縄を水に浸しに行くティエンと入れ替わりに、カグムが急傾斜の岩にのぼった。続いてユンジェも岩にしがみつき、四苦八苦しながら彼の後に続く。
「ユンジェ。俺の肩に乗れ。あの木に狙いを定めたいんだろう? まったく、お前の準備の良さには舌を巻くよ」
軽々とユンジェを引っ張り上げるカグムが、恐ろしいガキだと苦笑いを浮かべた。褒め言葉と思っておこう。
カグムの肩に乗ったユンジェは、濡れた布縄をティエンから受け取ると、石の結んだ側を先頭にし、頭上で勢いよく回す。
遠心力のついたそれは、出口の先に見える木の太い枝に引っ掛かった。
しっかり引っ掛かったことを確認すると、ユンジェはそれを伝って、急傾斜の岩道をのぼっていく。
ユンジェは歳のわりに身軽だ。ゆえに、太い枝が軋むだけで終わる。
しかし、大人達はそうもいかない。
穴から這い出ると、急いで木の幹に縄を括りつけ、歯と手を使って何重にも硬く結ぶ。
「のぼってきて。火の回りが早いから、なるべく急いで」
合図を送ると、カグムがのぼってくる。次にティエンが引っ張り上げられ、彼の背を支えるようにハオが穴から出てきた。
取りあえず、渓谷は抜け出せた。
けれど、安心はできない。ユンジェ達は地獄から地獄に移っただけである。
周りを見渡せば、どこもかしこも炎の壁。その熱気を吸うだけで、喉の奥が火傷を負いそうだ。
森の中を走るのは、あまりにも危険だと判断したカグムが、皆を連れて渓谷の見える崖を目指した。
渓谷を沿うように走れば、少なくとも火の手から逃れられると思ったのだろう。
妥当な判断だ。
いま、森のどこにいるかも分からないのに、燃え盛る中を走り回るなど自滅行為である。
だが、渓谷が見えた途端、火矢が、石が飛んでくる。西の小山にいる弩(おおゆみ)の兵達がユンジェ達を捉えたのだ。
ユンジェはティエンの腕を引いて、渓谷を沿うように逃げる。火矢や石が飛んできたら、懐剣で弾き、少しでも彼から危険から遠ざける。
渓谷を見やれば、カグム達の仲間が注意を引こうとしていた。
(馬に乗った兵が追って来たな)
小山側に騎兵が見える。
その中には、タオシュンの姿も見受けられた。見る見る先を走る輩は、両崖の距離が狭まっているところに狙いを定め、馬で助走をつける。
(嘘だろ。あいつ、まさか)
颯爽と馬で飛び越えてくる。
こちら側は火に包まれているというのに。それほどまでに、ピンイン王子を仕留めたいのだろうか。
次から次へと飛び越えてくる騎兵に、思わず足を止めた。馬の足はあっという間に、ユンジェ達に追いつく。
カグムとハオが前に出て騎兵の相手を始めるが、猪突猛進のタオシュンは止められそうにない。
ユンジェはティエンを連れて、炎の森に飛び込んだ。
来た道を戻れば、弩兵に狙われる。かと言って、留まればタオシュンにやられる。
輩の残忍さは身を持って体験しているのだ。捕まれば、今度こそ殺されると分かっていた。
(絶対に殺させはしない。ティエンは何もしてない。こいつは、俺と違って何も悪いことをしていないんだ。なんで、死を望まれなきゃいけないんだっ)
ユンジェには分からなかった。
何もしていないティエンが、執拗なまでに死を望まれる、その意味が。
「くそっ、来たか」
馬に乗ったタオシュンが回りこんでくる。片手には大刀が握られており、到底懐剣で太刀打ちできるものではない。
それでも、ユンジェは両手で懐剣を握り、ティエンを背中に隠す。
「ようやく見つけましたぞ、ピンイン王子。そして小僧、よくもわしに傷をつけおったな。この借りは返さねばなるまい」
不敵に笑う熊の顔に、揺るぎない怒りと殺意が宿っている。
昼間のように明るく照らす、炎のせいで、見たくもない顔がはっきりと目に焼き付いてしまった。