玄関の前に積もっている雪を掻き出していた。
東京から来た私には分からないけど、今年の北海道は例年に比べて雪の量が多くて寒いらしい。
上空には雪雲が常に停滞していて、今日の札幌は大荒れ。美瑛もまた夕方から冷え込むとニュースでやっていた。
やっぱり私は北海道という土地に歓迎されてないのかもしれない。
「あら、あなたは……」
その時、ふと女性が私のほうを見た。無視するわけにもいかないから小さな会釈を返す。
「もしかして小枝ちゃん!?久しぶりね!美人さんになってるから誰だか分からなかったわ」
どうやら私のことを知ってるみたいだけど、私こそこの人が誰だか分からない。困ったようにチラッとおばあちゃんを見るとすぐに助け船を出してくれた。
「ほら、小学校が一緒だった菜々美ちゃんのおばあちゃん」
……ななみちゃん?
記憶の糸を手繰り寄せるように思い出してみたけど菜々美ちゃんの顔が分からない。でもなんとなく名前には聞き覚えがあるような気がした。
「菜々美は私立の高校に行ったのよ。寮生活でほとんどうちに帰ってこないし今は冬休みだっていうのに来週の日曜日にちょっと顔を出すねって、それだけ」
「………」
「実家に帰るより友達と遊びたいんでしょうけど、寂しいものよね」
私はなんて返したらいいのか分からずに、とりあえず雪を集めているふりだけしていた。
「菜々美に小枝ちゃん来てるって話しておこうか?そしたら久しぶりに小枝ちゃんも……」
「い、いいです!大丈夫です!!」
思わずスコップの手を止めて食いぎみに言葉を返す。
「こっちには少し羽を伸ばしにきただけなので。それに私はすぐ東京に帰るし、中途半端に会っても寂しくなるだけですから」
饒舌な嘘が自然と口から出てきた。
いま自分がどんな顔をしてこんなことを言ってるのか分からないけど、少し頬が吊り上がった気がしたから、きっと作り笑いを浮かべているんだろう。
そんな心もなにもない笑いかたができる自分が怖くなる。
「そうね。小枝ちゃんも〝あのこと〟があって美瑛を離れることになったけど、また長い休みの時には帰ってきてね」
「……はい」
かじかむ指先が震えた。それを寒さのせいにしながら、私はまた黙々と雪かきの続きをはじめる。
狭い町は噂が消えづらい。あの家はこうだとか、あの時はこうだったとか、みんな他人の不幸話を広げたがる。
きっとこれで私が帰ってきたことはすぐに近所に知れ渡るだろう。そして憶測を並べて、私の家族のことを面白おかしく話すんだ。
***
「昨日、寝づらくなかった?」
雪かきが一段落して、おばあちゃんがリビングで温かいお茶をいれてくれた。急須(きゅうす)に茶葉を入れただけなのにおばあちゃんのお茶の濃さが絶妙で身体に沁みる。
「布団、一応布団乾燥機にかけたんだけど、やっぱり太陽には勝てないからね」
おばあちゃんはそう言ってお茶菓子も私の前に出してくれた。
雪国は冬になると布団を干せない期間が続く。ただでさえ湿気が多いのにひどい時には床に水が溜まるほどで、加湿器じゃなくて除湿機を使わないと間に合わないぐらいジメジメとしてる。
「大丈夫。ちゃんと眠れたよ」
これは嘘じゃない。
おばあちゃんが用意してくれた部屋は昔私が使っていた場所だった。といっても私のひとり部屋ではなかったけど、畳や本棚。ふざけて穴を開けた障子もそのままだったから驚いた。
「……荷物。お母さんのけっこう残ってたんだね」
まだ冷めないお茶をすすりながら私は言う。
タンスの中にはお母さんの洋服が当時のままで残っていて、毎日使っていた化粧台もそのままだった。
そういえば大人の真似事がしたくて内緒で口紅をつけたこともあったな。すぐにバレて怒られたけど、この狭い部屋だって子どもの頃は十分すぎるぐらいの遊び場だった。
