こうして準備を整えていく。使えそうな道具は頭陀袋に仕舞い、足りない道具は作り、それらを分け合って、お互いの持ち物を把握した。
行動を怪しんだカグムが、天幕の内に見張りを置いたが、二人は構うことなく、今後についてよく話し合った。
持ち物を確認する際、ユンジェはティエンの私物を返した。彼の服は燃やしてしまったが、麒麟の首飾りは無事であった。
しかし。ティエンは、あまり良い顔をしなかった。
曰く、それは王族の象徴であり、魔除けだそうだ。農民を名乗る今のティエンには不要なものだという。
とはいえ、国の瑞獣が描かれた麒麟の首飾りを、無暗に捨てるわけにもいかない。
そこでティエンは、これをユンジェの首に通した。ただの農民の子であるユンジェには重すぎるそれを衣の下におさめ、預かって欲しいと頼んでくる。
「これを身につけていれば、必ずや災いから、ユンジェを守ってくれるはずだ。旅の間、肌身離さずつけておきなさい」
だったらティエンがつけておくべきだ。周りから死を願われているのだから。なのに、彼は首を横に振るばかり。
「私には頼もしい麒麟の使いがついている。ユンジェが生きて欲しいと願ってくれるだけで、私は長生きできそうだよ。だから、首飾りはお前が持っておいて欲しい」
「俺はお前より丈夫なのに」
「いいから持っていておくれ。ユンジェ、これも渡しておこう。私の懐剣だ」
首飾りとは対照的に、ティエンは懐剣を預けることには躊躇いがあるようだ。差し出す顔が憂い帯びている。
麒麟の使命により、彼の懐剣となったユンジェではあるが、それを奪ってしまおうという気持ちはない。
ユンジェはティエンに生きて欲しい。だから守りたい。それだけなのだ。大切な懐剣ならば、ティエンが持ったままで良いと思う。
けれども、ティエンは懐剣をユンジェに授けた。麒麟の使いとなったのだから、これはユンジェが持っておくべきだと彼。
ただ、これを授けるにおいて、恐れていることがあると言葉を重ねる。
「ユンジェ、お前は優しい。これを抜けば、お前は人を傷付けることだろう。その都度、重みを背負わねばならない」
彼はユンジェの心を心配していた。
一たび懐剣を抜けば、それは凶器となる。使いようによっては人を守り、人を傷付け、殺めるものとなる。
ユンジェはふたたび人を殺めるやもしれない。業を背負うやもしれない。
憂慮するティエンに、ユンジェは平気だと返事する。それも覚悟の上だと告げた。
「俺はまっとうな人間じゃない。天から裁きを受ける日も、いずれ来ると思っている」
そんな人間に、麒麟は使命を授けた。
だったら、やれることをやりたい。
ユンジェは淡々と語った。声が上擦ったが、誤魔化すように唾を飲み込む。
「ユンジェ。お前はもう、十分に罰を受けている。天はこれ以上の罰を、お前にはお与えにはならないだろう。追い剥ぎは己の行いを返されたんだ」
ティエンは優しい眼を作る。
彼は言う。ユンジェを襲った追い剥ぎは、その子どもの命を奪ってまで金を奪おうとした。
結果、己の行いが返ってきたのだ。
それは自業自得であり、因果応報というもの。仮にユンジェを殺して、金を奪ったとしても、必ずや男に天誅が下ったことだろう。
「お前を傷付けたくない。なのに傷付く運命に巻き込んだ私を、どうか許しておくれ。そして、どうか忘れないでおくれ。お前は私の懐剣。ユンジェの行いは私の行いでもある」
痛みや苦しみ、重みは二人のものだとティエン。懐剣を使用した子供が、それで罪を犯す日が来たとしても、それは一人の罪ではないと彼は言い切った。
優しいのはティエンだと思う。
彼は既に、その軟な背中に数え切れないものを背負っているのに、ユンジェの行いまで背負うという。どうしようもないお人好しだ。
少しだけ気持ちが軽くなった。安心したのかもしれない。でも、それを認めるのがとても悔しく思うので、ユンジェは話を逸らす。
「なあティエン。使命を与えられる時って、どう振る舞えばいいんだ?」
懐剣を受け取る時の言葉を教えて欲しいと頼んだ。
