(今日もユンジェと再会できなかった)
ティエンは日没を眺めていた。
あの岩穴から発って、早二日。ティエンは未だユンジェの足跡を辿れずにいる。
すでに平熱となった体温は、調子を取り戻しつつあったが、心は荒れ狂っていた。
あの子と出逢って一年。二日も離れ離れになったことなどなかった。セイウのところに連れ去られた時ですら半日。
ゆえに、いま過ごす時間がとても遅く感じられる。はやく朝になれと願う一方で、一日でも早く子どもに会いたい。ティエンの胸は、そればかり占めていた。
野宿場所を決め、準備を始めても、その思いは留まることを知らない。
不安で仕方がなかった。ユンジェなら大丈夫。あの子は賢く逞しい。
そう思う反面、あの子は寂しがり屋で寒がりだ。夜は寒さに負けて、ぶるぶると震えているやもしれない。
また、つよい孤独感に苛まれる。
ティエンは今、ひとりぼっちだ。
周りに己の肩書きを必要とする者はいても、己を必要としてくれる者はいない。人のぬくもりが、とても恋しい。
「ティエンさま」
背後から声を掛けられ、得体の知れない恐怖感に襲われた。短剣を抜いて、振り返る。
「お、俺ですけど」
そこには軽く両手を挙げたハオの姿。引きつり笑いを浮かべ、たき火に当たるよう促してくる。
夜の森は冷える。
体調を崩さないためにも、火に当たっておけ、と言いたいのだろう。相手がユンジェなら素直に受け入れられるが、ハオは謀反兵。募る不信感は拭うことができない。
「放っておいてくれ」
震える声を抑え、ティエンは短剣を鞘に戻す。
すると。ハオが目を泳がせ、人差し指を回しながら、話題を振ってきた。珍しい。大抵、一言投げれば、それに従うというのに。
「くそがっ……ユンジェがいない今、貴方様にできることは、天降ノ泉を目指すことだけじゃありません。ああ、ほら、もしも再会して怪我をしていたらどうします?」
冷たく視線を投げると、「あれですあれ。あれですよ」と、彼は必死に言葉を選び、こう主張した。
「手当てっ! ティエンさまは俺に手当のやり方や、薬草の知識を教えてほしいと仰ったじゃありませんか。あいつは、逃げ回って疲れているやもしれません。傷を作っていたら、兄のティエンさまが癒して差し上げないと。備えあれば患いなしと言いますし」
懸命に訴えるハオは、自分の持っている薬草で、塗り薬を作ろうと誘ってくる。
たき火に当たりながら、それの作り方を懇切丁寧に教える。彼は努めて笑顔で、そう笑顔で伝えきた。
あまりに似合わない笑顔だな、と思ったが、それは口に出さず、ティエンは思案を巡らせる。
彼の言う通り、塗り薬はあって損がないだろう。その時は使わずとも、旅路で使う時が来るやもしれない。あの子はよく傷を作る。ティエンとしても癒してやりたかった。
「ハオ」
「はっ、はい」
「私は何を準備すればいい?」
「……え」
見事にハオが固まる。ティエン自ら、準備を申し出ると思わなかったのだろう。
「落ちこぼれの王族が準備の手伝いをしては迷惑か?」
「いえ、そんなことは! えっと、それなら湯を沸かしてもらえると助かります。薬草を一度、湯にくぐらせますので。それと、使う道具は煮沸消毒をするので、湯に入れてもらえると嬉しいですね」
「湯だな、分かった」
ハオの脇をすり抜け、たき火へ向かう。
背後を一瞥すると、彼の笑みが崩れ、「クソガキ。俺だけじゃつれぇよ」と、ひどく疲れた顔で肩を落としていた。
たぶん、ティエンよりも、向こうで太極刀の手入れをしているカグムよりも、疲労していると思われる。
正直、ハオの申し出は有り難かった。
作業を始めると、それに没頭できるので、余計なことを考えずに済む。それこそ、己の命を狙ったカグムと会話することもない。ティエンにとって、少なからず心休まる時間であった。
(本当は、カグムに……聞きたいことがあるんだがな)
いや、考えるだけ無駄だろう。
あの男がどのような想いを持とうが、もうティエンには関係のない話だ。きっと、そう、いや、本当にそうなのだろうか。いまのティエンには何も分からない。
夜が更け、そろそろ眠りに就くべきか、と考え始めた頃。たき火を囲む茂みが、ゆらゆらと微かに揺れ、馬の蹄の音が聞こえた。
「賊か?」
ティエンに薬草のすりつぶし方を教えていたハオが、ぎゅっと眉を寄せる。見張り役のカグムが構えを取り、彼に指示を出した。
その間、ティエンは茂みから遠ざかる。
悔しいが、三人の中で一番弱いのは自分だ。ユンジェも言っていた。弱い人間ができることは、強い人間の足を引っ張らないよう行動を起こすことだと。
ここ一帯は賊が多い。だから誰もが賊だと思っていた。
「おっ。たき火が見えたと思って来てみたら、面白れぇ展開になったな」
誰も予想していなかった。
「ま、まさか……貴方は」
「うそだろ。冗談きついぜ」
いや、誰が想像しようか。
「よお、愚図。何年ぶりだ? いや、麟ノ国第三王子ピンイン。呪われし王子さまよぉ」
「りゃ、リャンテ……兄上」
揺れる茂みの向こうから、平民の格好をした第一王子リャンテが現れるなんぞ、誰が想像できるのだ。
緊迫した空気に包まれる中、とうの本人は能天気に馬から降りると、近くの木の幹に手綱を結び、足軽にたき火へ向かう。
それも、寒い寒い、安い衣は風通しが良い、なんぞと手をさすりながら。
カグムもハオも、各々愛用の剣に手を添えているというのに、輩の周りに近衛兵らしき人間なんぞいないというのに、リャンテは素知らぬ顔で火の前で腰を下ろした。
腰に差している青龍刀を地面に寝かせ、片膝を立てる始末。まるで危機感がない。
(何をっ、この人は何を考えているんだ)
たき火越しに向かい合うティエンは、己の喉が急激に渇いていくのが分かった。
圧倒的に有利な状況下にいるのは此方の方なのに、なぜだろう、リャンテの空気に気圧されている。いまなら短剣を抜き、不意打ちも可能だろうに、それすら恐ろしく思えた。
(この人は王族でありながら、武人としても名高い。気を抜いたら、確実に食われる)
息を詰めて相手の出方を窺っていると、「今日は何もしねえよ」と、リャンテが不敵に笑う。
「久しぶりに会ったんだ。可愛い愚弟に武器を向ける気にはなれねぇな」
どの口が言うか。ティエンは心中で毒づいた。
「まあ、座れよ。せっかくの再会なんだ。ゆっくり話そうじゃねえか」
リャンテは己の隣を指さし、自分に座れと命じてくる。愚図にその勇気があればな、と付け加えて。