「……尚子にはあんな形で家を追い出しちゃったから荷物は全部処分したって言ったんだけど、なかなか捨てられなくて」
「………」
「ごめんね。小枝には迷惑かけたね」
おばあちゃんが泣きそうに言うから私は全力で首を横に振る。
そういうつもりでお母さんの名前を出したわけじゃなかったのにやっぱり空気は重たくなってしまって反省した。
「……あのとき小枝は私が引き取れば良かったんじゃないかって思ってたの」
おばあちゃんの言葉にドクンと心臓が跳ねる。
「でも尚子から小枝まで奪うことはあまりに酷だって思って。大人の身勝手でごめんなさい」
「……おばあちゃんのせいじゃないよ」
そう、あの当時一番正しくて一番信頼できたのはおばあちゃんしかいなかった。
おばあちゃんは私を守ってくれようとしていた。だから私はこうしてまた甘えにきてしまった。
それからお昼はおばあちゃんが作ってくれた炊き込みご飯を食べて、私も手伝うと台所に立ったけど結局野菜を洗っただけ。
そのあとは美瑛町の役場に用事があるとおばあちゃんは出掛けてしまって今は家でひとりきり。
静かなリビングでは大きな古時計の振り子が右から左へと元気よく揺れていて、12時になるとゴーンという鐘の音が流れてくる。
……この時計も懐かしい。
こたつで猫のように丸くなっても時間は早く進まない。私はここになにしに来たんだろう。
考える時間があればあるほど心が窮屈になっていって、私は堪らずに出掛けることにした。
110デニールの黒いタイツを履いて、またキャラメル色のダッフルコートを羽織る。
今日の美瑛の天気は晴れのち曇り。今は昨日に比べたら太陽も顔を出しているけど、きっとそのうち雪が降る。分からないけど、そんな気がする。
私が向かったのは美瑛駅。
――『俺青い池にはほとんど毎日いるから。暇だったらまた遊びにきてよ』
べつにアイツに言われたからじゃない。昨日はほとんど青い池を見られなかったしリベンジに行くだけだ。
そしてまた道北バスに乗って20分。電光掲示板に【白金青い池入り口】と表示されると私はすぐに降車ボタンを押した。
青い池に着くと昨日は全然いなかった観光客の姿があった。自撮り棒を持って撮影してる人やインスタ映えを狙ってなんとか池の綺麗さを撮ろうとしてる人。
そんな観光客の熱量とは真逆に池は今日も凍っているから、その青さはあまり目立たない。
「なんか残念な感じだねー」「思ってたのと違った」なんて落胆する人が隣を通りすぎて、その道の先にはまたまっすぐに私を見つめる瞳。
「また会えたね」
俚斗がニコリと笑った。
私は笑い返すこともせずに足を止める。やっぱり近づいてきたのは俚斗のほう。
その足音は他の人と比べるとすごく静かで、一ミリ浮いてるんじゃないかってぐらい。それでも雪道の上にくっきりと靴の跡が付いてたから、私の耳が寒さで遠くなってるだけかもしれない。
「今日は貸し切りじゃないね」
俚斗が声を出すたびに白い息が空気中に溶ける。
「みんな池が凍っててガッカリしてるけど、氷点下なら凍るのは当たり前だよね。夏みたいに真っ青な池が見れると思ったのかな」
「………」
そんなことを私に言われても困るけど、東京は雪なんて滅多に降らないし気温も氷点下にはならないから水が凍るなんてこともない。
だからきっとネットや本で調べて、綺麗な青い池の画像を見てそのままのイメージで来てしまったのなら、気持ちも分からなくはないけど……。
すると俚斗は何故か私の顔をじっと見つめて、その視線が寒さよりも痛い。
「どうして喋ってくれないの?俺のこと忘れちゃった?」
まるで捨てられた子犬のような顔。