「普通、ティエンに柳葉刀を突きつけていた奴が、味方だとは思わないじゃんか」

 小声で文句を零す。
 それが彼の耳に届いたのか、ハオは御盆を落とすと、大股でユンジェに歩み寄り、胸倉を掴んで持ち上げた。せっかく剥いた白梨が床に落ちてしまう。足が浮いた。

「ばか! 何をしているんだハオっ、王子の御前だぞ!」

 カグムの怒声すら、頭に血がのぼっているハオには聞こえていない。
 ユンジェの胸倉をぎりぎり握り締め、「小癪な真似しやがって!」と、前後に激しく揺すってくる。

「貴様のせいで、こっちの計画は滅茶苦茶になったんだ。くそ、ピンイン王子を密かに保護するはずがっ……お前のせいで、タオシュンに間諜をばらす事態になった。クソガキ、どうしてくれるんだっ!」

「ティエンの顔を殴ったくせに、何が密かに保護だよっ」

 息が苦しくなってきた。この男、絞め殺すつもりか。

「あれは俺がしたんじゃねーよ! 農民のくせに、王族の天幕で飯なんか食いやがって。身分を弁えろっ!」

 そんなことを言われても、これはユンジェの意思ではなく、周りが勝手に与えてくれたものなのだが。
 許可はちゃんと取っているのに、どうしてこんな扱いをされなければいけないのだろう。

 ハオがユンジェを連れて、天幕の入り口へ向かう。

 農民をさっさと王族の天幕から放り出すつもりなのだろうが、それを見逃すティエンではない。
 彼の目を見たユンジェは顔色を変え、落ち着くよう必死に両手を出して訴えるが、彼はハオ以上に頭に血をのぼらせていた。

「てぃっ、ティエン! 大丈夫、俺は大丈夫だから!」

 ゆらりと立ち上がる彼は、ハオの帯に差している双剣に目をつけ、相手に体をぶつける。
 そして、それを素早く抜くと、ぎょっと驚くハオに向かって双剣を投げた。

 忘れないでほしい。ハオのすぐ傍には、ユンジェもいることを。

(お、お前は俺を殺すつもりかっ!)

 危うく刺さりそうになった双剣は、それぞれユンジェとハオの足元に転がる。二人は千行の汗を流し、ぎこちなく床を見つめた。

「ユンジェを放せ、今すぐに。その子は私の命の恩人、大切な繋がりだ」

 なんとか追い出されずに済んだユンジェだが、正直平民の天幕に戻りたい気持ちでいっぱいとなった。

 身分をとやかく言われたためではない。
 ここの空気が、最悪に入り乱れているせいだ。

 片や地の底まで機嫌を落としたティエン。
 片や青い顔で、王子に頭を下げ続けるハオ。共に詫びる兵達。
 無言で白梨を剥く自分。

 様々な思いが交差しているせいで、天幕の内の空気は荒れに荒れていた。ここは贅沢で寝心地良いが、なぜであろう、地獄であった。平和な天幕に戻りたい。

(参ったな。今の騒動でティエンのやつ、すっかり人間不信に陥っている。兵士不信って言うべきか?)

 ユンジェは薄々と彼の異変に気づいていた。

 農民として気丈に振る舞っているティエンだが、内心は兵士に強い不信感を抱いている。それこそ兵士達が用意した食事を、無意識に拒絶してしまうほど。

 近衛兵達に襲われた恐怖の杭が、心に深く突き刺さっているのだろう。

 米粥が喉を通らなかったのも、そういった理由があるに違いない。

 思えば、ティエンはユンジェと暮らす一年の間、殆ど周囲に顔を隠していた。誰とも親しくなろうともせず、心を開く素振りも見せなかった。

 敢えて言うなら、農民のトーリャくらいだろうか。
 気さくな彼女には、少しだけ笑みを向けることもあったが、積極的に交友を深めようとはしなかった。

 今まで仕事に追われ、気づけなかったが、彼は強い人間不信に陥っているのだろう。周りから死を願われ続け、本当に殺されかけたのだから、そうなっても仕方があるまい。

(畑仕事をしている時は、食っていかなきゃって思ってたから、不信になる余裕もなかったんだろうけど)