王族は、やたら難しい言葉ばかり使う。受け取る時は、さぞ立派な言葉を使うことだろう。王子の懐剣になるのだから、ユンジェも立派な言葉を使ってみたかった。
「ユンジェ、私は王族を捨てた身なんだが」
農民の身分を謳うティエンに、両手を合わせる。
「いいだろう? 雰囲気だけでも味わってみたいんだって」
「はあ……仕方がないな」
苦笑いを零す彼は、ユンジェに片膝立ちするよう指示した。
己の言葉が終わるまで、頭を上げてはならないと告げると、ティエンは立ち上がり、両の手で懐剣を差し出す。
「ユンジェよ。大いなる麒麟に使命を与えられた、天のつかわしめよ。こんにちより、汝はティエンの懐剣となった。私は天の導きに従い、汝に懐剣と名乗る許可を与える。傍にいることを許そう」
下げていた頭を、そっと持ち上げる。
強い意思を宿した目とぶつかり少しばかり戸惑ったが、懐剣に視線を留めて、恐る恐る両手で持つ。
「拝命いたしました。それが受け取る時の言葉だ」
ユンジェは頷き、初めて聞く言葉をなぞった。
「拝命いたしました。必ずやティエンをお守りすると、最後までお傍にいると誓います」
天幕の内は厳かな空気に包まれる。
雰囲気だけでも味わいたいと始めたものは、確かに誓いを立てる、立派な儀となっていた。
◆◆
その夜、ユンジェは夢を見る。
四方八方、真っ赤な炎に包まれる夢であった。
ユンジェが炎から逃れようと走っていると、逃げまどう麒麟を見掛ける。
天の生き物はうねりを上げる炎に包まれ、焼け爛れていた。美しい毛並みも鱗も角も焼けこげ、爛れていく麒麟は悲痛な悲鳴を上げている。
救いを求めるそれは、やがて断末魔を残して消えた。この世の終わりのような、不協和音を奏でた声であった。
恐ろしい光景に、ユンジェも頭を抱え、喉から血が出るほど悲鳴を上げた。
「ユンジェ!」
ハッと目を開けると、ティエンが満目一杯に映った。
ユンジェは飛び起きる。体中、寝汗をびっしょりと掻いていた。暗い天幕が真夜中であることを教えてくれる。
「ずいぶんと魘されていたぞ。大丈夫か?」
呆然とティエンを見つめる。
彼はユンジェの魘された声に目覚めたようだ。肩で息をする自分に、悪夢でも見たのかと尋ね、何度も背中を擦った。
「あく、む?」
ようやく夢を見ていたことに気付く。
しかし、あれは縁起でもない夢であった。そして、とても生々しい夢だった。まだ麒麟の悲鳴が耳にこびりついている。体が震えて仕方がない。
「よほど、ひどい悪夢を見たんだな。お茶を持ってくるから、それを飲んで落ち着きなさい」
立ち上がるティエンの姿に、夢の炎が重なった。強い衝動に駆られる。まさか。
「ティエン! お前はそこにいろ!」
ユンジェは頭陀袋の上に置いていた懐剣を掴むと、天幕を飛び出した。遠ざかる呼び声を背中に受けながら、洞窟の入り口に立った。
「出たな、クソガキ……中に戻れ。仕事の邪魔だ」
見張りをしていたハオが、眉間に皺を寄せて近寄ってくる。
その手に持っている槍の先端で軽く小突かれたが、夜の外を見つめるユンジェには余裕がない。嫌なほど鼓動が高鳴っている。
「ねえ! この洞窟は渓谷のどの辺り?」
「あ? それを知ってどうするんだ」
「いいから!」
剣幕に押されたのだろう。ハオは頭部を掻き、面倒くさそうに答えた。
「どの辺りって……あーっ、大体真ん中?」
この渓谷は森と小山の間にある。
西を見れば小山、東を見ればユンジェ達が逃げ回った森があり、北から南にかけて急流が流れている、狭い狭い渓谷だそうだ。
しかし、切り立った岩場が多いため、身を隠せる洞窟も多いのだとか。
仮に追っ手が来ても、探し出すことは難しいだろう。
「こんなところだ。満足したか。ガキ」
洞窟が多い渓谷。
ユンジェは顎に指を当てた。
「森の出入り口は吊り橋だけど、小山の方はどうなっているの?」
「まだあんのかよ。出入り口? 確か、緩やかな一本坂じゃなかったか?」
「……この渓谷も一本道だよね」
そうだと気だるく返事するハオが、もういいだろうと突き返す。
