こめかみから汗が流れ落ちる。熱気が凄まじい。火の粉が肌を焼く。呼吸すら難しいほど、ここは灼熱であった。
なのに、タオシュンは顔色一つ変えず、馬に乗っている。こいつは本当に人間だろうか。ユンジェは、つい相手のことを疑ってしまう。
「将軍タオシュン。どこまでも、しつこい男だな」
ティエンが苦言した。
ほう。タオシュンが大げさに驚いてみせる。
「これはこれは。ピンイン王子、ついに声が戻りましたか。呪いが解けているのは、やはりその小僧の仕業ですかな? であれば貴方様の懐剣を抜いた、呪われし使いを目の前で八つ裂きにしてやらねばなりますまい」
そう言ってタオシュンが馬の腹を蹴り、大刀でユンジェ達を薙ぐ。
受け止めることができなかった刃は、迷うことなくユンジェを貫こうとした。地を蹴って、大刀から逃れようとするが、輩は幾度も前に回ってくる。
そこまでして、ティエンを苦しめたいのか。
「呪いとかなんとか言っているけど、ティエンが一体何をしたんだってんだ。今まで、ずっと閉じ込めていたんだろう?」
前に転がり、馬から逃れる。ティエンが弓を構えると大きく旋回した。輩の視野の広さに舌打ちを鳴らしたくなる。
タオシュンが鼻を鳴らした。
「お前は無知な謀反人だな。これは国を亡ぼす者だというのに」
まったく理解ができない。
この軟な男がどう国を亡ぼすというのだ。彼に国が亡ぼせるというのなら、ユンジェにだってできそうである。
なにせ、彼よりも力があり、生きる術も多く知っているのだから。
しかし、タオシュンは言う。
ピンイン王子が生まれてから飢饉、渇水、流行り病など、不幸が止まない。
麟ノ国は昔に比べ、確実に衰退している。
これは偶然ではない。呪いという名の必然な不幸事。忌み嫌われる王子は、この世にいるだけで国の者に地獄を見せる。
「今もそうだ。こやつがいたことで、時期にこの土地は亡ぶ」
「はあ? どういう意味だよ。この森を燃やしたのはお前の……おい、まさか」
タオシュンが高笑いを上げた。亡ぶのだと謳う将軍は今頃、町や農民の集落にも火の手が伸びているだろう。そう言って青褪める二人を嘲笑する。
「火をつけたのはっ、森だけじゃなかったのか」
農民の集落、ということは世話を焼いてくれたトーリャの家もきっと。ああ、なんてことをしてくれたのだ。この熊男。
「隠れた王子を探すのは手間でな。火をつけて、あぶり出したまでよ。無論、これは許された行為。我らが君主、尊きクンル王はどのような手を使っても良い、と仰ったのだから」
それに、これは当然の報いだとタオシュン。
この地は呪われた王子の身を一年も、隠し通していた。
それは麟ノ国に対する謀反と言っても過言ではない。所詮、地図に薄く載った小さな町だ。消えたところで、国には何ら支障が無い。
なにより麟ノ国を脅かす呪われた王子を始末することが、最優先すべき正義だ。輩は陶酔したように誇り高く語る。
「ピンイン王子、お分かり頂けますかな。貴方様が生き続けるだけで、ひとつの町が消え、森が消え、人が消えるのです」
同意を求めるタオシュンに、ティエンの体が震えた。恐怖からくるものではない。怒りからくるものだ。
「己の行いすら、貴様は私の呪いと謳うか」
「やむをえないことです。いつの時代にも、犠牲というものはございます」
国が亡ぶより、小さな土地が亡んだ方がずっと良い。呪いは小さな犠牲で食い止める。これは君主の英断である。
タオシュンは口を歪曲につり上げた。
ユンジェは腹を抱えて笑いたくなった。
ピンイン王子をひとり殺すために、町や森、人を犠牲にする。それを王子の呪いと称する。
単なる責任転嫁ではないか。呪いでも何でもない。これは目に見えた人災だ。
責を負わされるティエンは、なんて哀れなのだろう!
