それだけ分かれば、余計なことを考えずに動くことができる。ユンジェは拘束されている両手首を見つめ、上唇を舐めた。もう二人の傍にいる必要もない。

 両隣の家屋に目を向けた。ふと地面にできる丸い影に気付いたので、(さと)られないように視線を戻して、その上を素通りする。

「なあ、カグム。ガキをオトリにして、一人で町を出たってことはねーかな?」

 ハオが横目で見下ろしてくる。その意味深な目は訴えている。こんなガキ、いくらでも代わりはいるだろうと。失礼な奴だ。

「何度も言うが、ピンインさまがこの子を置いて、どこかへ逃げるとは到底思えない。懐剣のこともそうだが、あの方にとって、その子どもは家族なんだ。身を潜めて機会を窺っているだろうさ」

「農民のガキが家族、ね。こんなガキを家族にしたところで、王族の品位が損なわれるだけなのに、何を考えているんだか」

 正直、正気の沙汰ではない、とハオは肩を竦めた。しかし、カグムはしごく真面目に答える。

「ハオも王族の近衛兵をすると分かるさ。あそこは、常に暗い感情が渦巻いている。心許せる場所なんて片指程度。自由があるようで、習わしに縛られている。贅沢なんて気休め。よっぽど平民の方が、生きた心地がする」

 ティエンと似たようなことを言っている。カグムは彼をよく理解していたのだろう。王族に生まれたティエンを、本当に気の毒だと語っていた。

「とりわけピンインさまは、孤独な方だった。呪われた王子だからと王族からも、貴族からも蔑まれ、疎んじられていた。いつも人のぬくもりに飢えている方だった。だからこそ、己の力で得た繋がりは大切にする」

 その中にカグムに入っていたのは、本人も自覚していることだろう。

 なのに、どうして。ああ、どうして。
 ユンジェは目を細めた。そこまで理解しておいて、どうして彼を裏切ったのだろう。悲しませたのだろう。傷付けたのだろう。

 今もそう。

「なあ、カグム。なんで、ティエンを怒らせるようなことばかりするんだ?」

 彼の背に問いかける。振り返る様子はない。

「今のティエンは、あんたに強い負の感情を持っている。それはカグムだって分かっているんだろう? でも、あんたはティエンを怒らせるような発言ばっかりする。今回だって、なんで俺の兄をあんたが名乗ったんだ。ハオだって良かったじゃないか」

 カグムはユンジェの兄だと名乗り、それを竹簡に記してばらまいた。
 それはまるで、ティエンから家族を奪うと、宣戦布告しているようにも思える。彼はティエンに告げていた。ユンジェの身は、必ず自分が預かると。
    
 これがハオであれば、ティエンもただの策だと思って受け止めただろうに、あの時の彼は怒りと憎しみに満ち溢れていた。

 きっと、ユンジェには想像もつかないほど、彼は激情に駆られていたに違いない。

 カグムはティエンが嫌いなのだろうか? それとも天士ホウレイの命を遂行すべく、負の感情を利用しているのだろうか。

 依然、何も答えないカグムに、ずるい奴だと悪態をつく。

「誰よりも、ティエンのことを分かっているくせに。理解してやっているくせに。あいつを散々に振り回す。それって、すごくずるいことだと思う。何も言わないってのが、またずるいよ」

 おかげでティエンはカグムに一喜一憂してばかりだ。一喜など、もうひと欠片も残っていないだろうが。

「これだけは教えてよ。ティエンのこと、あんたは呪われた王子だと、死んでほしい存在だと思っている?」

 足を止め、ゆるりと振り返るカグムは笑みを浮かべて答えた。その顔が沈んでいく夕陽に照らされ、光陰がはっきりとつく。

「ああ。思っているよ」

 ユンジェも笑みを返す。


「そうか。なら、俺はあんたからティエンを全力で守らないとな」


 言うや否や、その場にしゃがみ、手綱となっている布紐を力の限り引く。