早く戻って寝ろ、と命じてくる彼は、明日には出発するのだから、と口を滑らせた。それを濁すように寝ろを連呼する彼は、内心焦っているようだ。
なるほど、王子に心積もりをさせず出発させようという魂胆か。
「森の吊り橋はこっちだよね。松明借りるよ」
ユンジェは岩に挟んであった松明を取ると、急流の流れに沿うように走り始める。ハオが悲鳴を上げ、自分の前に回った。
「てめ! ふざけるんじゃねーぞ。お前のことは、特に目を放すなってカグムに言われているのに」
「俺は逃げねーよ? ティエンを天幕に残しているのに、逃げるわけねーじゃん」
「お前が妙なことをしねーか、それを心配してんだよ。俺は」
「妙なことって、例えば?」
「俺が知るか!」
どうもハオとは気が合いそうにない。会話がずれていく。
「わかった。じゃあ、一緒に来てよ。それならいいだろう?」
素っ頓狂な声を出すハオに、「早くしろよ」と言って、彼の脇をすり抜ける。
ふざけるなと怒鳴り声を上げてくるハオは、ユンジェの律儀に後を追って来た。意外と仕事熱心な奴なのかもしれない。
ユンジェは真っ暗な急流に目を向ける。
ごうごうと音を立てて流れる水の勢いは速い。うっかり足を滑らせて、落ちてしまえば、呑み込まれてしまいそうだ。
ふと、岸に引っ掛かっている流木が視界に入った。足を止めて松明で照らす。
(この木、焦げてる)
触れてみると、生温かった。鳥肌が立ってしまう。
「はあっ。やっと追いついたっ……クソガキ、足が速いんだよ」
「俺はユンジェ。ガキじゃな……ねえ、見てよ。あれ」
ユンジェは松明を持たない手で、東の方を指さす。
怪訝な顔を作っていたハオが、眼を見開いた。向こうの空がうっすらと赤い。まるで暁のようだ。
もう少し、森の方角に近づいてみると、急流の途中から大量の板と縄が流れてきた。それらはきな臭いを放っている。もう疑う余地もなかった。
「森が燃えている。燃やされている――タオシュン達が来る」
広い洞窟は喧騒に包まれていた。
天幕は崩され、たき火には水を掛けられ、兵士達は松明と武器を手に取って首領の下に集まる。慌ただしい音は、いつまでもこだました。
ユンジェは頭陀袋を肩に掛けると、平民の天幕で使用されていた布を裂いて、外衣代わりに羽織った。
簡単に糸で留めた後、ティエンにも同じものを羽織らせ、頭巾の部分ができているかを確認する。
「ティエン。洞窟を出たら、しっかりと布をかぶっておくんだぞ。もし火に襲われたら、まず髪をやられちまうからな」
髪は燃えやすい。それが燃え広がって、顔に火傷を負ってしまうやもしれない。
せっかく天人のように美しい顔をしているのだ。それに傷が入ってしまうのは勿体無い。
また、布をかぶっておけば、少なからず飛んでくる火の粉から目を守れる。ユンジェは再三再四、彼に布をかぶっておくよう注意を促した。
無論、燃えているのは東の森だ。そこへ飛び込むわけではないし、小山に逃げ込めば、火の心配もしなくて済む。
だが、ユンジェは先ほど見た夢を引きずっていた。そのため、ティエンに火の用心をさせていた。
それが終わると、ユンジェはティエンの手を引いて、潰れている天幕の傍にある武器の木箱の荷をあさった。向こうで兵達が集まっている今しか、物をあされる機会がない。
なんだか盗みをしている気分になったが、これは盗みではない。身分の高い王族のティエンから許可を貰ったのだ。許されるだろう。
ユンジェは小ぶりな短弓と矢、そして短剣を取って、ティエンに持たせた。矢筒の紐を結んでやり、数本の矢を入れてやる。
「ユンジェ。お前の分は?」
「俺は懐剣があるからいいよ。それに、ほら、弓が一つしかなくて……あ、ちょっと」
ティエンが箱を覗き込む。
意味深長な目を向けられたので、ユンジェは目を逸らした。
「あんまり多く持っていっても荷物になるだけだから、置いて行こうと思って」
「ふふっ、そうだった。ユンジェは弓が下手くそだったな。忘れていたよ」
「煩い。お前が上手すぎるだけだっ」
洞窟の出入り口にいた兵達がばらけた。