「そうか。これは私の呪いが齎した結果か」
ふらりとタオシュンと向かい合ったティエンが、構えていた弓を下ろす。
ユンジェは驚き、真に受けるなと怒声を張った。が、彼の姿を見た途端、その声が萎んでしまう。
ティエンは美しく笑っていた。絵に描いたような微笑みは、その目は、激情に荒れ狂っている。
「貴様の行いが呪いで済まされるというのであれば、私の行いも呪いで済まされるのであろう」
絹糸のような黒髪が熱風に梳かれる。
炎と共に揺れるそれは、まるで麒麟の持つ、黄金の体毛を彷彿させた。彼を取り巻く熱風が意図して、火の粉を散らす。厳かな空気は麒麟と向かい合う時の空気そのもの。
「タオシュン、お前の身は私の呪いを持って滅びる。心せよ」
ティエンが笑みを深めれば、燃え盛る木々達がなぎ倒される。火の粉が舞い上がった。
なのに、うねる炎はティエンを避ける。まるで、平伏するようにティエンに道を作る。
(あっ)
ユンジェは帯にたばさむ鞘を抜き、加護が宿る黄玉を見つめた。真っ赤に燃えている。それは森を焼く炎と同じ色だ。
「王族の落ちこぼれが何を申しますか」
馬の腹を蹴るタオシュンが、ティエンに大刀を振るう。
その刃先が届く前に、左右の炎が行く手を邪魔した。走る獣は燃え盛る炎を恐れ、手綱を千切るようにして立ち止まる。
間に合わず、炎は馬を呑み込んだ。
苦々しく舌を鳴らすタオシュンが走り去る馬を捨て、その首を切ろうと、大刀をティエンに切りかかる。道すがら大木が倒れ、それを阻んだ。
どうしたってティエンまで大刀が届かない。
戸惑うタオシュンには、きっと見えていないのだろう。彼を守るように立ちはだかる、天の生き物が。
ティエンは生まれながら、王族として認められなかった。それは黄玉に麒麟の加護が宿らなかったからだ。加護を受ける前に、いつも黄玉は砕けていた。
だから、呪われた王子と呼ばれるようになった。
しかし、それはきっと呪いではないのだろう。ユンジェは加護を受けられなかった理由を、はっきりと確信した。
(ティエンは加護が受けられなかったんじゃない。要らなかったんだ)
だって、彼の傍にはいつも麒麟がいたのだから。ああ、そうだ。きっとそうだ。ユンジェだって見たではないか。彼の傍にいる麒麟の姿を。
麒麟はティエンに何かしらの器を見たのだろう。他の王族にないものがあると期待し、いつも傍にいて、彼を見守っていたのだろう。
しかし、周りは死を望む声ばかり。その多さに耐え兼ね、天の生き物は加護を与え、ユンジェに使命を授けたのだ。
麒麟の加護を受け、尚且つ麒麟とその使いが傍にいる、ティエンはまぎれもなく――麒麟に選ばれた者。
「如何した、将軍タオシュン。私は今、弓を下ろしている。刃を下ろさなければ、呪いは消えぬぞ」
双方の余裕が形勢逆転する。
それまで優勢を取っていたタオシュンに焦りが見え隠れした。得体の知れない恐怖に襲われたのだろう。乱雑に大刀を振り、雄叫びを上げた。
冷静の欠いた人間ほど、単調な動きを見せる。ユンジェは懐剣を構え、素早く駆け出す。
「忘れるな、タオシュンよ。私には麒麟の使命を授かった、頼もしい懐剣がいることを」
ティエンが弓を構えた。右に回ったユンジェは飛び上がり、鎧からはみ出ている首に狙いを定める。
そこには包帯が巻いてあったが、鋭利ある懐剣で容易く裂くことができた。厚い肉に刃が刺さると、タオシュンが大口を開ける。
その瞬間を狙い、ティエンは矢を放した。
彼の傍にいた麒麟も走り出す。炎を運ぶ麒麟と共に、矢は輩の喉奥深く突き刺さった。血を吐く、その口から悲鳴は上がらなかった。
果たして、喉を焼かれたのか、声帯を貫かれたのか。
