カグムの叱責よりも先に、懐剣の刃がハオの左腕に狙いを定めた。

 ハオは舌を鳴らし、瞬時に外衣を靡かせて、子どもの視界を奪った。これでも兵士の端くれ。戦を踏んだ数は、遥かにユンジェよりも多い。

 相手が怯んだ隙に、胴を蹴り押して距離を取る。

 すかさず、刀を逆手に持ったカグムが、体勢を崩したユンジェに一撃を喰らわせようとするも、突風に邪魔されて失敗に終わってしまう。その頃合いの良さは、まるで子どもに天の加護が宿っているよう。

 それだけでも畏怖の念を抱いてしまうのに、カグムは後ろへ飛躍するユンジェの身なりを見て、思わず息を呑んでしまう。

 ユンジェの足元にぽたぽた、ぽたぽた、と絶え間なく血の粒が落ちている。それは、先ほどセイウを庇った時に負った傷だろう。近くで見てはじめて分かる。ユンジェの傷は深い。

 それはつらく、苦しい痛みだろうに、子どもは涼しい顔で懐剣を構えた。


「ユンジェ。いまのお前は……痛むことすら許されないのか」


 依然、表情を崩さない子どもは目を眇め、「主君に逆心を向ける者はみな醜い」と、小さく呟いた。

 さらに子どもは続けて言葉を重ねる。なんびとも、このリーミンの目を誤魔化すことはできない。その悪意も、憎悪も、邪な心もすべて両の目でお見通しなのだから。

 ゆえに、主君にとって不利益になる、汚らわしいものはすべて斬り捨てる。すべて、すべてっ!


「っ……ユンジェ、正気に戻れよ!」

「サンチェ。前に出るな!」


 我慢がならなかったのだろう。
 カグムの脇をすり抜けたサンチェが、なりふり構わず、ユンジェに掴みかかる。

「お前ずっと、兄さんに会いたいって言っていたじゃないか! そこにいるのはお前の兄さんだっ! 悪意なんだか、邪な心なんだか知らないけど、その目が澄んでいるなら、しっかり兄さんを見ろよ! 俺はお前の願いを叶えたんだぞ!」

 絹衣の胸倉を掴んで大きく揺する。その勢いは衣を破くほど、強いものであった。

 しかし。ユンジェは鬱陶しいと言わんばかりに、サンチェの体を引き倒すと、馬乗りになり、両手で懐剣を握って振り下ろした。その殺意は本物であった。



「ユンジェ――っ!」



 誰もが目を瞠る。
 懐剣を突き刺そうとした、ユンジェの左肩に太い鉄鏃(てつやじり)が刺さっている。元々傷を負っていた左肩に深く突き刺さるそれを放ったのは誰でもない、ティエンであった。

 あのティエンがユンジェに弓を放ち、子どもに傷を負わせたのだ。
 それはカグムやハオにとって信じがたい光景ほかならない。それだけ、ティエンはユンジェを大切に思っているのだから。

 彼は構えていた弓づるを下ろすと、くしゃりと顔を歪めて、左肩を押さえるユンジェに命じる。

「ユンジェ、それを下ろしなさい。所有者の……主君であるティエンの声を聞きなさい」

 傷を負ったのはユンジェであるが、表情を変えない子どもの代わりに、痛みに顔を歪めていたのはティエンであった。


「お願いだから。私の声を聞いてくれ、ユンジェ」


 すると。能面のユンジェが懐剣を握ったまま、ゆるりと左の手を帯へと伸ばす。そこには布と紐に縛られたもうひとつの懐剣。

 ティエンは気づく。あれは自分の懐剣だ、と。

 こちらへ視線を流したユンジェと目が合う。

 その目を見た途端、ティエンはなりふり構わず駆け出した。が、すでにユンジェの眼には強い敵意が戻っており、馬乗りにしているサンチェから飛び下りるや、太極刀で斬り込んでくるカグムの一撃を受け止めた。


「待て。待ってくれ、カグムっ!」


 悲願するティエンを嘲笑うかのように、通りの向こうから青州兵がやって来る。
 先導を切る近衛兵チャオヤンを見つけると、「ちっ。厄介な奴のお出ましだ」と、カグムは大きく舌を鳴らした。ユンジェの懐剣を受け流すと、背中を向けて走り出す。

「ハオ! サンチェを連れて来い!」

 そう言うと、カグムはティエンの腕を掴み、目的のユンジェをその場に置き去りにした。あまりにも分が悪い、と判断したのだろう。

 それはハオも同意見のようで、サンチェの襟首を掴むと、無理やり立たせて走り始めた。

「ゆ、ユンジェは」

 振り返るサンチェが背後を指差す。

 向こうでは、すでに数人の兵士に囲まれているユンジェの姿。
 逃げる自分達を追い駆け、その懐剣で斬るために、兵士の制止も聞かず左肩に刺さった矢を躊躇いなく抜いている。よほど邪魔だったのだろう。大量の鮮血が流れても、なお兵士らの囲いから飛び出そうとしていた。


「ユンジェっ。ユンジェ!」

「振り返るんじゃねえよっ。いまは逃げることだけ考えろ。いまは、それしか手がねえんだ。それしか」


 分かっている。ハオの言いたいことは分かっている。それでも。
 とうとうサンチェは、断腸の思いでユンジェから目を逸らしてしまう。友達を助けるはずが、なぜこんなことに。泣きたくなってしまった。



 一方、ティエンは下唇を噛み締めながら小さくなるユンジェを目に焼き付けると、いっそう走る足を速めた。戸惑いながら走るサンチェとは対照的に、振り切るように足を動かす。


(ユンジェ。お前はこんな時も、こんな時すらも、私を“守”ろうとしてくれるのだな。すまない、本当にすまない。私はお前を迎えに来たというのに)


 周りの誰も気づいていないようだが、ティエンだけは子どもの隠された想いに気づいている。気づかないわけがない。
 一年間、口が利けなかった自分は、ずっとユンジェと目で会話していたのだ。それが寸時であろうと、子どもの想いは読み取れる。確かな自信があった。