ここにいる者達は数にして十五ほど。二、三人に固まって、夜の外へと出ている。偵察に行ったのだろう。
どさくさにまぎれて、ティエンと逃げ出せないかと思ったが、相手はそう甘くない。
よりにもよって兵を纏めるカグムとハオが、ピンイン王子の護衛に就いた。
ここにいる謀反人の中でも、とりわけ腕が立つらしい。王子の存在の大きさを思い知らされる。ティエンは嫌悪感を惜しみなく出していたが。
偵察の知らせがくるまで待機を強いられたユンジェは棒きれを取って、松明の下で地面に絵を描いていた。
遊んでいるわけではない。考え事を目で分かるようにしているのだ。
それを遊びと見られてしまい、ハオに大層呆れられてしまったが、右から左に聞き流す。
「ティエン。方角って分かる?」
川を描き終わったユンジェは、ティエンに東と西を教えて欲しいと頼んだ。
「何を考えているんだ。ユンジェ」
東と西を書き記したティエンが、絵を覗き込んでくる。
「森を燃やした理由を考えているんだ。あれはタオシュンの仕業とみて、まず間違いない。じゃあ、どうして燃やしたんだろう?」
吊り橋を落としたのだから、逃げ道を塞ぐためだということは分かる。ユンジェは東の森の部分に斜線を引いた。
残る逃げ道は西の小山と、北から南にかけた川。この渓谷は一本道だ。ゆえに大回りをして、北と南を塞がれてしまうと、ここからの脱出が不可能となる。
小山の出入り口は一本坂。
ユンジェがタオシュンであれば、ここを絶好の狩場したいところ。森に逃げ込まれ、身を隠されでもしたら厄介だ。
「森を燃やしたのは、身を隠す場所を減らすため。そして小山の一本坂に誘い込むためか。でも、それだけだとは思えない。俺がタオシュンなら、渓谷のことをよく調べる」
輩はこの渓谷に洞窟が多発していることを、ある程度、把握しているのではないだろうか。身を隠せる場所が多いことも、きっと分かっている。
「私ならあぶり出したいところだな」
ティエンが棒きれを取って、地面に×を記していく。これは洞窟なのだろう。
「渓谷にどれほどの数の洞窟があるか分からないが、それを一つ一つ調べるのは手間だ。獲物が逃げる可能性もある。自分が攻めるより、相手に出てきて欲しいところだ」
あぶり出し。
そうか、タオシュンはあぶり出すつもりなのだ。
森を焼くと、何が出る? 火が出る。炎が生まれる。燃えやすい集まる森は火事となる。それに伴って煙も出る。この渓谷の東側は木々の集合体。これらをすべて燃やせば、大量の煙が発生する。
この煙を利用すれば、洞窟に身を隠す人間を外に出すことができるやもしれない。
しかし現実問題、それは不可能だ。今は雨の季節、火を焚いたとしても雨が降れば、木が湿気てしまう。燃え広がりにくくなる。
(俺がタオシュンなら、この問題をどう解決する。どう乗り越える)
頭をぐしゃぐしゃに撫でられる。目を丸くして、顔を上げるとカグムが見下ろしていた。
「ユンジェ。楽しそうにしてるな。俺も入れてくれよ。どうせ、お前のことだ。遊んでいるわけじゃねーんだろう?」
盗み聞きしていたくせに。ユンジェは白々しいカグムに目を細める。
しゃがんで目を合わせてくるカグムとユンジェの間に、棒きれが投げられた。
危ない、と思う間もなく、ティエンが割って入る。彼は自分の背にユンジェを隠し、「ただの戯れです」と、短く答えた。帯に挟んでいる短剣に手が伸びている。
「カグム、この子に近付かないで頂きたい。私は申し上げたはずです。この子に触れたら、喉を切り裂くと。ユンジェ、こっちに来なさい」
有無言わせない空気に、しどろもどろになりながら場所を移動する。
「はあっ。本当に気丈夫になられましたね。護衛している今だけでも、私を信用して下さりませんか?」
気だるくため息をつくカグムに、ティエンは不快感を示す。
「はっ、冗談も休み休み言ったらどうです? 誰が貴殿を信用しろと? 私だけでなく、ユンジェを利用しようと目論んでいると知っておいて、どうして信用できるのでしょう?」