どちらにせよ、皮肉なものであった。声が出ないその状況は、かつてティエンの身に受けたものと酷似している。
森中を響かせる声を上げていれば、もしかすると、援兵が来たかもしれないのに。
片手で喉を押さえ、悶え苦しむタオシュンが傍若無人に暴れる。輩の持つ大刀が木を倒し、熊男は燃える木々の下敷きとなった。
なおも眼球が飛び出しそうなほど目を開き、忌々しそうに二人を睨む。
そして最後の力を振り絞ったのか、叫びたい気持ちが輩に力を与えたのか、タオシュンは血反吐をはき、咆哮した。
「ぶざまっ、あまりにぶざま。だれっ、も、貴様のっ、生など望んでおっ、おらんことを、忘れるなっ、ピンインっ――!」
それは呪詛のようであった。
短弓を肩に掛け、ティエンは炎に包まれる男に小さく笑うと、背を向けて歩きだす。まだ息のある男は燃え盛る炎に苦痛を浮かべ、木々の下から這い出ようとしていた。
「知っているさ、そんなこと。それでも、私は生きる。タオシュン、貴様の死を超えて」
ユンジェは懐剣を鞘に収め、焼け爛れていく人間に目を細める。
正義と称して町や森を焼いた男の末路に、因果応報の四文字が脳裏を過ぎった。ティエンは呪いと言ったが、これは呪いなんかではない。己の行いを返されただけの、報いだ。
呪われた王子の隣に並ぶと、そっと彼の手を握った。
そうしなければ、彼がひとりになってしまいそうだと思った。手の震えには気付かない振りをする。
「ユンジェ。私は生きる。たとえ、千も万もの人間が私の死を望もうと、無様と言われようと――たった一人の家族のお前と共に生き続ける」
炎に包まれる森が道を作る。何もかも焼きつくすそれは、ティエンを敬うように、身を引いていく。ひれ伏していく。
「お前が呪いの王子なら、俺は呪いの懐剣だな。いいよ、それでも。この先、どんなことがあっても、俺はお前に最後までついていく。約束だ」
握り返してくる手の力は、普段の華奢な彼からは想像できないほど、強いものであった。
「ティエン。カグムとハオだ」
熱風が吹きすさぶ、炎の森の向こうに、小さな人影が二つ見える。
それは騎兵を撒いた謀反兵であった。彼らはピンイン王子を探していたのだろう。
ティエンの姿を見るや、保護しろと声を上げていた。喉が焼けそうな熱気の中、よく声音を張れるものだ。
ユンジェは足を止め、未だに震えるティエンの手を見つめると、そっと顔を持ち上げた。
「どんな道を選んでも、俺はお前と一緒にいる。だから、安心しろよ」
その言葉に彼は力なく笑う。
「お前は強いな。悔しさを覚えるほど、ユンジェは強い。敬服する」
敬服なんて、難しい言葉を使われても困るものだ。
ユンジェには立派な言葉に返事できる、言葉も、知識も持ち合わせていない。
「俺は強くなんてないさ。ただ、よく考えようとしているだけ。いざとなると、お前に甘えたくなっちまう、背伸びしたガキだよ」
「おや、ついに子どもと認めるのか? ユンジェ、子ども扱いは嫌いだろう?」
「使い分けは大切だろ?」
そっと笑いを返し、こちらに向かってくるカグムとハオに視線を投げる。彼らの下へ走り、二人の来た道を辿れば、きっと炎の森から抜けられることだろう。
しかし、ユンジェもティエンも動かない。駆け寄って来る彼らを静かに見守る。
まるで意思を宿したかのように、炎に包まれた木が一本、また一本と倒れ、それは兵達の行く手を阻んだ。
高温のせいで一帯の景色が歪んで見える。
「何をしているんです! はやくこっちに来て下さいっ、焼け死にますよ!」
立ちのぼる炎の向こうで、焦燥感を滲ませたカグムが垣間見えた。
「クソガキ! はやくピンインさまを走らせろ、はやくっ! うわっ!」
