「カグム。玄州までどれほど掛かる?」

 話を振られたカグムが、どのような表情をしているのかは分からない。ただ、声はしごく驚いた様子であった。

「最低でも、ひと月は見ておくべきかと。馬がないので、なんとも言えません。徒歩で州を渡ったことなどないので。質問の意図を尋ねても?」

「一刻も早く、天士ホウレイの下に行きたいと思ってな」

 それはティエンが自ら謀反兵達と行動を共にする、という意思表明に他ならなかった。

 天士ホウレイの下へ行けば、王位簒奪(おういさんだつ)だの、弑逆(しいぎゃく)だの、厄介なことに巻き込まれるのは目に見えている。

 ティエンは嫌々ながら王座に就かざるを得なくなる。

 懐剣のユンジェだって、ホウレイに取り上げられるやもしれない。

 それでも、いま一番希望が持てる道は、謀反を目論むホウレイの下へ行くことだ。天士なら知っているはずだ。麒麟のことや、麒麟の使いのこと、懐剣となった人間のことを。

 瑞獣の神託を受けることができる、天士であれば、この運命に抗う術を知っているやもしれない。セイウを討たずとも、ユンジェを下僕の鎖から解放してやれるやもしれない。

 ティエンは諦めない。子どもと生きる道を、決して。

    
「こちらとしては願ってもないことですが、ひとつだけ。ティエンさま、ユンジェに少々気持ちを入れ過ぎなところがありますよ。もし、それが折れたらどうするんです」

「お、おい。カグム」

 ハオが慌てたように、間に割って入るが、カグムは辛辣に言う。

 この先、そのような場面があるやもしれない。懐剣のユンジェが折れてしまうことも、過酷な旅ではあるやもしれない。
 しかし、それは懐剣のお役を持っている以上、致し方がないこと。気持ちを寄せることは構わないが、入れ込むと人は脆くなる。

 それを知っておくべきだと謳うカグムは、再三再四尋ねる。ユンジェが折れてしまったら、どうするのだと。

「貴様は不思議な質問をするんだな」

 振り返り、ティエンは柔らかな微笑みを浮かべた。
 その表情を目の当たりにしたカグムは、ただただ言葉を詰まらせる。ティエンの気持ちを察したのだろう。

「ピンイン。お前」

 ティエンではなくピンインと呼んでくるのは、敬語を崩してくるのは、一兵士としてではなく、一個人として接している証拠だろう。

 そんな彼に肩を竦め、ティエンは子どもの腹を軽く叩いた。

「いまの私はこの子を生かすことで、頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないよ」

 ユンジェを失う未来など考えたこともない。
 たとえ危機が迫ろうとも、回避しようと躍起になり、悪足掻きをするだけ。
    
 みんな、そうやって生きているものなのではないだろうか。怯えながら生きる毎日なんて、つらいだけだ。

 ティエンはユンジェの寝顔を見つめ、小さく頬を緩めた

「それはきっとユンジェも一緒だろう。この子も、私を生かすことで頭がいっぱいだ。先のことなんて考えていないだろうさ」

 お互いに静かに、平和に、そして幸せに暮らしたい。それだけしか考えていない。

「この子がいない日々なんて、私には想像もつかないよ」

 荒々しく頭を掻くカグムは、もう何も言わなかった。
 煽る言葉すら見つからないらしい。なんだか誇らしい気持ちになった。言い負かした気分だ。

 ユンジェの重たい瞼が持ち上がる。
 瞳を覗き込むと、それは何度も瞬きをして、掠れた声を出した。力なく口角を持ち上げ、笑みを浮かべる。


「ティエン。おれのこと、助けてくれたんだな」


 子どもはリーミンではなく、ユンジェであった。胸を撫で下ろす。良かった、正気に戻っているようだ。

 ありがとうを口にする子どもは、思い出すことができたと一笑して語り部となる。

「途中で訳が分からなくなったけど、ティエンが呼んでくれたから、おれ、思い出せたよ。自分のこと。不思議なんだ。セイウに呼ばれた時は、心が空っぽになったのにさ。お前が呼んでくれた時は、すごく心満たされた」

 相槌を打つと、ユンジェは少しだけ涙声になって呟く。

「俺、人間のままでいたいな。懐剣としてお前を守ることは怖くないけど、人間でなくなるのは、少しだけ怖いや。なんにも感じなくなるし、頭だって真っ白になるし」

「辛抱するなと、私は教えなかったか?」

「性格悪いぞティエン。ちぇっ、すごく嫌だよ。人間でなくなるの。本音を言えば、お前を守れるかどうかも、ちょっと怖い」

 素直でよろしい。
 いたずら気に笑うティエンを見上げ、ユンジェは目を細めて笑った。


「俺が自分を忘れそうになったら、また思い出させてよ。ティエンが呼んでくれたら、何度忘れても思い出せるから。俺が誰を守りたいのか、きっと思い出せるから」


 そんなのお安い御用だ。
 声が嗄れるまで、呼び続けたって構わない。それでユンジェが心を取り戻してくれるのなら、ティエンは声を潰しても呼び続けるつもりだ。


「ユンジェ。お前はユンジェだよ。私にティエンの名前をつけてくれた、農民のユンジェだ」


 この声が失っても、ずっと。ずっと。