「利用だなんて人聞きが悪い。私は天士ホウレイさまに、彼を差し上げたいだけですよ。この子は麒麟の使い。ホウレイさまは、さぞお喜びになることでしょう。謀反を目的とする我々にとって、ユンジェは必要不可欠な存在です」
「それを利用と言わず、なんと称しましょうか? カグム」
へらりと笑うカグムと、柳眉を寄せるティエンのせいで、すっかり空気が悪くなる。
仕方のない話だ。この二人には埋めきれない、深い溝がある。ティエンにとってしてみれば、カグムの存在は腹立たしくもあり、不気味でもあることだろう。
しかし。このままでは息苦しい。とても息苦しい。
ユンジェは、なんとなく傍にいるハオに視線を投げた。向こうも、大変息苦しいと思っていたのだろう。気まずそうに視線を向けてくる。
「そういえばお前、なんで外に飛び出したんだ? あれがあったから、事態に気付いたわけだが……」
ユンジェは喜んで話に乗った。この空気が壊せるのであれば、小さな話でも盛り上げてみせる。
「麒麟の夢を見たんだ」
「はあ? 夢で飛び出したのかよ」
うそは言っていない。本当のことだ。
ユンジェは夢を思い出し、身震いをした。あれは今思い出しても、恐ろしいものであった。瑞獣である麒麟が焼け爛れていく、なんて。
偵察から戻って来た兵が、血相を変えて戻って来る。
「カグム、川がせき止められた。そこに大量の煙筒と木々が放り込まれている。それも、燃え盛った木だ! 奴等、油を使ってやがる!」
それらは水に浸かっても、なかなか消えることはなく、寧ろ水に浸かることで、辺りに煙が発生している。煙筒がそれに拍車を掛けているので、手がつけられない。
また風向きのせいで、森の炎がこちらにまで伸びている。このままでは危ない、とのこと。
ユンジェは青ざめた。タオシュンの目論見が分かった。
「あの熊野郎……本気であぶり出しに来やがったな」
こんな狭い渓谷で、大量の燃えた木が川に落とされたら。それに油が掛けられていたら。更にせき止められた川に落とされてきたら、呼吸を苦しめる煙が発生してしまう。ここの酸素が薄くなる。
この渓谷は小山と森の切り立った崖に挟まれた場所、風通しは悪い。川はせき止められた。人がいることは容易に想像できる。森には火の手。小山にしか逃げ道はない。
(くそっ。雨の季節でも、よく燃えるように油を撒いたのか。とんでもないことをしてくれる奴だよ。あの熊)
洞窟に抜け道があればいいのだが、それを探している間に、煙で呼吸困難に陥ってしまいかねない。留まっても地獄、逃げ道を目指しても地獄だ。
「ティエン。口に布を当てておくんだ。走る時は身を低くしろ。煙は上にのぼっていくから」
何度も頷くティエンは言われた通りに、布を口に当てた。これも一時しのぎにしかならない。一刻も早く渓谷を脱出しなければ。
カグムは組になって動く兵達に、散って動くように指示する。少しでも、タオシュン達の目を惑わせるようにしているのだろう。
煙が洞窟まで伸びてきた。
カグムはユンジェ達の前を走り、小山の道のりを先導する。背後にはハオがいるので、二人は挟まれたような形で走っていた。
松明もないのに、川を沿うように走れるのは、燃え盛る森のおかげだ。
見上げれば、炎が夜空で伸びている。焼けていく森の奥では、獣達の悲痛な鳴き声や、羽ばたく鳥達が逃げまどっていた。勢いが強い。
(まずい。本当にまずい。あの炎が明かりになっている。視界が利くってことは、敵にだって視界が利くってことだ。俺達の走る姿が見えてもおかしくねーぞ)
西の小山に目を向ける。ユンジェは目を見開いた。
横一列に構えているあれは、タオシュン率いる兵。そして馬に乗る、将軍タオシュンの姿。
(何もかも、タオシュンの思惑通りか)
ここを通ることを予想していたのだろう。口角をつり上げ、右の手を高く挙げた。
その瞬間、台座に待機していた兵達が連弩を一斉に放つ。連射性の高い連弩は、無数の矢を放ち、ティエンの命を狙う。
その先端には油紙でも貼り付けているのか、闇夜に炎の直線を描いた。
「ティエン、伏せろ!」
彼の膝裏を叩き、尻餅をつけさせると、ユンジェは帯にたばさむ懐剣を抜いた。