揺らめく炎の先でハオが右の手を振り、合図を送った。
今ならまだ間に合う、と言いたいのだろう。
けれど、二人は動かない。目の前で木が倒れても、微動だにせず、炎々と燃えるそれを見つめた。
やがて、ティエンが口を開く。
「はやくお逃げなさい。時期この森は亡ぶ。天士ホウレイの命を受けたお前達とて、死にたくはないでしょう?」
「ま……待て、ピンイン。お前まさか」
カグムの敬語が崩れた。それに苦々しく笑うティエンも、「それは死んだ」と言って、敬語を崩した。
「私の名前はティエン。ピンインではないと何度、申し上げれば分かるのか」
「お前っ、死ぬ気か!」
ティエンは満面の笑みを浮かべた。一点の曇りもない、無邪気な顔であった。
「私は亡びゆく森の、この土地の最後を見届けたい。それだけだ」
彼は謳う。
この森が、町が、農民の集落がとても好きだった。ユンジェと出逢った、この土地が本当に好きだった。
なのに自分のせいで災いを運んでしまった。だから――最後まで見届ける責任がある、と。
「そんなもの、ここを出てからでも見届けられるだろうっ! 残れば焼け死ぬ。馬鹿でも分かることだ。ユンジェ、お前は何をしている。頭の回るガキのくせに、なんでピンインを止めない!」
そんなの決まっている。
「ティエンがそうしたいと願うなら、付き合うしかないじゃんか。こいつの我儘は、今に始まったことじゃないし」
付き合うと言ったのは自分なのだ。だったら、最後まで彼に付き合わなければ。
「すまないな、ユンジェ。私はお前に世話を焼いてもらってばっかりだ」
「本当だよ。ティエンが十九だなんて、いまだに信じられねーぜ。あーあ、喉が渇いた」
横目で見るユンジェと、どことなく嬉しそうな顔を作るティエンが笑い合った。
その直後、灼熱に耐えられず、周囲の木々が音を立てて折れる。そして、それらは二人目掛けて、躊躇いなく倒れた。
「ピンイン! ユンジェ!」
カグムとハオの視界から彼らの姿は消え、代わりに大量の火の粉が舞い、燃え盛る炎が景色を呑み込んだ。
◆◆
将軍タオシュンが放った炎は三日三晩、森を、町を、集落を焼き続けた。
消息を絶っていた将軍の亡骸は燻る森の中で見つかり、彼が率いていた兵達は一時撤退を余儀なくされる。七日後のことであった。
カグムとハオは同志と共に、呪われた王子と懐剣の行方を探した。
亡骸が見つかれば、森の中にいたと証明されるが、大人らしき亡骸も、子どもらしき亡骸も見当たらなかった。
手掛かりが見つからず残念に思うが、反面安堵もした。彼らに死なれては困るのだから。
森をさまよっていると、小さな家を見つける。焼け崩れてはいるが、確かにそこは家であった。
カグムは焼け跡から小壷や鍬、半分ほど焼けた蓑など、生活感に溢れた物を見つける。小壷を開けてみると、芋が塩水に浸かっていた。保存食だったのだろう。
家の側らにある畑も燃え尽きていた。
しかし、土を探ってみると、大小の青い芋がたくさん出てくる。ひと月後には収穫だったに違いない。
ふたたび森に足を運ぶと、奥地に小さな墓を見つけた。誰の墓なのかは分からない。石が建てられただけの、粗末な墓であった。
カグムは墓の前で膝をつき、供え物に手を伸ばす。
「こんなところに銭一枚と、塩漬けの野菜」
一枚の銭。そして葉の器に盛られた、少しの塩漬け野菜を見下ろし、カグムは深い息をついた。
それは大きな安堵に包まれたものであった。
「宣言通り、この土地から炎が消えるまで見届けていたってわけか。ったく……やっと見つけたのに振り出しなんてな。俺達から逃げられると思うなよ」
