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客間の入り口に溜まっていた液体は水、ではなく椿油であった。輩は王族が無防備に入ってきたところで火矢を放ち、油に火を点けるつもりだったに違いない。
綿密に計画されていたのだろう。
王族の絹衣の裾が油に浸るよう油の量は多め、客間の窓を開けておき、いつでも火矢を放てるよう、枇杷の木に身を潜めていたのだから。
おおよそ輩はグンヘイの屋敷に奉仕している者だと考えられる。屋敷の構造をよく知る者でなければ、この犯行はしごく難しい。
一端の小僧であるユンジェがそう思うくらいなのだから、当然大人のセイウらも同じことを考えている。
「此度の件は、お前が目論んだことではないのか。麒麟の使い」
なのに、そうではないと異論を唱える者がいた。将軍グンヘイだ。なんとこの男。セイウの下へ戻ったユンジェにあらぬ疑いを掛けてきたのである。
主の下へ戻る間にチャオヤンから半ば強引に湯浴みをさせられ、従者どもに体を磨かれるという、死ぬほど恥ずかしい思いをしたのだが、それはさておき。
将軍グンヘイはユンジェに疑心を向けていた。
曰く、真っ先に異変に気づき、まるでセイウが襲われることを予期していたかのように、いち早く走ったことに違和感があるとのこと。
目論見があったのでは、主君の命を狙ったのでは、なんぞとんだ言い掛かりをつけられたので、ユンジェは呆れを通り越して感心する。
そんなことできたら、とっくにセイウの下から逃げている。
「確かに貴様はセイウさまの懐剣。しかし、王位簒奪を目論んだ第三王子ピンインの懐剣でもある。持ち前の忠誠心を逆手に取り、油断を誘うことも可能だ。聞くに麒麟の使いは、王族に刃が向けられないそうではないか。ならば、手の込んだ策に乗り出すのもごく自然な話だとは思わんか?」
たいへん不自然なこじつけに聞こえるのは、ユンジェの理解力に問題があるせいだろうか。ついつい首を捻ってしまう。
将軍グンヘイは一件を第三王子の差し金だと主張したいようだが、なんというか、強引な言い分にしか聞こえない。
この男は第三王子がユンジェに命じて、第二王子の暗殺に一役買わせた、と結び付けたいのだろうが、やっぱり無理がある。
ユンジェがセイウを守った時点で、すでに暗殺は失敗に終わっているのだから。
「この屋敷に初めて来たから、俺がセイウさまを暗殺するのは難しいと思うよ」
当たり障りのない反論をしてみるが、「下調べをしていたに違いない」と、つよい口調で決めつけられた。隙あらばひっ捕らえる気満々である。
(グンヘイは俺を敵視しているのか? やたら突っかかってくるな)
あらぬ容疑をかけられているユンジェは、熱弁するグンヘイの主張を他人事のように話を聞いていた。
下手をすれば、牢に放られる事態なのだが、的外れな言い掛かりのおかげさまで、まったく危機感を抱かずに済んでいる。
尤も、牢に放られた方が気持ちとしては楽ではあるが。
(俺が農民のガキだから、強引に主張が通せるとでも思ってるのか? だとしても、まずセイウを納得させないと、主張も無意味だと思うんだけど)
グンヘイの傍では、ユンジェの髪を結い終わった侍女らが、頭に瑪瑙の珠がついた簪を挿してくる。
二人がかりで鏡越しにユンジェの姿に目を配り、うつくしくなったことを確認していた。また贅沢な格好をさせられてしまった。股が分かれていない絹衣は動きにくくて仕方がない。
「磨き終えたのならば、リーミンをこちらへ連れて来なさい」
一声によって侍女らが深々と頭を下げた。
彼女らは命じられた通り、磨き終えたユンジェをセイウの下へ連れて行くと、敷物の上で片膝を立てる王族の前で膝を折らせた。
「やっと、うつくしくなりましたね。やはり、私の懐剣はこうでなければ」
平伏するユンジェの頭を上げさせ、セイウは己の髪を人差し指に絡めた。
貧相な顔立ちは相変わらずだ、なんぞと落胆されたことについては、ほっとけ、と悪態をついてやりたい。ユンジェは舌打ちを鳴らしたくなった。
「セイウさま。まだ麒麟の使いの容疑が晴れておりませぬ。お傍に置くのは、たいへん危険でございます。いま一度、わたくしめにその子どもを預けては頂けないでしょうか?」
敷物の向こうで片膝をつく将軍グンヘイを一瞥するも、セイウの興味は懐剣に注がれている。
ユンジェの手を取り、爪を確認するや、「磨き足りませんよ」と、言って侍女を呼びつけた。収集物は徹底的に美しくしておきたいのだろう。
それが終わると、セイウはようやっとグンヘイに返事する。
「将軍グンヘイ。私にまこと忠誠心があり、我が身を案ずるのであれば、リーミンを見張る許可を下ろしましょう。その心がまことならば」
「なんと! セイウさま。僭越ながら、我が心を疑われるのは遺憾にございます。なにゆえ、そのようなことを」
「件は屋敷内で起こったこと。構造を熟知している者でなければ、やや難しい犯行と言えましょう。当然、我が身を狙われた私は、屋敷の所有者に疑心を向けるもの。違いますか? グンヘイ」
懐剣の子どもに疑心を向ける理由は分からないでもない。
されど、屋敷の所有者に疑心を向けてしまうのも、ごくごく自然な話ではないか。セイウは柔らかな口調で詰問した。
鼻の穴を膨らませ、鼻息を荒くするグンヘイの姿に、ユンジェは少しだけ笑いそうになってしまう。
セイウの味方をするつもりはないが、みなしごの子らを想うと、グンヘイの面喰った顔にいい気味だと思ってならない。
「また仮にリーミンが暗殺を企てたとしても、私の前では通用しないでしょう。グンヘイ、これを私の前で持ってみなさい」
セイウが己の懐剣をチャオヤンに渡し、それを持ってみせろ、とグンヘイに命ずる。
言われた通り、懐剣を抜くため、それを右の手で受け取ったグンヘイは野太い悲鳴を上げた。懐剣に触れた右手は軽い火傷を負っていた。皮膚が真っ赤になっている。