矢の軌道を変えてしまうほどの暴風が吹きすさび、天が気高く雄叫びを上げる。勇ましいそれは、麒麟の鳴き声。
懐剣を通じ、瑞獣が力を与えてくれる。
それは神秘の力。麒麟が持つ、先を見通す力。敵意を見る力。善悪を見抜く力。
「ユンジェっ!」
ティエンの呼び声を背に受け、ユンジェは駆け出す。
彼に向かってくる火矢はすべて、懐剣で弾き落とした。
所有者に『敵意』を向ける者は、例えどんなものであろうと許さない。それが硬い刃であろうと、速度ある矢であろうと、力のある兵士であろうと。
ユンジェの使命はただひとつ。所有者を守ること一点に過ぎない。自分はピンイン王子の懐剣、守護の懐剣なのだから。
ただの棒きれとなった矢を足で小突き、上唇を軽く舐める。ひとまず、ティエンに向かう火矢は弾き落とせたようだ。
前から乾いた笑いが聞こえる。犯人はカグムであった。
「あの速度の矢を叩き落とすなんて、さすが麒麟から使命を授かった者。短剣を折られた時から覚悟はしていたが、これは想像以上だ。ホウレイさまが喜びそうだな」
背後ではハオが冷や汗を流している。
「おい、おい……本当に麒麟の使いだったのかよ。俺はてっきり、猪口才なことばっかりするクソガキとばかり。しかし、あの動きは化け物だろ」
どうやら、常人離れの動きをしているらしい。自覚は無い。頭の中は守ることで一杯だ。
連弩から放たれる火矢は雨あられのように降ってくる。
矢にまじって、石が飛んできた。列をなす兵の中に、弩を持つ者がいるのだろう。
さすがに、大きな石は細い懐剣では弾けず、持ち手の腕に食い込んだ。
痛みすら念頭にない。
ユンジェは考えた。どうすれば、この状況を打破できるかを。よく考えろ。敵はネズミが袋小路になったと油断しているはずだ。
(何かないのか? 何かっ、あ)
ふと、燃え盛る炎のうねりに乗った、風の動きの微かな変化に気付く。煙のおかげで、空気の流れが目に見えて分かる。
熱気を帯びたそれは、狭い洞窟の隅々にまで手が伸びている。
その中で、一つだけ煙を吸い込む穴を見つけた。
(あそこ洞窟……まさか)
連弩の列の先、森側にある奥の狭い洞窟に目を眇めると、ユンジェは踵を返して、ティエンの下へ向かった。
「ティエン。あそこまで走りたい」
火矢を懐剣で弾き、顎でしゃくる。
聡いティエンはそれだけで、すべてを理解したのだろう。短弓を持つと、矢を弓弦に引っ掛けた。
「頼む。届いてくれ」
その一声と共に、ティエンの手から矢が離れる。
闇夜を切り裂き、一直線に進む、それはタオシュンの乗る馬の首に刺さった。痛みにわななく馬が、二足立ちになった。兵達の気がそちらに流れる。
鳴き声を合図にユンジェはティエンの腕を引いて走る。
後からカグムとハオが追って来た。各々連弩の火矢の餌食にはなっていないようだ。それが飛んで来ても、紙一重に避けている。優秀な腕前と言われるだけあるものだ。
自由の利く弩の兵が、崖の真下を走るユンジェ達に狙いを定める。
拳ほどある石からティエンを守るため、ユンジェは己の着ている布を取ると、それを広げて敵の視界を覆った。
また、それを大きく振って石の軌道を少しでも逸らす。子ども騙しだろうが、やらないよりかはマシだ。
目的の洞窟に飛び込む。
真っ暗な穴の奥に、橙の光が見えた。ユンジェは天井を見上げ、毒蛇が潜んでいないか確認すると、ティエンと共に奥を目指した。
おうとつの激しい石と砂利の道は濡れていた。水の音が聞こえるので、どこかで湧水が発生しているのだろう。
「見えた。出口」
ユンジェは天を見上げた。
急傾斜になっている先に、微かに見える橙の明かり。あれは炎だ。
この洞窟は燃え盛る東の森と繋がっている。
タオシュンらは安全な西の小山側に陣形を取っているのだ。進むべき道は、もうここしかない。
しかし。急傾斜の岩道が行く手を阻んでいる。
(あそこに木が見える。使えるな)
ユンジェは目を細め、まだ火が回っていないことを確認すると、懐剣を口に銜え、頭陀袋から布縄を取り出す。