悪態を吐き捨てる、彼の口端がつり上がる。生きているなら、なんだって良かった。
「ハオ。馬を出すぞ。王子と懐剣のガキはもう、この土地にはいないようだ。今度見つけたら、首に縄を括ってホウレイさまの下へ連れて行くぞ」
同じ空の下。
焼けた故郷と別れ、あてもない旅に出る二人組がいた。
ひとりは、天女のように美しい顔を持つ男。
そして、もうひとりは小柄な体躯を持つ農民の少年。彼の帯には立派な懐剣が差さっていた。その身分には不似合いの、黄玉の装飾が、帯の中でいつまでも輝いていた。
(第一幕:懐剣と少年/了)
第二幕:遁走の紅州
天士ホウレイの配下、謀反兵のカグムとハオは、石切ノ町を歩いていた。
名の通り、そこは石材を売りにしている町で、上質な石を揃えている。
また、とりわけ石大工が目立つ。彼らの腕前は一級と呼ばれ、それに惹かれ、都の貴族が依頼することも少なくない。
そんな石切ノ町で二人は聞き込みを行っていた。
手分けして、ここ数日の間におなごのように美しい男と、小柄な少年を見掛けなかったか、と尋ねて回る。
すると。石売りの商人達が口々に教えてくれた。
「美しい男は分かんねーけど、見掛けない坊主は相手にしたよ。そりゃもう、上等な縄を作る奴でさ。石売り商人や石大工がここぞと声を掛けていたね」
石材を売りにしている町は、それを運ぶための丈夫な縄を欲している。しかし、なかなか入手し難く、買おうとしても高額で売られることが多い。
けれども、その少年は手頃な値段で縄を売ってくれた。お金が用意できない商人や石大工には物々交換で取引をし、食糧や道具を得ていた。
とても良心的な少年だったと、皆は口を揃える。
「そういえば、顔は見せない無口な奴がいたな。坊主の手伝いをしていたっけ。男か女かは分からなかったが。町に留まってくれたら、石大工達も助かっただろうに」
石大工の親方が雇おうとしたほど、その少年の売る縄は良かったそうだ。注文すれば、縄を太くも細くもできる、強度も変えられる、器用な少年だったと彼らは教えてくる。
少年と無口人間の行方を尋ねると、石売りの商人はこう答える。
「次の町を目指すって言っていたな。この辺りだと、仙ノ村が近いって教えたから、そこに行くって答えていたぞ」
石大工の親方も答える。
「世間話がてらに海の話をしたら、そこに行ってみたいと言ったから、道順を教えてやったよ。今頃、梁河に沿って歩いているんじゃねーか?」
露店で野菜を売る行商も答えた。
「あの坊主なら、山を越えた宇長ノ都に行くって。若いもんほど、人の多いところに惹かれるんだろう」
聞き込みを終えたカグムとハオは、苦い顔を作る他ない。誰もが有力な話を教えてくれるのに、誰ひとり同じことを言わない。
「どーなってるんだよ。どれを信用すればいいのか、ちっとも分からないぜ」
頭を掻きむしるハオの隣で、カグムが深いため息をつき、軽く笑声をもらす。
「こりゃあ、ユンジェの悪知恵だな。ったく、間諜をこなす俺達を翻弄するなんて本当に厄介な奴だよ」
味方であった時は心強かったが、敵になると、こんなにも手が掛かるとは。
「またあのガキかよ。勘弁してくれって……ホウレイさまにピンイン王子を連れて来ると、早馬を出しちまっているのに」
町人によると、二人は真夜中に町を出て行ったそうだ。夜に動き、どこへ向かったのか、分からなくしようという魂胆なのだろう。
カグム達から姿を晦ました二人は徒歩。馬ならすぐ捕獲できると思ったのだが、これは骨が折れそうだ。
「さすが、麒麟の使い。呪われた王子に認められし、懐剣小僧だな」
◆◆
ユンジェは軽快な足取りであぜ道を歩いていた。
