それらは水に浸かっても、なかなか消えることはなく、寧ろ水に浸かることで、辺りに煙が発生している。煙筒がそれに拍車を掛けているので、手がつけられない。
 また風向きのせいで、森の炎がこちらにまで伸びている。このままでは危ない、とのこと。

 ユンジェは青ざめた。タオシュンの目論見が分かった。

「あの熊野郎……本気であぶり出しに来やがったな」

 こんな狭い渓谷で、大量の燃えた木が川に落とされたら。それに油が掛けられていたら。更にせき止められた川に落とされてきたら、呼吸を苦しめる煙が発生してしまう。ここの酸素が薄くなる。

 この渓谷は小山と森の切り立った崖に挟まれた場所、風通しは悪い。川はせき止められた。人がいることは容易に想像できる。森には火の手。小山にしか逃げ道はない。

(くそっ。雨の季節でも、よく燃えるように油を撒いたのか。とんでもないことをしてくれる奴だよ。あの熊)

 洞窟に抜け道があればいいのだが、それを探している間に、煙で呼吸困難に陥ってしまいかねない。留まっても地獄、逃げ道を目指しても地獄だ。

「ティエン。口に布を当てておくんだ。走る時は身を低くしろ。煙は上にのぼっていくから」

 何度も頷くティエンは言われた通りに、布を口に当てた。これも一時しのぎにしかならない。一刻も早く渓谷を脱出しなければ。

 カグムは組になって動く兵達に、散って動くように指示する。少しでも、タオシュン達の目を惑わせるようにしているのだろう。

 煙が洞窟まで伸びてきた。
 カグムはユンジェ達の前を走り、小山の道のりを先導する。背後にはハオがいるので、二人は挟まれたような形で走っていた。

 松明もないのに、川を沿うように走れるのは、燃え盛る森のおかげだ。
 見上げれば、炎が夜空で伸びている。焼けていく森の奥では、獣達の悲痛な鳴き声や、羽ばたく鳥達が逃げまどっていた。勢いが強い。

(まずい。本当にまずい。あの炎が明かりになっている。視界が利くってことは、敵にだって視界が利くってことだ。俺達の走る姿が見えてもおかしくねーぞ)

 西の小山に目を向ける。ユンジェは目を見開いた。
 横一列に構えているあれは、タオシュン率いる兵。そして馬に乗る、将軍タオシュンの姿。

(何もかも、タオシュンの思惑通りか)

 ここを通ることを予想していたのだろう。口角をつり上げ、右の手を高く挙げた。

 その瞬間、台座に待機していた兵達が連弩(れんど)を一斉に放つ。連射性の高い連弩は、無数の矢を放ち、ティエンの命を狙う。

 その先端には油紙でも貼り付けているのか、闇夜に炎の直線を描いた。

「ティエン、伏せろ!」

 彼の膝裏を叩き、尻餅をつけさせると、ユンジェは帯にたばさむ懐剣を抜いた。
 矢の軌道を変えてしまうほどの暴風が吹きすさび、天が気高く雄叫びを上げる。勇ましいそれは、麒麟の鳴き声。

 懐剣を通じ、瑞獣が力を与えてくれる。

 それは神秘の力。麒麟が持つ、先を見通す力。敵意を見る力。善悪を見抜く力。

「ユンジェっ!」

 ティエンの呼び声を背に受け、ユンジェは駆け出す。

 彼に向かってくる火矢はすべて、懐剣で弾き落とした。
 所有者に『敵意』を向ける者は、例えどんなものであろうと許さない。それが硬い刃であろうと、速度ある矢であろうと、力のある兵士であろうと。

 ユンジェの使命はただひとつ。所有者を守ること一点に過ぎない。自分はピンイン王子の懐剣(ふところがたな)、守護の懐剣なのだから。