それの先端を刃で切り、重みのある石を拾って、何重にも巻いていく。
その横でティエンが己の頭陀袋から布縄を出し、両端をしっかりと結んだ。何をやろうとしているのか、ユンジェの動きで察したのだろう。
「ハオ。そこらへんに水たまりか、水場はない?」
最後尾で敵の動きを見張るハオが周囲を見渡し、手探りで地面を触る。
「俺の真後ろに水たまりがある」
「ティエン。縄を濡らしてくれ。水に濡らすと、結び目が解きにくくなる」
縄を水に浸しに行くティエンと入れ替わりに、カグムが急傾斜の岩にのぼった。続いてユンジェも岩にしがみつき、四苦八苦しながら彼の後に続く。
「ユンジェ。俺の肩に乗れ。あの木に狙いを定めたいんだろう? まったく、お前の準備の良さには舌を巻くよ」
軽々とユンジェを引っ張り上げるカグムが、恐ろしいガキだと苦笑いを浮かべた。褒め言葉と思っておこう。
カグムの肩に乗ったユンジェは、濡れた布縄をティエンから受け取ると、石の結んだ側を先頭にし、頭上で勢いよく回す。
遠心力のついたそれは、出口の先に見える木の太い枝に引っ掛かった。
しっかり引っ掛かったことを確認すると、ユンジェはそれを伝って、急傾斜の岩道をのぼっていく。
ユンジェは歳のわりに身軽だ。ゆえに、太い枝が軋むだけで終わる。
しかし、大人達はそうもいかない。
穴から這い出ると、急いで木の幹に縄を括りつけ、歯と手を使って何重にも硬く結ぶ。
「のぼってきて。火の回りが早いから、なるべく急いで」
合図を送ると、カグムがのぼってくる。次にティエンが引っ張り上げられ、彼の背を支えるようにハオが穴から出てきた。
取りあえず、渓谷は抜け出せた。
けれど、安心はできない。ユンジェ達は地獄から地獄に移っただけである。
周りを見渡せば、どこもかしこも炎の壁。その熱気を吸うだけで、喉の奥が火傷を負いそうだ。
森の中を走るのは、あまりにも危険だと判断したカグムが、皆を連れて渓谷の見える崖を目指した。
渓谷を沿うように走れば、少なくとも火の手から逃れられると思ったのだろう。
妥当な判断だ。
いま、森のどこにいるかも分からないのに、燃え盛る中を走り回るなど自滅行為である。
だが、渓谷が見えた途端、火矢が、石が飛んでくる。西の小山にいる弩(おおゆみ)の兵達がユンジェ達を捉えたのだ。
ユンジェはティエンの腕を引いて、渓谷を沿うように逃げる。火矢や石が飛んできたら、懐剣で弾き、少しでも彼から危険から遠ざける。
渓谷を見やれば、カグム達の仲間が注意を引こうとしていた。
(馬に乗った兵が追って来たな)
小山側に騎兵が見える。
その中には、タオシュンの姿も見受けられた。見る見る先を走る輩は、両崖の距離が狭まっているところに狙いを定め、馬で助走をつける。
(嘘だろ。あいつ、まさか)
颯爽と馬で飛び越えてくる。
こちら側は火に包まれているというのに。それほどまでに、ピンイン王子を仕留めたいのだろうか。
次から次へと飛び越えてくる騎兵に、思わず足を止めた。馬の足はあっという間に、ユンジェ達に追いつく。
カグムとハオが前に出て騎兵の相手を始めるが、猪突猛進のタオシュンは止められそうにない。
ユンジェはティエンを連れて、炎の森に飛び込んだ。
来た道を戻れば、弩兵に狙われる。かと言って、留まればタオシュンにやられる。
輩の残忍さは身を持って体験しているのだ。捕まれば、今度こそ殺されると分かっていた。
(絶対に殺させはしない。ティエンは何もしてない。こいつは、俺と違って何も悪いことをしていないんだ。なんで、死を望まれなきゃいけないんだっ)
ユンジェには分からなかった。
何もしていないティエンが、執拗なまでに死を望まれる、その意味が。
「くそっ、来たか」
馬に乗ったタオシュンが回りこんでくる。片手には大刀が握られており、到底懐剣で太刀打ちできるものではない。
それでも、ユンジェは両手で懐剣を握り、ティエンを背中に隠す。
「ようやく見つけましたぞ、ピンイン王子。そして小僧、よくもわしに傷をつけおったな。この借りは返さねばなるまい」