見渡す限り、水田が広がるこの光景は、炎に包まれた故郷を思い出す。そのせいだろうか、心が落ち着いた。
小袋から乾燥豆を取り出すと、それを口に放って、豆の風味と歯ごたえを楽しむ。これは三日ほど納屋に泊めてくれた、農業を営む老夫婦がくれたものだ。
とても親切な老夫婦だった。
突然、訪問したにも関わらず、困っているユンジェから事情を聴くと、快く納屋を貸してくれた。
泊めてくれたお礼に三日間、彼らの仕事を手伝い、縄を編んで贈ると、彼らは嬉しそうに受け取り、貴重な保存食の乾燥豆をくれた。
栄養満点だから、病み上がりの『お姉さん』と一緒に食べなさいと、言葉を添えて。
(その前に泊めてくれた、農家のおっちゃんも優しかったな。筵を編んだら、火打ち石を袋一杯にくれたっけ)
ユンジェは町の商人より、畑に携わる農民の方が好きだと思った。
物々交換の時は対等に接してくれるし、困っていると話を聞いてくれる。温かみがあると思えた。それはきっと自分が農民の子だからだろう。
「ティエン。具合はどうだ?」
此度、納屋に泊めてもらったのは、ティエンが熱を出してしまったからだ。
慣れない旅、追われる身分、兵達から隠れる生活。
それらのせいで、心身疲弊してしまったのだろう。旅は農民の暮らしより、体力や気力を多く必要とするので、軟な彼は倒れてしまった。
そのため、ユンジェは農家を訪ね、老夫婦に納屋を借りたのである。
もう大丈夫だと返事する彼は申し訳なさ半分、不満半分、といった顔で歩いている。柳眉が寄っていた。
「どうしたんだよ。腹でも痛いのか?」
わざとらしく顔を覗き込むと、ティエンがじろりと睨んだ。
「ユンジェ。世話を焼いてもらっておいてなんだが、ひとつ文句がある。なぜ、私はあの老夫婦に姉と間違われていたんだ」
予想していた文句に、ユンジェは小さく噴き出してしまう。ティエンの手の平に五粒、乾燥豆を落すと、その顔がいけないのだと返事した。
「ひと目じゃ、男か女か分からないって。俺も最初、ティエンを見た時、天女だと思ったしさ」
乾燥豆を頭陀袋に仕舞い、水を飲むために皮袋を取り出した。
「それで? わざと正さなかった理由は?」
皮袋を差し出す。彼は気だるく受け取り、それで喉を潤していた。
「だって、あそこの老夫婦、当たり前のようにティエンをお姉さんって言うもんだから。ティエンを綺麗だって褒めていたし、まあ、いいかなって」
「つまり。面白がっていた、と?」
大当たりだ。ユンジェが指を鳴らすと、重たい皮袋で軽く頭を叩かれた。
「おかげで私はこの三日間、口を利けない振りをしなければならなかったんだぞ」
ティエンは声変わりを終えている。
さすがに声を聞けば、男だと分かるだろう。喉仏を見られなくて良かったな、と茶化すと、ふたたび皮袋で頭を叩かれた。
実はかなり、腹を立てていたようだ。どうもティエンは女に見られることを、良く思っていないらしい。それだけ美しいということなのに。
「いってーな。大体、口が利くも何もお前、熱でしゃべる元気もなかったじゃん。もう一日、老夫婦は泊めてくれるって言っていたのに……本当に甘えなくて良かったのか?」
その分、老夫婦の仕事を手伝えば良いと、ユンジェは考えていた。
彼らは子どもに恵まれなかったようで、ずいぶんと若手の力を欲していた。話を聞けば、老いのせいで農業を重労働に感じていると言う。
そのため、ユンジェが重たい肥料や、大量の藁の束を運ぶと、老夫婦はとても嬉しそうにしていたものだ。
ティエンが遠慮を見せなければ、もう一日、納屋を借りようと思っていたのだが。
「これ以上、ユンジェに迷惑は掛けられないだろう? この三日間、お前は老夫婦と働き、私は納屋で寝てばかりだったというのに。ユンジェ、休めていないだろう?」
