闇夜に消えるリャンテの背を、いつまでも見送るティエンは美しい顔を崩すこともなく、冷たい言葉で返事する。


「どんな姿? あの男は何を言っている。ユンジェの姿を決めるのは、ユンジェ自身だ。所有者の私ではない。あの子は物ではない」


 そう。これこそが、ティエンがユンジェに望むこと。国に望む姿なんぞティエンの知ったことではない。

 ユンジェは国のものではない。あの子自身のものなのだ。どうして、王族の者は口々にあの子を物扱いにするのか。ユンジェの意思を誰も尊重しないのか。

(私とユンジェの関係は、王族どもから見れば誤りなのかもしれない。しかし、主従となり物扱いする関係が、正しい関係ならばあれば、私は誤ったままで良い。不愉快だ)

 あの子は辛抱強いから、子どもの分までティエンが腹を掻いておくことにする。きっと、ユンジェに言えば、「怒っても仕方がないさ」と、言って笑うだろうから。

 ティエンは草深い森から目を放すと、早足で太極刀を収めるカグムの腕を掴み、強引にたき火の前に座らせる。なんだよ、と文句を投げられるが、ティエンは構わず彼の左腕を隅々まで確認した。


(手の甲が斬れている。軌道を変えた時か)


 ばかな男だ。呪われた王子のために傷を作るなんて。

 ティエンはハオに傷の深さを診てもらい、縫うべきかどうかを尋ねる。必要であれば、針を煮沸消毒するつもりであった。
 彼から必要ない、と診断が下ると、ティエンは自身の手で治療をしたいと申し出る。二人からすこぶる驚かれた上、カグムから傷を酷くされそうだ、と嫌味を投げられ、遠慮されてしまった。

 普段であれば、食い下がっているところだが、ティエンはカグムから目を放し、ハオに頼み込む。どうしても自分の手でやってみたかった。

 願いが通ると、ティエンは塗り薬と包帯の扱い方を習い、手本を見せてもらいながら、カグムの手当てをする。

 とりわけ包帯の巻き方に苦戦したものの、初めてにしては上出来であった。
 ハオにも悪くはないと言われたので、離宮にいた頃よりも手先の器用さは上がっているようだ。これもユンジェのおかげだろう。


「一体、肚の内に何を隠しているのでしょうかね。まさか、ティエンさまから手当てを施してもらうなんて」


 明日は雨やもしれない。カグムの煽りに、ティエンは微苦笑する。毒を吐く気にもなれない。


「あの頃も、こうやってお前に手当てをしてやれば良かったな。昔の私はなんでもかんでも、お前にしてもらうだけの男だったから」


 もしかすると、それが友の負担になっていたのかもしれない。

 ティエンは自問自答を口にし、包帯と塗り薬を仕舞うためにカグムから離れる。
 すかさず彼の手が伸び、ティエンの腕を掴んだ。振り返ると、やけに此方をきつく見つめてくる、かつての友の顔がそこにはあった。

「お前らしくねえぞ。ピンイン」

 強まる握力を感じながら、ティエンは軽くカグムの額を人差し指で押した。

「それはお前もだ。カグム。身を挺してまで守るほど、私の価値は高くない。お前は呪われた王子のために、傷なんて作らなくて良いんだ」

 カグムはもう、ピンイン王子の近衛兵ではない。天士ホウレイの兵なのだ。主君がかわったのだから、カグムはもう少し、身の振り方を考えた方が良い。

 たとえ、王族を玄州へ送ることが任務だとしても、先ほどの守り方は傷ひとつ負わせない戦い方であった。

 任務を負った兵のやり方だとは思えない。ティエンが怪我をしようが、骨を折ろうが、カグムは忠実に任務だけこなせば良い話なのに。


「カグム、お前は麒麟の使いのユンジェと違う。あまり、愚かな行動は取らない方が身のためだ」


 彼のティエンに対する思いは、ティエンと生きる誓いを立て合ったユンジェと違う。

 それを知っているからこそ、ティエンはしかと忠告した。もう、自分のために怪我をしてくれるな、と。

 でなければ、ばかな自分はきっと勘違いしてしまう。
 傷付きたくないのに、どこかで期待を寄せてしまう。ああ、何も言わないカグムのことを考えると、本当に疲れてしまうものだ。いつまでも答えが出ないのだから。

「愚かなのはお前だろう。任務で勝手に連れ回しているのは、俺達の方なんだ。怪我を負ったとしても、お前は心中で幸運だと思っておけば良いのに」

 強がりの反論を右から左に聞き流し、ティエンは今度こそカグムから離れる。

 彼はティエンに何か言って欲しいようだが、それには乗ってやらない。

 向こうだってティエンに何も言わないのだ。だったらティエンも今の気持ちをこれ以上、出すつもりはない。絶対に出してやるものか。


(私とカグムの、今の関係に名前をつけるとしたら、何なんだろうな)


 くだらない意地を噛みしめながら、炎々と燃え続けるたき火を見つめ続ける。悩まなければいけないことは山のようにあるのに、ユンジェやリャンテのことがあるのに、愚かにも頭の中はカグムのことでいっぱいとなっていた。