不敵に笑う熊の顔に、揺るぎない怒りと殺意が宿っている。
昼間のように明るく照らす、炎のせいで、見たくもない顔がはっきりと目に焼き付いてしまった。
こめかみから汗が流れ落ちる。熱気が凄まじい。火の粉が肌を焼く。呼吸すら難しいほど、ここは灼熱であった。
なのに、タオシュンは顔色一つ変えず、馬に乗っている。こいつは本当に人間だろうか。ユンジェは、つい相手のことを疑ってしまう。
「将軍タオシュン。どこまでも、しつこい男だな」
ティエンが苦言した。
ほう。タオシュンが大げさに驚いてみせる。
「これはこれは。ピンイン王子、ついに声が戻りましたか。呪いが解けているのは、やはりその小僧の仕業ですかな? であれば貴方様の懐剣を抜いた、呪われし使いを目の前で八つ裂きにしてやらねばなりますまい」
そう言ってタオシュンが馬の腹を蹴り、大刀でユンジェ達を薙ぐ。
受け止めることができなかった刃は、迷うことなくユンジェを貫こうとした。地を蹴って、大刀から逃れようとするが、輩は幾度も前に回ってくる。
そこまでして、ティエンを苦しめたいのか。
「呪いとかなんとか言っているけど、ティエンが一体何をしたんだってんだ。今まで、ずっと閉じ込めていたんだろう?」
前に転がり、馬から逃れる。ティエンが弓を構えると大きく旋回した。輩の視野の広さに舌打ちを鳴らしたくなる。
タオシュンが鼻を鳴らした。
「お前は無知な謀反人だな。これは国を亡ぼす者だというのに」
まったく理解ができない。
この軟な男がどう国を亡ぼすというのだ。彼に国が亡ぼせるというのなら、ユンジェにだってできそうである。
なにせ、彼よりも力があり、生きる術も多く知っているのだから。
しかし、タオシュンは言う。
ピンイン王子が生まれてから飢饉、渇水、流行り病など、不幸が止まない。
麟ノ国は昔に比べ、確実に衰退している。
これは偶然ではない。呪いという名の必然な不幸事。忌み嫌われる王子は、この世にいるだけで国の者に地獄を見せる。
「今もそうだ。こやつがいたことで、時期にこの土地は亡ぶ」
「はあ? どういう意味だよ。この森を燃やしたのはお前の……おい、まさか」
タオシュンが高笑いを上げた。亡ぶのだと謳う将軍は今頃、町や農民の集落にも火の手が伸びているだろう。そう言って青褪める二人を嘲笑する。
「火をつけたのはっ、森だけじゃなかったのか」
農民の集落、ということは世話を焼いてくれたトーリャの家もきっと。ああ、なんてことをしてくれたのだ。この熊男。
「隠れた王子を探すのは手間でな。火をつけて、あぶり出したまでよ。無論、これは許された行為。我らが君主、尊きクンル王はどのような手を使っても良い、と仰ったのだから」
それに、これは当然の報いだとタオシュン。
この地は呪われた王子の身を一年も、隠し通していた。
それは麟ノ国に対する謀反と言っても過言ではない。所詮、地図に薄く載った小さな町だ。消えたところで、国には何ら支障が無い。
なにより麟ノ国を脅かす呪われた王子を始末することが、最優先すべき正義だ。輩は陶酔したように誇り高く語る。
「ピンイン王子、お分かり頂けますかな。貴方様が生き続けるだけで、ひとつの町が消え、森が消え、人が消えるのです」
同意を求めるタオシュンに、ティエンの体が震えた。恐怖からくるものではない。怒りからくるものだ。
「己の行いすら、貴様は私の呪いと謳うか」
「やむをえないことです。いつの時代にも、犠牲というものはございます」
国が亡ぶより、小さな土地が亡んだ方がずっと良い。呪いは小さな犠牲で食い止める。これは君主の英断である。
タオシュンは口を歪曲につり上げた。
ユンジェは腹を抱えて笑いたくなった。
ピンイン王子をひとり殺すために、町や森、人を犠牲にする。それを王子の呪いと称する。
単なる責任転嫁ではないか。呪いでも何でもない。これは目に見えた人災だ。
責を負わされるティエンは、なんて哀れなのだろう!
「そうか。これは私の呪いが齎した結果か」
ふらりとタオシュンと向かい合ったティエンが、構えていた弓を下ろす。