語尾を窄めるティエンに対し、ユンジェは能天気に笑う。
「気にすんなって。俺は生まれて、畑仕事ばっかりしていたんだ。働くことくらい屁でもないさ。そんな顔をするなって。ティエンだって、旅で俺を助けてくれるじゃん」
例を挙げるならば、石切ノ町だ。
町に立ち寄った際、石材を売りにしていると気付いたティエンが、縄を売ろうと強く訴えた。ユンジェの作る縄なら、たくさん売れる。路銀の足しになると言って譲らなかったため、ユンジェは半信半疑になりながら、貴重な金を出して藁を買い、縄をこしらえた。
するとどうだ。
飛ぶように縄が売れ、いつもよりも高値で取引が成立した。
ティエンは知っていたのである。石材を運ぶ際に、丈夫な縄が求められていることを。
ユンジェのいた町では、あまり需要がなかった縄だが、町の特色によってはそれが高値で売れる。売買は需要と供給の割合で、値段が決まるとティエンは教えてくれた。
また、土地の知識が豊富で、石切ノ町が国のどこらへんに位置しているのか、よく把握していた。
地図を買うと、それをユンジェの前で広げ、見方を説明した。あまり文字が読めないユンジェだから、土地の読みにつまずくと、懇切丁寧に教えてくれる。
このように、学問の分野はティエンの方が頼りになる。てんで知識が乏しいユンジェは助けられっぱなしだ。
「お前がいなかったら、俺は地図も読めないんだ。ちゃんと役立っているよ」
足手まといだと感じているティエンを励ます。だが、ユンジェの足元にも及ばない、と返された。
「とくにお前の機転。あれには驚くばかりだ。町や村に立ち寄る度に、色んな商人と世間話をして、その都度『別の行き先』を話すなんて」
ひひっ。ユンジェはいたずら気に舌を出した。
「集落は近状や、知識を交換する場でもあるからな。聞き込みされた時のことを考えて、ちょっと細工をしただけだよ。足止めになってくれたら万々歳だ」
クンル王の兵はタオシュンの一件で、おおっぴろげにピンイン王子を探すと分かっている。
反面、天士ホウレイの兵は、水面下で動く輩だ。慎重に動いて、王子を保護したい集団だと分かっているため、ユンジェは手を打った。
勿論、その場しのぎにしかならないだろう。とりわけクンル王の兵に対しては、通用しない手だろうが、それでも相手を翻弄できたら、と考えている。
「あの森林火災で、俺達が死んだと思ってくれねーかな。そしたら、気兼ねなく町や村に立ち寄れるんだけど」
今のところ、クンル王の兵に動きは無い。
町や村で兵の様子を聞いても、なんら変わりはないと返ってきた。死んだと思い込んでくれているのだろうか?
ティエンがそれを否定する。
「カグム達の話では、クンル王は天士ホウレイの動きで、私の生存を知ったと言っていた。ホウレイが動けば、当然向こうも動く。今は様子見でもしているのだろう。兵を動かすにも金が掛かるからな。それに、父が簡単に諦める性格とは思えない。私の亡骸を目にするまでは、地の果てまで追い駆けてくるだろうさ」
「おっかないんだな。お前の父ちゃん」
控えめに感想を述べる。実の子にそこまで殺意を向ける、クンル王の気持ちが分からない。血を分けた家族ではないのだろうか。
「父は感情の起伏が激しい方だ。それゆえ周囲に恐れられ、いつも機嫌を窺われていたものだ。私も父に会う度に、引っ叩かれていた。お前のせいで、国は不幸続きだ、と罵声を浴びせられていたものだ」
クンル王と並んで罵声を浴びせてきたのは、第二側妃の母だという。
王妃に呪いの子を咎められ、責を問われた母は、ティエンにその怒りをぶつけていたそうだ。